ゴールドラッシュとキリシタン14…禁教令に抵抗した、「アンジェリス神父の最後の布教」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/09/064523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/24/195310

さて、超過激なところを。
迫害だ弾圧だ…そんな言葉が昨今飛び交う事があるが、我々的にはこれらを学んでるので、安易に使う気にはならない。
正直ぬる過ぎて、彼らに申し訳がない。
あれこれ学びの途中だが、彼等を「可哀想」なんて上から目線の感情は我々には微塵もない。
むしろ、最後まで布教をした方に対し失礼だ…これが率直な所。

真の弾圧とは、こちらを指す。
下記の引用文は、幕府側の「徳川実記」やゼズス会(註:イエズス会)、フランシスコ会らへ目撃者からの報告を元に書かれている様で、一致点が多い様様だ。
このブログで稀に彼の事を何故「伝説のバテレン」と書くのか、解るかと思う。


「囚人達は三つの組に分れ、首領とみられた二人のぱあでれと原主水は馬に乗せられ、他のキリシタンたちは徒歩で従った。板に書かれた死刑宣告文を行列の先頭に立て、首領と目された人たちは、そのほかに名前を書いた札を肩に掛けていた。」

「こうして彼等は、我等の聖い信仰があれほどまでに悩まされた往来を、さながら凱旋行列のように、旗を掲げ風になびかせながら進んでいった。~中略~もう五十本の柱が刑場に見えていた。~中略~薪は、それが燃え上がった時にも、少くても柱から一・二尺離れた所で、燃えているくらいに柱から離れた所に置いてあった。方々から見物に集まった群衆は夥しい数であった。~中略~日本の貴族や大名達も大勢いた」

「前略~馬に乗せられたまゝ、下りることを許されなかった三人を除いて、キリシトを奉げる勇者たちを、皆なその柱に縛つた。彼等は憧れの天国へ眼を向け、希望に充ちて最後の闘いに臨む力と強さを願い求めた。併しぱあでれゼロニモは燃えるような熱意をこめて説教を始め、ただ、キリシタンの持つ信仰だけが真の信仰であり、他の信仰はすべて偽りであり、虚しい妄想にすぎない事を示そうとした。」

「それから刑吏どもが松明をその下に投げ込んで薪に火がつくと、焔は至るところ炎々と天に燃え上がり始めたが幸福な人々は、ゼズス・マリアの聖名を声高らかに唱え始めた。あの大きな苦しみの中で皆が何という強固な打ち克ち難い精神を示したかは、とうてい言葉では言い表すことはできない。喚きの声をあげた者、苦しみにもがく者、又は少なくとも顔にほんの僅かでも痛ましい色を表した者は一人もいなかった。」

「ぱあでれたちはこれをすべて馬上から眺めていたが、彼等の精神は挫けず、デウスの聖籠によつて勇気を衰えさせることはなかった。」
「もう火が消えて、それと共に生命も絶えた頃、他の三人は馬から下ろされ、それぞれの柱に縛られた。」

「前略~焔の間から見えた最初ぱあでれゼロニモが江戸の市の方を向いて、この市のために短い祈りを捧げているのが見えた。」

「やがてぱあでれは、風に煽られて火がますます猛烈にぱあでれを襲いかかっていく方を向いて、一つにはそれを怖れないことを示し、また一つには、そこに大勢集まっている民衆に最後の辞を述べようとした。それからぱあでれはいつも真直ぐな同じ姿勢で、周囲な立っている人々に熱心に説き勧めながら立っていたが、遂に火焔に籠られ、倒れた時膝をついて、魂を創造主の御手にかえした。」

「みちのく切支丹」 只野淳 (株)富士クリエイティブハウス 昭和53年9月20日より引用…

江戸の大殉教…
北海道~東北へのカトリック伝来で、ある意味最も縁の深い、「ジェロニモ・デ・アンジェリス神父」の「最後の布教」場面でした。
まぁ日本年報らから抜粋してるので、いささか美化している点は否めない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/17/190920
我々は既に学んでる。

先に信者を火刑にしたのは、アンジェリス神父らを「転ばせ」る為だろう。
聴衆の前で転べば、幕府としては最大のメリット。
だが、複数古書で合致しているので、少なくとも、苦しみとかそんな感情を全く見せず、最後迄信仰を守り抜く姿の様に「そこに居た人々には見えた」のは間違いないだろう。
彼等には彼等の論理、幕府には幕府の思惑があり、種々流れの中でどうやってたらここに至るのか?を学ぶのが大切であろう。
この後、三代将軍家光公からの東北諸藩への禁教令圧力は高まる。

さて…
まさかなんの脈絡もなく、人の最後を引用した訳ではない。
これだけ良くも悪くも信仰心ある人々が、簡単に尻窄みになるのか?

いや、なる訳がない。何とか守ろうとするだろう。
その先を確認中…


参考文献:
「みちのく切支丹」 只野淳 (株)富士クリエイティブハウス 昭和53年9月20日