生きていた証、続報24…郷土料理「貝焼き鍋」と「算用状」に見える、「移動式竈」の可能性と出羽国の豊かさ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/22/192105

前項はこちら。
北海道~東北の生活痕を探す、「生きていた証」…
その中、中世東北に「竈」があったのか?
なかなか、時代を遡る事が難しい。
学びの視点を変えてみよう。
このブログでも散々紹介している「貝焼き鍋」。
津軽~秋田に伝わる郷土料理なので、解りにくい。では、敢えてこれが何か?掘り下げてみて、「竈」の存在の根拠となる事を紹介してみよう。
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これは、『「聞き書 秋田の食事」 「日本の食生活全集 秋田」編集委員会 (社)農山漁村文化協会 昭和61年2月15日 』巻頭写真にある貝焼き鍋(つぶ貝焼き)。
これを踏まえ、本文を引用してみよう。

「子どもも一人前に"ひとり貝焼き" 淡水と海水が混じる八郎潟は"水一升に魚四合"といわれる魚の宝庫。簡単にとれる潟魚はさまざまに加工、料理され、四季とぎれることなく食卓にのぼる。各家の貝焼き鍋の味は伝承されて独自の味覚をつくる。」

「貝焼きは直径六寸以上もあるほたて貝の貝殻を、なべかわりに貝焼き台にのせ、季節の魚、肉と野菜、山菜、ときには豆腐、糸こんにゃくなどをとり合わせ、煮たってきたら、しょっつる、味噌、塩辛、醤油などで味をととのえ、煮ながら食べるなべ料理である。貝焼きなべは、一人に一つずつ別々に仕立てる。~中略~食欲旺盛な男の子に一なべつけてやると、一人前にあつかわれたような気がするのか、喜んではしゃぎまわる。」
「貝焼き台つくりは、冬の間、外仕事のできない左官屋の内職である。貝焼き台は、落着きがよくて火のおこりも早いので使いやすく、どこの家にも四つ、五つはある。」

「前略~潟魚のなまぐささを消す意味もあって、煮ながら、おもに味噌や塩辛などで味つけして食べる。貝焼きを食べない日はない。」
八郎潟の貝焼きは、ふな貝焼き、ちか貝焼きなど、季節の魚を主にしたものや、堰や沼の多い春のつぶ(たにし)貝焼き、夏のどじょう貝焼き、なまず貝焼き、冬の野鳥である鴨貝焼きなとである。このほか、夏は塩くじらの脂身を買って、野菜はきゅうりやなすを細く打って(切って)すり鉢いっぱいに用意しておき、土なべに入れて煮ながら、いさじゃ(筆者註:アミエビ)の塩辛とくじらを入れた貝焼きもよく食べる。また夏の貝焼きには、みず(うわばみそう)を使う。くせがなくて、さくさくと歯ざわりがよく、薄緑できれいなことから、五城目の市日に出かけて求めてきてはよく食べる。」

「つけごは鴨貝焼きや、ちか(わかさぎ)の貝焼きの味のよい汁を利用するもので、炊いたごはんを軽くつぶして茶わんに盛り、はしの先で一口分ずつちぎりながらこの味のよい汁につけて食べる食べ方である。だまこもちやきりたんぽとも違い、手軽においしく食べられるので、秋、冬の夕食や来客があるときは、よくつくるごちそうである。貝焼きは一人一なべ、または二、三人に一なべ、魚やねぎなどを煮ながら食べる楽しい食事である。」

「聞き書 秋田の食事」 「日本の食生活全集 秋田」編集委員会 (社)農山漁村文化協会 昭和61年2月15日 より引用…

この書籍は、明治~昭和初期位を想定し、各地の郷土料理の聞き取り調査を纏めたもの。
この本文は、秋田の中でも貝焼き文化の色濃い南秋(秋田市の北、八郎潟付近)辺りの話で、秋田全県や津軽方面にも同様文化があり、鍋料理全般を「貝焼き」と称するに至る程に定着している。
勿論、男鹿の「ハタハタのしょっつる貝焼き」はこれと同様で、ハタハタを魚醤「しょっつる」で味付けした物。

さて、問題は、このホタテ貝の下のコンロ「貝焼き台」。左官屋の内職と記載あるが、「浦田七厘」や素焼きの貝風呂(冒頭写真)らのコンロを使い煮た鍋…つまり、このルーツに至れば、自然に「移動式竈」に至る訳だ。

現状迄捉えていた歴史は…
「風が吹けば、砂ぼこりが舞い上がるような江戸の初期には、町に舞い込んだ犬がいれば、見つけしだいに捕まえて、料理してしまったという。「武家、町家ともに、犬にまさりたる物はこれなし」(大道寺友山『落穂集』)~後略」
「前略~寛永二十年(一六四三)に刊行された『料理物語』の「獣の部」にイヌがあり、「吸い物、貝焼き」といった料理法が記載されている。」

「「和の食」全史 縄文から現代まで 長寿国・日本の恵み」 永山久夫 株式会社河出書房新社 2017年4月30日 より引用…

以上の通り、江戸初期の古文に、「貝焼き」と言う単語が記され、調理法や道具が周知されていたと推定可能だ。
つまり、貝焼きが一人鍋である限り、その起源を追えば、なんらかのコンロ=七厘ら移動式竈に当たる。
期待したのだが、さすがに「貝焼き鍋」の起源までは乗っていなかった。

では、次の段階…

「一、弐拾石 屋ねふき、かわらやき両人ニ渡。壱人ニ十ツ、御奉行衆墨付御座候。」

能代市史 資料編中世二」能代市史編さん委員会 平成十年七月三十一日 より引用…

これは、慶長五(1600)年十二月七日付けで、安東実季公直轄領の代官の舟川二兵衞がその収支を計算し、重臣の大高又兵衛に報告した「算用状」。
屋根葺き職人と瓦職人へ代金を支払った報告の部分。
別の「御鉄砲衆御鑓衆知行方之帳」らには、鉄砲衆や槍衆を人夫として、屏塗り,奥の蔵,台所の屏下地塗り,蔵屋敷らの左官作業を割り当てた記載が残される。
つまり…
瓦→写真にあるような「かわらけ系」…
左官→従来各地にある「土系」…
石工→我々が調べてきた「石,へっつい系」…
これら三種の移動式竈を製作する技術集団は、既に安土桃山期には秋田に揃い、最低限そこまでは遡れる「可能性」があると言う事になる。
もう少し、「貝焼き鍋」らの起源にも迫る必要はあるだろう。


さて、実は雑談で専門家から聞いた話…
秋田の遺跡発掘で、捏造を疑われる程貝風呂が出土するそうで。
そんな時は角館の「青柳家」らを回ると疑いが晴れるそうだ、何せ七厘,貝焼き台らの実物が現存している。
こんな風に食文化として、ガッツリ根付いていたからだろう。
見ての通り、一人鍋なので、人数分必要、
元服の折りに一人用の貝殻と貝焼き台を貰ったと聞いた事がある…一人前になった証として。
又、貝焼きの汁をつけ食べる「つけご」…これは、今あまり聞かない。
結局、きりたんぽやだまこ鍋に吸収されたのか?
筆者の母からの口伝では「雑炊」なぞ食わなかったと聞いている。また、義父も「黙って白飯を食べろ」との話を。
そう、雑穀を混ぜたり、雑炊で嵩増しするでもなく、元々は「白米をそのまま」食う事自体がこの上ない「贅沢」だったのだ。
少なくとも後に江戸期に佐竹公は、幕府の雑穀奨励を無視したと「秋田県史 民俗工芸編」にある。
更には…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
南部信直公にして、乾燥悪い「廃り米」とバカにされた仙北の米も、江戸期に入り院内銀山開山により改善され、白米だけでなく、保存の為の豊かな発酵食を作る為の「麹」や酒に分断に使う事が出来たと言う事。
勿論、程度問題や地域差はあろうが、出羽国の豊かさは異常だったのかも。

『「食文化あきた考」あんばいこう』と言う本の一説…
天保飢饉の最中に、仙台藩藩命で米の買い付けで秋田に来た気仙沼の大工、「熊谷新右衛門」って方が、「秋田日記」って日記を残してるそうだ。
本人が藩士じゃないので、風俗らを素直に書いてる模様…ぶっちゃけ、カルチャーショックを起こしたらしい。
まずは大工なので、建物。
総二階の遊女屋…
銅板葺き屋根の寺社…
倹約倹約の仙台藩には無いと記した上で、巷がどんな風だったか?
武士と町民が分け隔てなし…
芸者あげて昼から酒盛り…
女性は明るくノビノビと…
女性が新奇髪型で…
才女や美女が至るところ…
こんな感じ。堅苦しい仙台藩とは、別世界に写った様で、驚きつつ淡々と書いてる様で。
これが天保の飢饉最中の出羽国の姿。
この豊かさも、佐竹公入部以前から、安東公や小野寺公ら中世段階で、殖産と交易の基礎がガッチリ作られていた証左だろう。
こんな側面もあるのだ。
一人鍋が出来た…
白米が食えた…
これが秋田の豊かさ。


移動式竈を追う旅は、まだまだ続く。


参考文献:
「聞き書 秋田の食事」 「日本の食生活全集 秋田」編集委員会 (社)農山漁村文化協会 昭和61年2月15日

「「和の食」全史 縄文から現代まで 長寿国・日本の恵み」 永山久夫 株式会社河出書房新社 2017年4月30日

能代市史 資料編中世二」能代市史編さん委員会 平成十年七月三十一日

秋田県史 民俗工芸編」秋田県 昭和三十七年三月三十一日