古書に記される、鉛山「太良鉱山」とは?…特別展示と地方史書に学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/17/201849

安東氏の書状に見える鉱山王国の片鱗…
実は、この記事を書いた直後、新聞らで特別展の話が出ていた。実にタイムリー。
白神山地世界遺産センター藤里館」で、藤里町歴史民俗資料館出張特別展示「白神の鉱山『太良』展」である。(藤里町歴史民俗資料館は冬季閉館中)
せっかく学んだ山師や石工を含む痕跡。
行ってみた。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1363435948353196034?s=19
前項で書いた様に、太良鉱山からの「鉛」が安東実季公の財源となったのは、その運用状や、阿仁方面の年貢米を鉛山の食用含め利用した算用状で明らか。


さて、藤里町白神山地の麓、青森県境で、能代市大館市のの境目。
この「太良鉱山」は米代川支流の「藤琴川」上流で、白神山地の中にある。
古くは、藤琴川沿いは縄文遺跡、白神の逆側には亀ケ岡らもあり、古代から人が住んでいた痕跡を残す山あいの静かな町。
では、「太良鉱山」とは?
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これが、主産物の「方鉛鉱」と延べ棒。
「鉛鉱山」だった。
ただ、SNSの通り、古い歴史は記録が少なく、展示でも殆ど触れられていなかったので、そこは「藤里町史」から引用してみよう。

「太良村は専ら鉱山の村で、その起源興は矢櫃沢鉱山と前後して文永年間(一二六四~七五)に開発されたと伝えられている。もっとも、それより四〇〇年前の大同年間(八〇六~一〇)という説もあるが記録的確証はない。」
「この地は、鉱山のみの村だけに「大坂屋、仙台屋、松坂屋などを名乗る者住みたる。」(太良山神堂棟板記録)を見てもわかるように諸国の鉱掘りの寄合いで、行政は藩直接とみうけられるが確かな記録もなく、肝煎、里正、戸長等の任命などの言い伝えはない。」
「太良鉱山の起源は、一般的には文永年間(一二六四~七四)と言われているが、『太良鉱山沿革史』や船遊亭扇橋著『奥のしおり』によれば大同年間(八〇六~八〇九)に開発されたことも一説として伝えている。また、菅江真澄が太良鉱山紀行の折(一八〇二)愛宕神社で「大同の年号のある鰐口鐸があったが、いつの時代に盗まれてしまった」という鉱夫たちの話も記述されている。「大同」という時期が特定されていることは、何らかの時代関連があったのであろうが、いずれにしても決定的な根拠ではないようだ。」

藤里町史」 藤里町史編纂委員会 平成二十五年十一月一日 より引用…

実は、現在多く語られるのは物証乏しいものの鎌倉期開山だが、伝承は立証出来ていないが平安期迄遡る説がある。全くの無根拠では無いようだ。
逆に「尾去沢鉱山」にも同じ頃開山伝承がある事が、絶妙にリアリティを上げている。
何故なら直前に「百済王慶福」により陸奥国の砂金が発見され、奈良大仏建立成功に漕ぎ着けた朝廷が、その後探索を続けない訳が無い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
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https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/192546
地方から都へ向かう「ゴールデンロード」を繋いで当然なのだ。
ましてや「白神の鉱山『太良』展」にあるよう、太良鉱山では黄銅鉱ら金銀銅,亜鉛らも含む鉱石の産出もあり、引用にあるように当初は「金山開山」が伝承。
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この点に於いてだけなら、矛盾はない。
古代より金→銀→銅→鉛と至るのは自然ではある。
まずは古からの伝承…
一人目のキーマンは「安東氏」…


さて、二人目のキーマンは?
佐竹義宣公入部から特に鉛山として採掘の拡大が図られる。
そのキーマンが「梅津政景公」、そして「菅江真澄」。
この方は下級から藩家老まで上り詰めた方で、秋田では「梅津政景日記」を記した方で知られる。
久保田藩創成期の様子を事細かに日記に記してくれたお陰で、概ねその時代や義宣公や藩としてどんな判断を下していたか解ると言う。
かなり、太良鉱山周辺の経営等に力を入れていた様だ。
そしてこれが前項の通り…
太良鉛鉱山の「鉛」
+阿仁銅山の「銅」(院内銀山の「銀」)
二ツ井の「凝灰岩」
→「加護山製錬所」&米代川水運
ここに至ると言う訳だ。

そして菅江真澄は語らずとも、諸国を旅しながらその紀行文を残し、晩年は秋田で過ごした。
当然、藤里町や太良鉱山の事も書かれているので、状況が解る訳だ。
で、この時代は?

「太良山神堂の宝物(県指定重要文化財)の鰐口によれば、「慶長十六年七月吉日内山善右エ門寄進」とあり、慶長十六(一六一一)年は今から約四〇〇前である。この社殿は後に建て替えしたようで~中略~棟板の中に嘉永四(一八五一)年矢櫃(不明)に太郎(以下不明)の文字が見受けられるものがあり、この年代には矢櫃沢鉱山は休山となっており、太良鉱山に吸収されたものと推測される。」
「また、太良鉱山には享和二(一八〇二)年諸国を紀行した菅江真澄が二度ほど訪れ、鉱山の人々の暮らしなどが詳細に記述されている。(本史「菅江真澄紀行」の項を参照)。」
「朝早く出かけてみると、精練所でたくさんの女の子たちが「お台所と川の瀬はいつもどんどんなるがよい」と作業唄をうたっている。フイゴもなり、山神堂や薬師堂もあり、川を隔てた愛宕堂の山はそびえたち、雪がまだあった。」
「この鉱山の坑道の数は分からないほと多いが、太郎作淵の坑道は六八、高さは八尺、幅が六尺という。~中略~今は盛んに掘り続けて山谷を問わず蜂の巣のようにあり、千余りの坑口があるという。」
「鉱山の川向にある。愛宕山に登ろうとして大勢の人たちに加わった(この日は愛愛宕堂のお祭りのようだ)。~中略~遠い昔から祀られていたのだろうか、大同年間(八〇六~八一〇)の鰐口鐸があったが盗人にとられたという話である。なかむかし、この鉱山では鉱石が湧くように掘られ、鉛とたくさん噴出して栄えたと、火を焚き、弁当を開いて酔い昼食をとった。」

藤里町史」 藤里町史編纂委員会 平成二十五年十一月一日 より引用…

菅江真澄が描く「太良鉱山」の片鱗。
賑やかだった様子が少し窺える。


その後も明治維新の「富国強兵」支えたが、大正で一時途絶えた採掘は、昭和で復活し戦後復興の一翼を担う。
昭和30年代の水害で森林鉄道が壊滅。
森林深き場所故物流を奪われた上に、鉱物価格の下落により、600年の山の歴史を閉じたと「白神の鉱山『太良』展」にはある。
では、近代の様子は?

「太良鉱山の最も盛んであったのは、明治の後期から大正六(一九一七)年までの名取山長時代であった。分析所のほか溶鉱爐の煙は勢いよく登り、また銅鉛鉱は日ごと運ばれ、鉱山の集落は鉱山事務所、役宅、鉱夫長屋のほか集会場があり、呉服商、雑貨商、荒物屋、菓子屋、履物屋、理髪床など日常の需給施設があり、学校、山神社、曹洞宗宝源庵(古くは浄国寺)と称する寺院があり、栄えを極めた。」
「しかし、しだいに鉱石の産出量が減少し、銅亜鉛など値下がりのため、大正六年に突如休山が告げられた。従業員たちは小坂、足尾、日立鉱山などへと四散して溶鉱炉の火は消え、やがて解体された。現在、太良鉱山跡にある大煙突は、新式大溶鉱爐設置工事中のもので休山急変のため遺蹟となったのである。」
「さらに太良鉱山は、昭和十年に再び開山採鉱したが、昭和三十三年夏の大水害で二三年続いた採鉱も十一月に休山となり、次いで廃山となったのである。」

藤里町史」 藤里町史編纂委員会 平成二十五年十一月一日 より引用…

古書らにある通り、かなり昔から鉱山町が形成されていたのは、想像に易しい。
何せ、今も秋田県北を中心に展開するスーパーマーケットの2号店は「太良鉱山店」…秋田の方は良く知っている。詳細は是非こちらへ行き、見て戴きたい。
これが太良鉱山の沿革。
この周辺の産業の一角を占めていたのは、大体解って戴けたかと思う。


白神山地世界遺産センター藤里館」は、元々は、白神山地世界遺産登録に合わせた展示をしていて、ブナの森の自然がどんなものか?らを学べる様になっている。
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子供連れでも十分楽しめる。


さて、残念ながら、「生きていた証…竈」の痕跡や古い時代の確証に触れる事は出来なかったが、伝承なら古まで辿り着けた。
東北へ繋がっていた「ゴールデンロード」が北海道迄繋がれば「黄金の国『ZIPANG』」の全容が見えて来るだろう。
そして、それこそ日本史が世界史と直結していた証でもある。
何せ、世界中の人々が「ZIPANG」を目指していたのだから。


参考文献:
藤里町史」 藤里町史編纂委員会 平成二十五年十一月一日