時系列上の矛盾…「斎串,祭祀場」との関連性を見る為、能代「樋口遺跡」を確認してみる

https://blog.hatena.ne.jp/tekkenoyaji/tekkenoyaji.hatenablog.com/edit?entry=26006613697116840
前項で「イクパスィ」とされた物が、「斎串」と非常に似ており且つ樹種が本州か持ち込まれた「ヒバ」「スギ」だと言う事を述べた。
なら、本州側の秋田の「斎串」らも当然確認せねばなるまい。
秋田で見つかっている「祭祀場跡」は5ヶ所。

能代営…能代の樋口
秋田郡衙…五城目の中谷地
秋田城…秋田の秋田城内
払田柵…美郷の厨川
由利柵…由利本荘の上谷地

発見された城柵又は比定地の近辺だろうと推定されている。
せっかくなので、資料館らの展示を見た事がない能代の遺跡で確認してみる事にした。
と、言う訳で能代の「樋口遺跡」の発掘調査報告書を引用してみよう。


「調査で検出された遺構は、捨て場3、井戸跡1、樋跡1土坑5、抗跡3、柱穴様ピット7の合計20基である。これら遺構は、調査区南側斜面のⅧb層で検出されている。Ⅷ層の下位から白頭山苫小牧火山灰が検出され、ほとんどがブロック状で混入しており、再堆積と考えられる。遺物や遺構はすべて火山灰より上位で検出されており、検出された遺構の時期は10世紀後半と判断される。」

「(筆者註:捨て場ST27)Ⅷb層面で遺物が集中する遺構である。」
「遺物には土師器の杯・甕、須恵器では甕があり、砥石のほかに、木製品として、斎串・ヤスリ状の木製品・箆状木製品・下駄・曲げ物・刀子・刀の鞘が出土している。」
「斎串は25点あり、頭部を山形状に面取りし、先端部を削り出したA類~中略~頭部の下をわずかに須簿ませて、その下と中央部分をささくれ立たせたB類~中略~がある。このほか、両端を削り出した24と、一端を丸く削り出した棒状の25も斎串とした。斎串は材質は全てスギである。」
「(筆者註:ST30)遺物には土師器杯・皿・甕・壷があり、砥石のほか、木製品には斎串・檜扇・ヤス状木製品・木札状木製品・箆状木製品・曲物の底板・刳り物・アカスクイ状木製品などがある。」
「斎串には、A類とB類のほかに幅の広くなるC類(45・46)のほか棒状の50や、一端を丸く削りだした54がある。51は何らかの部材の可能性がある。」

「調査では、調査区のほぼ中央部の緩斜面全域で遺物の広がりが認められ、遺物が集中する3箇所を捨て場遺構として認識したが、出土する遺物の種類などから見て調査区の全域が一つの捨て場として捉えることも可能である。」
「木製品には、斎串をはじめとして多くの木製品が出土しているが~中略~木製品は、器種により使用される材質が確定される傾向が見られる。斎串や檜扇、曲物の底板などには圧倒的にスギを利用する~後略」
「樋口遺跡の祭祀的な木製品には武器の形式が皆無である~中略~ある程度安定した時期を迎えていたことの証左になるかも知れない。」

「樋口遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書ⅤⅧ-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成18年3月 より引用…


元慶の乱で焼かれた「秋田郡衙」の祭祀場跡「中谷地遺跡」では、剣ら武器の斎串もあったのですが、後のここにはそれが無いのは、「戦乱が収まった証左」とされた理由。
上記通り、材質はほぼスギ、立地も水辺の緩斜面へ流れ着く様分布するのも同じ。
事実、二冊の発掘調査報告書を並べてみれば、酷似しているのは見てとれる。
それが、
北海道に行けば「送り場跡」…
本州では「捨て場跡」=「祭祀跡」
と表現されている「可能性」がある。
この時代まだアイノ文化は生まれていないのにだ。
まぁ北海道で、こんな見方で解釈しないだろうが。

それぞれの発掘調査報告書を並べてみれば、その堆積の仕方らが似たり寄ったり。
当然だ、水に流され…
貯まっていくから、水面近くの形に沿い溜まる。
近辺に柵列跡でも見つかれば、そこが陰陽師や行者の祭祀場跡で説明可能。

物により樹種が決まるのも似てるし、陰陽師含めた朝廷役人は、刀子と砥石は携帯。
持って行った板から即木簡削り出して使うのだから、形状がまちまちなのも、その場で作ったからで説明可能。
で、この時代、まだアイノ文化はない。
萌芽するとしたら、これら陰陽師や行者の祭祀を真似るか習うかする事になっちゃうと考えたら合理的、何せ、行き来ある先にいるのだから。

勿論、筆者は千歳市ユカンボシ遺跡全ての発掘調査報告書を読んだ訳ではないし、これで決まりなぞと言う気もない。
しかし、何故こんな視点での検討がなされないのか?甚だ疑問なのだ。
そもそも古墳文化見る限り、「江別,恵庭古墳群」が7~8世紀を想定している段階で、概ね同じ構造の岩手の「江釣子古墳群」らと同じ位の構築年代。
更に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
こんな話もある。
それらを鑑みれば北海道は、青森(津軽)~秋田の日本海側より、朝廷文化が入るのが早い可能性さえあるのだ。

だから我々は言う。
古代から北海道と東北は繋がっている。
それが途切れた事はない…と。
だが、交流が途切れず続いていたハズなのに、近世アイノ文化とは繋がらない。
この斎串にしても、御幣(ホデキ棒とイナウ)みたい。
使い方がめちゃくちゃ、「似て非なる物」。
つまり、陰陽師や行者,イタコらの「業の奥義」までは、近世に至る前迄に途切れている…「通常言われるアイノ文化」に於いては。
つまり、近世の手前の何処かで「途切れる何か?」が発生し、旧来からの文化と隔絶してると考える事も可能。
何故そんな事が言えるのか?
『東北では継承・伝承されている』からだ。


いずれ、少しずつ解ってくるだろう。
祭祀場跡は官衙と組み合わせ。
陰陽師は貴重な人材、城柵規模でも独りしか居なかったと推定されている。
陰陽師又はそれに類する者が派遣されていてら、近辺に最低限なんらかの「官衙」あって然るべし。
それも、古書に習えば、「日本書紀」にある「渡嶋津軽津司従七位上諸鞍男ら六人を靺蝎国へ派遣」…これに連なる可能性も否定出来ないと考えるが。
素直に思考出来れば…だが。

さて、出土品が仮に「斎串」だとすれば、正規の使い道で使用されたのは、何時までなのか?
これが解れば、何故「擦文文化」と「アイノ文化」が隔絶するか?、何時から隔絶したか?
解ると思うが。



参考文献:

「樋口遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書ⅤⅧ-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成18年3月

千歳市 ユカンボシC15遺跡(3)-北海道横断自動車道(千歳-夕張) 埋蔵文化財発掘調査報告書-」 (財)北海道埋蔵文化財センター 平成12年3月31日