生きていた証、続報27…室蘭市史に記された、北海道の駅逓制度の始まりは江戸初期

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315
さてこれを前項として…馬である。
たまたま、関係無い内容を学ぼうと「室蘭市史」を借りたのだが…
室蘭市史」は五巻編成で、1,2が歴史、3が教育史や文化,産業ら、4,5が資料編。
たまたま借りた3巻に「陸運」についての記載があった。
では、ここから引用してみよう。
「第一節 人馬継立・駅逓 一、明治維新前」の冒頭から…


「元禄四年(一六九一)、松前藩十代矩広が、町奉行に対して「私領分(注・藩士への給地)百姓伝馬宿次無ニ遅々-様可ニ申付-候事」と通達した。つまり人馬継立はおくれるのとのないよう急いて申し付けるべきである、というのである。
この当時、すでに人馬継立のあったことが知れる。賃銭については、時代が大分下るのだが、天明八年(一七八八)の「巡見使応答書」によると、本馬一頭の駄賃が最短距離の四里二十町で百六十四文、最長の二十里十七町で七百三十文、また軽尻は本馬の三分のニ、さらに人足は本馬の半分(荷物は五貫目まで)」となっている。」

「旅行者に対する人馬継立や宿泊は会所や通行屋が行ったので、ここを中心に交通が開けていった。ことに外国船のひんぱんな往来を機会に、幕府は北方警備の重要性と認識を深め、寛政十年以前(一七九九)八月東蝦夷地を幕府の直轄におくとともに様似山道(様似~幌泉間)や、猿留山道(幌泉~ビタタヌンケ間)を開削した。なお、幕領になる前から松前藩に命じて礼文華山道の開削にあたらせるなど、道路を整備して早走や早馬を通したり、さらに官船を備えるなどして、蝦夷地での陸海交通の便をはかっていた。絵柄場所も同時に幕領となり、室蘭(現崎守町)~チリベツ間の道路が修築され、室蘭村に通行屋を設け、番人をおいて駅通を取扱った。」

室蘭市史 第三巻」 室蘭市史編さん委員会 平成元年三月二十五日 より引用…


註釈として…
本馬…
人が一人と荷物左右1つ毎。
軽尻…
人一人のみ(五貫目迄の手荷物OK)
だそうで。

宿駅から宿駅迄の馬の往来は1691年以前からあり、松前矩広公はそれを全知行地へ早々に拡大するように通達したと言う事に。
江戸初期には既にそれが通達され、幕府直轄時に、更に拡充が図られたと。
だから北海道では、江戸初期から馬は利用されていた模様。

そう巷で言われる様な、幕府直轄時でも幕末でも、ましてや開拓使が連れてきたような最近の話ではない と言う事になる。
最短の百六十四文は、現在のお金5~6千円位、これで一人分。


改めて前項を貼る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315
前述の松前公からの通達は、Ta-b火山灰層(1667年降灰)とTa-a火山灰層(1739年降灰)の間になる。
ユカンボシC15遺跡の蹄跡はTa-a降灰直前と発掘調査報告書ではあったが、近辺に検出される0黒土層の存在と、松前公の通達を重ね合わせれば、このTa-a~Ta-bの間で付けられた物と、推定するのは十分に可能となる訳だ。


敢えて…
冷静に考えて欲しい。
はっきりした時期は不明だが、江戸初期から松前藩の「場所制」は始まる。
陸海交通がまともでない中、そんな事が可能な訳は無いのだ。
米が採れぬ松前藩にとって、この各知行地からの上がりを「近江商人」に流さねば干上がるのだから。
極当然に道路インフラ整備はやらざる負えない。
何もやらずに、財政が成立するのか?

と、言う事。


参考文献:
室蘭市史 第三巻」 室蘭市史編さん委員会 平成元年三月二十五日