生きていた証、続報25&通商の民に不足する物③…アンジェリス&カルバリオ神父が記した「シーパワー『船』&ランドパワー『馬』」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/04/052124

前項、関連項はこの辺になるか…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
この項に続き、「蝦夷の世界と北方交易」 網野/石井 からの論を紹介する。
「鉄を中心にみた北方世界-海を渡った鉄-」、福田豊彦氏の著。
予め…
福田氏は、基本的に新北海道史ら「普通に語られる史感」で内容を書いている。
なので「コシャマインの乱」はあり、擦文→アイノ文化へ至った…この史観で書かれている前提がある。
その上で、東北の製鉄らの状況や、北海道~東北への鉄器の伝播らを検討し、北方の姿を報告している。

勿論、製鉄と鉄器についてもいずれ取り上げたいが、我々的にはもっと食い付きたい内容があった。
通商の観点で、
シーパワー…『船』
ランドパワー…『馬』…これについて言及している。
どちらも「通商の民に不足する物」、「生きていた証」なのだ。
それも、伝説のバテレン「アンジェリス&カルバリオ神父」の報告からとなれば、大好物…
では引用してみよう。

「報告によると(筆者註:アンジェリス,カンバリオ神父の事)、ラッコの皮と鷹や鶴、鷲の羽などを持参したメナシのアイヌが東方から、中国の緞絹に似た織物(山丹錦)等を持参したテンショ(北海道西海岸の天塩だけでなく樺太に居住する人々も含んだ呼称)のアイヌが西方(北方)から、船を連ねて松前に来ている。それはラッコを持参したメナシのアイヌだけで百艘、一艘に日本の米俵二百石を積める大船もあったというので、後世のアイヌ社会には見られないものである。~中略~「松前殿は日本人ではあるが彼らの王でもあった」としたカルワーリュ(筆者註:カルバリオ神父)の評は、この朝貢関係を前提としたものである。」

「ここでのアイヌの役割は中継交易である。アイヌは、後世には考えられない旺盛な海洋交易民であった。中世の日本は、琉球蝦夷地という、本州の両端に活発な中継貿易民を持っていたことになる。」

「一方、本州から松前へは、毎年三〇〇艘の船が米・麹・酒などを運んでおりアンジェリスの乗った船は二二反帆の大船であった。これらの船便には、日本海沿岸航路の他に、佐渡から松前への直行便もある。瀬棚内(瀬棚)に直行した船も見えるし、蝦夷人がそこへ川を船で商いに行くとも記されている。松前の他にも、いくつかの河港に交易市場が繁栄していたであろう。」

「報告によると、牛と羊はいないが馬は多く、それはヨーロッパの馬にすこぶる近似する馬で、男女とも乗馬に巧みであったという。とすれば近世支配の過程で、アイヌは牧畜と乗馬の習慣も喪失した事になる。北海道のドサンコといわれる野馬は、本州から持ち込まれて野生化したとの説があるがそれもおそらく謬説であろう。」

松前に来た蝦夷人の船には、二百石積の大船も含まれ、七〇余日の航海をしてきた者もあったが、男女・子供まで家族一緒であった。報告の時期は夏に限られていたにしても、これを狩猟民とみるのは無理だろう。彼らは陸上では、夜になると、背負っていた四本の棒と二枚の莚で小屋を組み立てたという。鉄鍋についての記述はないが、こういう生活には壊れ易い土器は適さず、鉄鍋と木製の食器、室内の火処は自在鉤に囲炉裏とみてよいであろう。」

「これより半世紀以上も前、同じ耶蘇会士のランチェット~中略~が一五四八年頃に作成した報告には、蝦夷は日本の北東にある非常に大きな国とし、「その住民は大小の船に乗って日本と戦いに来るが、陸地に陣を張らず、海賊のように沿岸に沿って盗み歩き、すぐ逃げてしまう」と述べている~中略~これはランチェットが、インドのゴアで鹿児島生まれの漂流民ヤジローから聞いた話と推測される伝聞史料であるが、時期はアイヌの反乱が相次いだ松前氏の覇権未確率の頃であり、倭寇に匹敵するアイヌの海洋民的性格を記した史料として無視できないであろう。」

蝦夷の世界と北方交易」 網野/石井 「鉄を中心にみた北方世界-海を渡った鉄-」 福田豊彦 1995年12月5日 より引用…

アンジェリス&カルバリオ神父が見たのは…
百艘にもおよぶ船…
中に二百石積みの大船…
そして、
この段階で西洋に近い馬…
随分、現状語られてる話とは違うが。

二百石船と言うと、小さい印象もあるかもしれない。
後の時代、「北前船」の花形は千石船だ。
比較したくなるが、そこが間違い。
千石船は、その大きさから、主要湊へしか入れない。秋田で言えば、秋田湊。
結局、そこで積み換えして、中規模の能代湊や由利湊らへ廻す事になる。
そこで使われたのが三百石未満の船。
つまり二百石船なら、どの湊にも入港出来る中では大きい部類且つ、取り回しの良さで沿岸物流の主力みたいなものだ。
全く小さくない。

ところで、福田氏の史観は、先述の通り。
だが、それですら、擦文→アイノ文化への変遷には「農業も馬も船も失う」と言う矛盾があり、中世の見直しは必要だと指摘している。
そう…
アンジェリスらが見た北海道…と、
最上徳内らが見た北海道&幕末から記されている近代アイノ…と、
本当に繋がっていないのは、実はここなのだ。

因みにこの福田氏は、
①ルイスフロイスが「秋田湊に夷船が来ていて、秋田からもたまに北海道へ行く」事を記している
②蠣崎氏の大殿が「安東氏」だという事
この二点にはなるべく触れぬ様に書いてる。
だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
蝦夷船のドッグは、秋田湊(または檜山)または田名部だったりする。
北海道にドッグが見つからぬ限り、もはや「通商の民」を名乗るなら、安東&南部氏を外す事は不可能。
船を失ってしまう。
ましてや、安東実季公は、蠣崎氏独立後も平気でラッコやアシカの皮や鮭らを平気で入手している。

馬も、男女共に乗馬慣れしているとは。
蹄鉄が普及したのは明治以降、それまではあっても藁製…残る可能性は低い。
馬の物証は、今後も追う必要がある。

さて、船も馬も…
古書上での状況証拠は出て来た。
中世~江戸初期の蝦夷衆の姿も、随分イメージとは違って来たハズ。
上記通りなら、蝦夷衆は陸に住む者と海に住む者、二部族必要になる。
海の部族はむしろ、海を棲み家とするが如し。
何故船も馬も無くなるか?
まだまだ先は長い…


追記しておこう。
アンジェリス&カルバリオ神父が見た蝦夷衆の容姿とは、この様な感じ。
https://twitter.com/gurinhiguma/status/1364404845642309633?s=19
https://twitter.com/gurinhiguma/status/1364487401096142849?s=19
https://twitter.com/gurinhiguma/status/1364514745659785218?s=19
色々話は出るが、幕末から伝えられる姿とは少々イメージとは違っていると思うのだが。



参考文献:
蝦夷の世界と北方交易」 網野/石井 「鉄を中心にみた北方世界-海を渡った鉄-」 福田豊彦 1995年12月5日