時系列上の矛盾…ロシア南下の危機と蝦夷衆の様子を書いた文献の口火を切った「赤蝦夷風説考」を観てみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443
関連項はこれになる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/04/224207
前項では、林子平の「三國通覧図説」に触れた。
時は天明元年、ロシア南下への警鐘を世に知らしめたのは実は林子平が最初ではない。
口火を切ったのは同じ仙台藩士の「工藤平助」の書いた「赤蝦夷風説考」。
二巻構成で出版されている。
なら観てみるしかないだろう。
冒頭からなにやら凄まじいので、それを引用してみよう。


「一 松前人の物語を聞くに、蝦夷の奥丑寅に当りて国有り。赤狄〔アカエゾ〕といふ。ゑぞの東北の末の海上に千島と名付て島々大小数々あり。この島続より折々交易する事むかしよりこれあるよし。」
「あかゑぞの産物、からさけ鯨あぶら類その外、ゑぞ物品々出るよし、こなたよりも塩、反物、鉄の細工もの、刃物、庖丁など渡して、口ゑぞとの交易これある事、昔より承伝る所なり。」
「然るに近来漂流と号して、折々ゑぞの地、『ウラヤシベツ』『ノツシヤム』の辺え着船す。その有様むかしとはかわり、船の作りおらんだ船の通りして、人物衣服の仕立ておらんだ人に類して、羅紗 天鳶絨 猩々緋の類の着し、通詞もつれ来る。」

「ゑぞ通詞 日本通詞ありて、日本の言葉を遣ひ、かたかなをかき、何事も通ぜずといふ事なし。ゑぞ通詞もよくくちゑぞ言葉をつかひて能く通弁す。キセルのラウなどに、片かなにて、三十一文字の歌なぞ焼印の様につけたるもあるよし。いかなるわけかとたづぬるに、通詞のいう様、むかしより日本人この国にふきながされて来る時、厚くいたはりて妻縁をさづけ、子孫日本言葉をよくいひ、日本事に通づるを家業とすなり。『タツ〔ヤク〕コイ』といふ国に一郭をかまへてこれを撫育す。我々も先祖は日本人なるよし物がたり、その国の名をたづぬれば『ヲロシア』といふ。」
「船中に丁子、肉桂、沈香、胡椒、砂糖の類品々有り、羅紗猩々緋、びろうどの類、サラサ類、その外緒器物類も有るよし。舟中、食器、手道具、銀器多く、至りて美々しく、きらびやかなる事のよし。」

「内心日本と交易の心にて、わざと漂流と号して船を寄せたるとおもはる。古来よりゑぞ産物と違ひ、新規なる品々これある故、許容せず追及したるよし。又或時は理不尽に陸へ上り、陣取などの様に取懸り、飛道具を用ひとゑぞ人と合戦に及、手負 死人など互にありて引退く事も有り、但、これ等の人物は最初にいふ所のおらんだ人などの様にみゆる人柄にあらで、古代のまゝの赤蝦夷の類にて、赤ゑぞの地付の夷ともおもはるゝ人柄のよし。いづれにも極北海の地にて、ゑぞよりは又格別の島夷なるに、近来かゝる有様怪しむべきの儀なり。」


「北方未公開古文書集成 第三巻」 寺澤/和田/黒田 「赤蝦夷風説考」工藤平助 昭和五十三年七月五日 より引用…


長いのでこの辺で。
これがロシア南下,脅威や当時の蝦夷の姿を書いた書籍の原点。
これが林子平や本多利明、最上徳内らに続いていき、田沼意次水戸藩らの目に留まり、蝦夷探索から東北諸藩の北方警備、黒船来航や幕末動乱へと繋がっていく。

概略は…

北海道北東にカムチヤツカと言う国があり、それを松前では「赤蝦夷」と読んでおり、古来よりやり取りある千島だと言う…

最低工藤平助は、「口ゑぞ」「赤ゑぞ」と、住んでる地域を分けて蝦夷衆を記載しており、赤ゑぞは「ヲロシア」支配下にあると書いてある…

最近は、オランダ船に似た船で来るようになり、胡椒ら含め従来赤蝦夷が持ち合わせなかった物まで積んでいる。
交易をしようと、難波したふりをして上陸したりしており、中には陣を構えたり、土地の蝦夷と戦闘になる事がある…

松前藩は、それを認識もしていたって事…


さて、このブログを読まれた方は、日本人に連なる通訳が気になるかと思う。
二巻に、工藤平助が松前から説明されたこれら人々が描かれるので書き出してみよう。

①日本語通訳
ヤクツコイ国の役人、名は「エハンテ」
上着…柿色の羅紗
下着…花色の羅紗
股引…柿色のテヤウン
笠 …黒のビロード
髪 …白苧色
服装らはオランダ人の様で、鍔無し銀粉鞘の太刀を持つ。
この人物が日本人の子孫。

②赤蝦夷の頭でオランダ語通訳
ヲロシアの官人?、名は「ハシンサバリン」
上着…花色の羅紗
下着…(記載なし)
股引…白のビロード
笠?…西瓜二つ握り位の頭布を持つ
靴 …黒皮(模様あり)
髪 …白
眉 …白

蝦夷の通訳
千島の人?、名は「シリイタリ」
上着…紺色の唐木綿
下着…萠黄色の羅紗
帯 …真綿で真田撚りの縒物
髪 …黒髪でグミを組む
服装はオランダ人の様で、北海道の蝦夷衆の面影あり、眉は一文字で、耳金(耳環)は無い。

④同乗者
カムサスカ人、名は「ハキシンコンテ」
上着…鼠色の羅紗
下着…同上
股引…藤色の木綿
笠 …黒の羅紗(騎射笠の様)
髪 …白苧色
服装はオランダ人の様

⑤同乗者
ムシクハ(モスクワ)人、名は「ハリエントン」
上着…花色の木綿
下着…藤色の木綿
股引…メリヤス
笠 …鼠色
髪 …白苧色

素人画だが、この五枚の絵図を見たとの事。
割と「赤蝦夷風説考」では国や地域名が混雑している感じはある。
ただ、この時代の国名はとして記載されるのは、「陸奥国」「大和国」「長門国」ら地域名、それらの総称として「日本」と書いている。
なので
「ヤクツコイ国」…サハ(ヤクート)
「カムサスカ国」…カムチャッカ
「ムシクハ」 …モスクワ
となり、それらの総称として「ヲロシア」としてる模様。
この工藤平助はかなり裕福で、当時世界的名著とされた「万国地理誌」やロシア誌(ペシケレイヒング、ハン、ルュスランド)とか言う書籍を入手し、片っ端から読破したらしい。


ところで、随分派手に商売していた様だ。
地方役人の小遣い稼ぎの範疇を越えている。
元々ロシアがオホーツクに拠点構えたのは、千島と言うより、ベーリング海~アラスカ方面まで含め毛皮取引する為。
上記の通り、船に胡椒やら沈香まで積んでるので、南方まで取引行ってるか、もしくはオランダ通訳が出来る人が居るので、オランダ人とも交易していたかも知れない。
確かに江戸初期、外国船は我が国太平洋側に難波しているし、うろちょろしているのはポツポツ古書に残されている。
かなりマジに権益拡大狙っていてもおかしくはない。

さて、日本人の血を引くと言う「エハンテ」氏、日本語駆使だけではなく、ひらがなついたキセル迄持つ。文字が読めたと言う事だろう。
何せサハには日本人コロニー?があったと言う。
それら含めて、赤蝦夷、つまりシベリア~オホーツク辺りの人々のイメージは、随分違うと思う。
未開な感じはここからは伺えない。
まぁ、既にオホーツクはロシアが取ってるので、取り入れる者と逃げる者が居るだろうって事に。
少なくとも、サハ(ヤクート)の人々は、ロシア東進へ抵抗反撃し、逆に弾圧食らったと言う。
見る限りでは、
沿海州の靺鞨~樺太方面…
サハ等シベリア~オホーツク~千島方面…
この2つのルートはあると考えるべきではないだろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/02/205112
ちゃんと「諏訪大明神画詞」に蝦夷ヶ千島は333の島で構成されてると書いてある。
となれば、
前者が古来「唐人」と言われた人々のルート…
後者が古来「日ノ本」と言われた人々のルート…
ともとれる。
まぁ特に樺太沿海州辺りとの繋がりを指摘する方は多いが、これの後者はあまり語られたのを見たことが無いのは何故だ?


で…この「赤蝦夷風説考」は、天明元年(1781)に書かれている。
「国後目梨の戦い」より前の姿なのだ。
ちょっと話が違ってくる。
何せ、古書では上記通り、何でもかんでも「蝦夷」なのだ。
つまり、日本人虐殺は、ロシア側についた赤ゑぞ衆が北海道本道を「侵略」し行われた可能性はどうか?
この段階で、松前とやり取りした赤ゑぞ衆ははっきり「オロシア」だと言っているのだから。
そんな事や、南からの交易物資積んだ船が着き、千島,カムチャッカがもはや未開とは言えない状況だったと言う視点も持たねばなるまい。
地付きの蝦夷衆の中には、西洋に近い生活をする者もいたのだから。
もはや西洋列強が世界中でドンパチやっていて、北海道が影響ないハズもない。
近場にロシアが近づく中、むしろ最前線だったと言う事だ。
そこで、この事態を打開の為、何があったか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/30/223653
身銭切って、旧式装備、命掛けで東北諸藩が警備に向かった。
ちゃんとその人々は今日現在、祀られてるのか?
現代は誰がやるのか?
それらも考えるべき点。
オランダ人はロシアの脅威をかなり強調していた様だ。
だか、そのオランダもインドネシアで何をし、ロシア船を見る限りでは、そのロシアと交易をしていた感じもある。
少なくとも、かなり緊迫感が増していた事は間違いない。
目と鼻の先に「産業革命」が待っていた時期だ。


さて、中世へ飛び…
何故安東氏が「日ノ本将軍」を名乗った(それも帝も朝廷も容認し)か?
「赤蝦夷風説考」にある「カムチヤツカ国」を制海権下に収めたから…これはどうだろう?
SNS上の指摘だと、内耳鉄鍋の出現はこの頃と合致する。
我が国から見て、丑寅の方角、つまり北東。方向性は合致。
これらも視点に入れねばなるまい。


どうだろう?
あまり、「赤蝦夷風説考」「三國通覧図説」そして、「赤夷動静」らは、引用される事が少ない。
実際見物した最上徳内間宮林蔵松浦武四郎らが主。
但し、最上らは、この「赤蝦夷風説考」ら海外情勢を読み、学び、蝦夷地へ向かった。つまりこれらバックボーンを熟知した工藤らの弟子に当たるのだ。
勿論、最上徳内が本多利明に教えを受けたり、実見聞の推薦を受けたりだ。
その点を忘れてはいけない。
時系列的に、最上らはこのバックボーンを踏まえて、敢えて細かく触れていない事もあるのは、忘れてはならない。


参考文献:
「北方未公開古文書集成 第三巻」 寺澤/和田/黒田 「赤蝦夷風説考」工藤平助 昭和五十三年七月五日