生きていた証、続報26…ユカンボシC15遺跡に残された北海道江戸期の『馬蹄跡』の存在

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/24/145700

前項では、
シーパワーの要…『船』
ランドパワーの要…『馬』の存在をバテレン達が報告している事を中心に報告した。
ただ、我々的には馬具や生物遺存体ら、物証が欲しくなる。

時代や背景は別にして、その物証を引用してみよう。
後に気づいた点等挙げてみたい。


「D~G・25~26におけるⅠ黒層上面でTa-a(筆者註:1739年降灰の火山灰)が詰まった弧形・楕円形・半円形の浅井馬蹄が多数かつ方向性がない状態で検出された。馬蹄跡の最大幅は残りの良いもので9cm前後である。」
「本遺跡の馬蹄跡の大きさにもばらつきがある。最大幅の平均は9cm前後であり、ユカンボシC2遺跡例よりは小さい値である。この値はトカラ馬などの日本産小型馬の範疇にあてはまる。」
「本遺跡とユカンボシC2遺跡との距離は約500mと極めて近いこと、同じ土質(Ⅰ黒層上面)に遺存していたこと、馬蹄跡の時期(Ta-a層降下直前)がほぼ同じであること、現在の日本産小型馬の分布は愛媛県野間が東限であることより、最大幅の平均がユカンボシC2遺跡例に比べて小さいことは同一種(北海道和種馬)における年齢構成の違いの可能性が高い。しかし、過去により小さい馬が存在していた可能性もある。」

「北海道における馬の遺存体例は縄文時代と云われている3例を除くと、上之山町勝山館(上ノ国町教育委員会『上之国勝山館Ⅳ』1983年、『上之国勝山館Ⅷ』1992年)と寿都町津軽陣屋跡(寿都町教育委員会寿都町文化財調査報告書Ⅱ』1983年)の2箇所である。」
「勝山館跡1983年例では幼獣と老獣近い成獣が出土しており、成獣は上臼歯列長・中足骨長わり北海道和種馬などの日本産中型馬の範疇に入る。時期は15世紀後半~16世紀末である。津軽陣屋跡例も成獣で橈骨長・脛骨長より北海道和種馬などの日本産中型馬の範疇に入る。時期は安政2(1856)年~慶應4(1868)年である。出土例は極めて少ないが、道南地方の15世紀後半~16世紀末には北海道和種馬が存在していた事がうかがえる。」

武家の乗用としての飼育は天正11(1589)年に初出資料があり、享保4(1719)年にはすでに北海道和種馬が成立している。また東蝦夷の運搬用馬の育成は寛政9(1797)年には始まり、寛政10(1798)年江戸幕府によって本格化した。石狩低地帯の千歳会所~ビビ舟着場においては遅くとも文化(1804~1818)年間には車馬による陸運が行われていた。」
「ところで、ユカンボシC15遺跡の馬蹄跡はTa-a火山灰降下直前の痕跡である。噴火は元文4(1739)年7月14日である。1739年以前でかつ千歳市付近と特定できる馬関係の文献史料はない。」
「しかし、間接的な状況を示唆すると思われる3件の文献より、2点の要点があげられる。寛文9(1669)年シャクシャインの蜂起に関する『寛文拾年狄蜂起集書』と『蝦夷蜂起』によると寛文年間頃は少なくとも静内町までは馬が通じていたこと。天和元(1681)年頃成立『松前蝦夷図』によると「しこつ」という記載の周辺に陸路部分が千歳市北東部~千歳市美々8遺跡にあたることである。上述の2点をもって1739年の馬蹄跡を解釈すると、東蝦夷地の海岸部にいた馬を千歳市北東部において飼育・使用していたと考えることがでぎそうである。」

「当時の東蝦夷地の海岸部と内陸を結びつける人々の動きに砂金採取がある。~中略~千歳市周辺において砂金採取の物資運搬のために飼育・使用されたと考えられないだろうか。なお、伐採に関わって内陸部へ人が入ってはいるものの、南部地方からの季節労働者であること、徒歩で山を渡り歩いていることから馬の飼育・使用は行っていなかった可能性が高い。」
「次に千歳市周辺のアイヌ民族は馬を知らなかったかどうかが問題になる。~中略~東蝦夷地の海岸部に住むアイヌ民族は馬を知らなかったと解釈できる。しかし~中略(筆者註:前項のアンジェリス神父の報告の件)~松前地方のアイヌ民族は馬を大変よく知っていた。」
「また、ユカンボシC2遺跡において、馬が描かれた漆製品を副葬した土坑墓が発表されている(豊田宏良「ユカンボシC2遺跡」『1994年度遺跡報告会』北海道考古学会1994年)。豊田氏によると土坑墓もTa-a層下位から検出されたが馬蹄後との時期関係は不詳であるとのご教示を受けた。これらの事から千歳市周辺のアイヌ民族が馬を全く知らなかったとは言えないのである。」
「1黒層上面の裸地状態はこの時期の遺構がないのとから人為ではなく、馬の恒常的な生息に起因している可能性が高い。馬蹄跡が多数かつ方向性がない状態で検出さたこととも一致する。このことは放牧の可能性を支持する。」
「いっぼう、噴火した日時は元文4年7月14日直前の馬蹄跡であり、上記文献によると利用の最盛期にあたることになるので放牧されている頭数は少ないはずである。このことは利用頻度の低さか野生化のいずれかを支持する。ただし野生化説を採るならば、いつの時点でそうなったかということになり、北海道和種馬の起源なついて更に問題が深化する。以上より2件の可能性を併記して一応の結論とする。千歳市周辺において砂金採取の関係者かアイヌ民族か、或は両者が係わりを持って飼育・使用していた。またはそれが野生化した。」

「北海道和種馬は享保4(1719)年にはすでに成立している。北海道和種馬は運搬用として寛政11(1799)年から明治にいたるまで南部馬との交配による品種の改良が行われている。~中略~江戸時代から現代を通じて南部馬の体高は北海道和種馬より高く体型に差があったことを示している。」
「亜種としての固有の性質(筆者註:体高が低い等)があった場合は江戸時代より以前に北海道和種馬の成立を考えなければならない。」
「小林和彦「前川遺跡から出土した動物遺存体」『前川遺跡』田舎館村教育委員会1991年)よれば、青森県内の古代馬には小型馬と中型馬の二種類がある。~中略~中世以前の東北地方における混在は、新しく弥生時代朝鮮半島か入ってきた中型馬に対して、それ以前に入っていた小型馬との混在を示唆する。~中略~青森県の例より、中世の北海道でも小型馬と中型馬が混在していた可能性は否定できない。」

「では、中世の北海道で小型馬と中型馬が混在していたとすれば、それ以前はどのような状況であっただろうか。残念ながら擦文文化期に遡る馬の遺存体の出土例はない。ただ存在を類推させるものがある。奥尻町青苗貝塚遺跡の投棄溝出土の杯~中略~に描かれた線刻画である。杯は擦文文化期の最終末の形式であり、暦年代は12世紀後半にあたる。~中略~奥尻島にはミヤコザサが自生しないことより、擦文文化期の奥尻島に馬がいた可能性は低い。馬の遺存体の出土例はミヤコザサの自生地域内において期待される。」

千歳市ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日 より引用…

以上である。
色々検討してはいるが、上記の通り誤植が多く、寄稿した方は興奮しながら書き直しつつ書いてるのが推測出来る。
途中にある、「ミヤコザサ」は北海道和種馬の越冬放牧の主食として必須で、平均平均積雪1m以下の地域に相応し分布だそうで。検討者は、結論として「砂金採取者又はアイノ或いは両者が飼育・使用、またはそれが野生化」と締めくくる。

では、気になる点を列挙しよう。

三件ある、縄文の馬にはそれ以降全く触れていないのは何故?

「北海道の馬の歴史」の話なのに、アイノに拘る必要ないと考えるが…
誰が運用しようが、それが「北海道の馬の歴史」であるに代わりはない。
とはいえ、実は、『「砂金採取者又はアイノ或いは両者が飼育・使用、またはそれが野生化」』この部分の後の引用文は、北海道の馬の起源について付記している部分故に、全体を構正した人物と検討者との意見が食い違った可能性もなきにしもあらず。
全体構正者…古代に馬は居ない説
検討者…古代から馬は居た説…故に付記した、と言う訳。
我々的には、アイノが「通商の民」なら、
道南,十三湊,秋田湊で馬は散々見てるだろうから、便利なものなら買ってでも使って当たり前だろう、ましてや南部は馬の産地。まぁ、普通に当たり前に、痕跡探してから関連性を追うのが当然と思うが。

引用出だしの部分を見て戴きたい。
この遺跡に於いて、樽前山の降灰痕跡160
0年代のTa-b層は検出されていないそうだ。だが、同様に馬蹄跡がある「ユカンボシC2遺跡」も含め、Ta-a(検出ある1700年代降灰)とTa-b(検出ない1600年代降灰)の間に嵌まる褐色土層が検出されている。
これを「0黒層(Ⅰ黒層の上の土層の意)」と表現している。
この「0黒層」は、馬蹄跡がある区域の真隣区域でも検出されている。だが、この馬蹄跡の区域にはそれが見当たらない。
仮に、この「0黒層」が出来た後にその上を馬が歩いたのなら、その重量と圧力で、褐色土層は残るだろう。
しかし、発掘段階ではない。Ta-a火山灰が嵌まるだけなのだ。
つまり、盛んに金掘やってた1600年代についた足跡の可能性も十分にあると考えるが、如何だろうか?
勿論上記通り、その点には言及していないが。

何故「馬を使う蝦夷衆と使わぬ蝦夷衆がいた」と考えないか?
この様に、最低江戸期まで馬の痕跡あるが、近世アイノは馬を知らなかった「設定」になっている。
なら端から、知る人々と知らぬ人々が居る…こう考えて当然だと考えるが。
何せ、「諏訪大明神画詞」では「日ノ本,唐人は馬を使わぬ」とわざわざ書いてる。
なら渡党は?馬を知っていた可能性も排除出来ないが。まして中世~近世の話で、検討者は古くから馬が居た可能性を検討しているのだから。不思議なのだ。
そう考えると、縄文~中世~江戸初期迄馬の歴史は繋がっていたと仮説化出来て来るだろう。食う対象でないなら炭化遺存体には引っ掛かりはしないし、個体数がどの程度かも別ではあるが。

①~④を鑑みれば、北海道の馬の歴史は、「下限1700年代、上限不明」が妥当ではないか?
まぁ江戸初期には馬が運用されていたのは、間違いなさそうだ、それを運用したのが「誰であれ」。
これで、馬具でも確認出来れば、古代から馬が居た可能性が徐々に上がってくる。

これも、「生きていた証」。
そので生業を営んでいた証だ。



参考文献:
千歳市ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日 より引用…