ゴールデンロード② …「金」だけではない、出羽,陸奥を統べる奥州藤原氏の真の実力

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/180351

ここにぶらさげてみよう。
都へ至るゴールデンロード…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/233328
中世の安東氏については、ここで述べた。
では、その前、奥州藤原氏は?
入手した書籍に、特に経済力に対する記述があったので、そこを紹介してみよう。
何せ、記録が少ない。
広い目で平安期の奥州の潜在的実力と言う考え方で紐解いている様だ。

「奥州から北方にかけての特産物の掌握は俘囚長権力の伝統であったとしても、彼らはそれをどのようにして手中にしたのであろうか。この点については、税として徴収できる産物と、それをさらに交換の媒体として買い入れるといった形で蓄積できる生産物が考えられる。」
「例えば、『延喜式』(延喜五年=九〇五年成立)によると、奥州産の米は全国最大であり、出羽・陸奥国の正税・公廨(官衙用)合わせ約二〇九万束で、他国最高の常陸国一〇〇万束の優に二倍であった。十二世紀代の生産量は不明だが、開発面積はさらに拡大し、生産量もさらに増加したと思われる。よって日本一の米こそ奥州経済の基本であり、この食糧の掌握は他の生産物を収集する大きな基盤であったはずである。ちなみに『延喜式』によると、陸奥国の調庸は広布を中心に狭布・米・雑穀であり、金と馬、そしてその他の特産物は含まれていない。これらは別の方法で徴収されていたのである。」

蝦夷の世界と北方交易」網野/石井 「藤原四代の栄華 平泉」本堂寿一 (株)新人物往来社 1995年12月5日 より引用…

この項目を書いた「本堂寿一」氏によると、ベースは「米」…これの徴収と変換にで、財をなす事が可能だったと指摘する。
既に、秋田城や多賀城が管理していた段階で、東北は日本最大の米産地だったと。
この書籍では、初代藤原清衡は、送り物で摂関家…後に帝や上皇と結んで荘園の管理権を手にし、更に平泉への寺社建立で、寺社勢力、特に比叡山との関係を深め、国司鎮守府将軍の指示をひん曲げるに至っていた様だ。
勿論、国司らとも婚姻らで繋がりを深めて、そこ基盤を拡充していく。
まずは米でこれ。


さて、先に触れた富の象徴は、米だけなんて甘い話ではない。
この時期、貨幣代わりとなるような産物はまだある。
では、同書から「絹」である。

出羽国の絹は他国産絹が出羽国産とされたほど良質であり、十一世紀前半のころは、交易の年料として二〇〇疋進上されていた。」
陸奥国からの交易絹は『延喜式』に知れるかつての大宰府の四〇〇〇疋や但馬国の七三七疋に及ばないが、たとえ六〇〇疋としても東国最大である。出羽国を合わせれば奥州はまさに絹の特産地であった。」

蝦夷の世界と北方交易」網野/石井 「藤原四代の栄華 平泉」本堂寿一 (株)新人物往来社 1995年12月5日 より引用…


更には馬…

「次は馬についてだが、陸奥と出羽は馬の産地として古い歴史があり、特に陸奥国北部は良馬の産地であった。『延喜式』によると、駅馬としての値は陸奥国産上馬六〇〇束・中馬五〇〇束・下馬三〇〇束と定められ、同じく良馬の産地である出羽・信濃常陸・下野より上・中馬でそれぞれ一〇〇束も高かった。よって兵馬としても最高であった。各国には軍団および駅制に対応して兵馬・駅馬の補給のための国牧が設定されたいたが、陸奥国出羽国夷俘(蝦夷と俘囚)域からそれは供給されていた。しかし、以上のような価格てま産地取り引きされたのであれば問題はなかった。狄馬と呼ばれた産地の良馬は個人的に買いあらされ、陸奥国では兵馬にも事欠くという有様であった。陸奥国でこ馬の禁輸令はたびだび出された。」

蝦夷の世界と北方交易」網野/石井 「藤原四代の栄華 平泉」本堂寿一 (株)新人物往来社 1995年12月5日 より引用…

兵馬だけでなく、各地の通信を賄った駅馬でも、夷俘域からの供給、それも陸奥国産が最高値で設定されていた。
だが、横流し横行で、禁止令まで出ている。買い付けは、密売商人や王臣,国司の様な官人迄…
かの元慶の乱の原因にある、国司の横暴もこれらに含まれる様で、手に入れた物を都で売っぱらい、財をなす訳だ。
なんだかんだ、超辺境の地である、出羽・陸奥国赴任した者は、裏の商売をやれば簡単に大儲け出来る「勝ち組」でもあるのだ。


では、極めつけ…「金」は?
「『延喜式』によると金の交易雑物は陸奥国下野国だけであり、陸奥国は砂金三五〇両、下野国は砂金一五〇両・練金八四両とある。下野国の砂金は徭夫(徭役)を使って採掘し、食糧には正税を宛てろとある。金の採掘は大量の人夫徴発が不可欠である。したがって徭夫に依存しなかった陸奥国の労働力は公民に属さない俘囚であったと考えさるを得ない。俘囚長による部下俘囚の統制は産金を制したのである。」

「二代目基衡建立の医王山毛越寺の荘厳について、『吾妻鏡』は「金銀を鏤め、紫檀赤木等を継ぎ、万宝を尽して衆色を交う」とし、「吾が朝無双」(二つとない)と書き伝えた。」
金色堂とは内外とも厚く黒漆を塗り、その上にことごとく金箔を押し、世に"光堂"とも呼ばれてきた平泉文化の象徴である。清衡の遺体は、七宝荘厳の巻柱と、螺鈿細工を施した超豪華な須弥壇の下で、しかも漆に金箔を内外に押したいわゆる"金棺"(ひつぎ)に収められていた。この永遠の魂のカプセルの中には、あまり注目されてはいないが、重さ三二グラムという自然採取の金塊が添えられていた。」
「金については、正和二年(一三一三)の『中尊寺経蔵文書』によると、金色堂の完成に藤原氏三代で金五四万両を費やし、そして清衡が紺紙金銀字交書一切経(国宝)の原典としたと思われる七千余巻の経を輸入したときに一〇万五〇〇〇両(丸田淳一氏によると、中世の換算から一両約二〇グラムとして約二・一トン。一人当たりの砂金採掘量は近世で一ヶ月一人当たり一両の五分の一から五分の三という。「学研歴史群像シリーズ三四『藤原四代』」一九九三)支払ったと伝えられる。これらの法外さは問題としても、『吾妻鏡』によると、清衡は延暦寺園城寺東大寺興福寺のみならず、中国の天台山に至るまで、寺毎に一〇〇〇人の僧侶を集めてお経を上げる千僧の供養を行っており、その園城寺の場合は平安時代の説話を集めた『古事談』によると、砂金一〇〇〇両、すなわち僧侶一人に一両施したと伝えられている。」

蝦夷の世界と北方交易」網野/石井 「藤原四代の栄華 平泉」本堂寿一 (株)新人物往来社 1995年12月5日 より引用…

絹,馬に合わせ「延喜式」の背景と、藤原氏の伝説である。
古書に残される伝説はまだまだ記載があるが、もはやゲップが出そうなので止める…
これで断片のみ、ギャグにもならない。

もはや片鱗を持つ寺社は金色堂のみだが、現物を見れば、その凄まじさが良く解る。
当時、貨幣代わりで通用した、米、絹、馬そして金「のみ」でも、その量と質において断トツなのだ。
そんな経済力をバックに朝廷と交渉しながら藤原氏って勢力拡大した訳で…
昆布や鮭、動物や海獣の皮らも、純粋に儲けの種に過ぎず、オマケとも考えられるのだ。

あまり語られないが、こりゃ院政も貴族も無茶言えない。
真面目に租税&袖の下…
畿内は源平の戦乱やらで荒廃。
で、食糧たる米やその他産物をガッチリ握られている。
完全にパトロンにするしかない感じ満々…

で、そんな都を横目で見ながら、ド派手に経やら陶器やらを海外から買ってきて、寺社にも数々寄進。
失われた平泉の寺社が現存したら恐ろしい。

北海道~東北を束ねるってこういう事なのだ。
これを成功させたのは…
後三年の役後の「清原氏」…
それを受け継いだ「奥州藤原氏」…
絶頂期の「十三湊安東氏」…
この三氏しかいない。
略奪されたと考えられる「清原氏」を除けば、発掘調査でその片鱗は見える。

これが実態。


参考文献:
蝦夷の世界と北方交易」網野/石井 「藤原四代の栄華 平泉」本堂寿一 (株)新人物往来社 1995年12月5日