樺太,千島と本州人との両血統持ち、帯刀した人の痕跡…「択捉島」で出土した人骨と日本刀

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205
本項も「赤蝦夷」つまり千島方面の人々の話になる。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/13/213724
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329

たまたま何故か筆者が持っていたコピーなのだが、ただでさえ千島,カムチャッカ系の話は薄い。
では引用してみよう。

「以上の土器石器は、共に竪穴地帯よりの出土品であるが、前記の如くこの地より二三町離れた地域に刀及び人骨が発見された。」
「刀は現長一尺六寸五分を有し、その内、身の長さ一尺二寸六分。両端は各々缺失するも、鍔の状態から観ると刀身の長さ二尺三四寸前後の打刀であつたと思はれる。一般に酸化甚だしく、刀身は平造で、背はやゝ圓味を持つも稜角なく、全長に對して約三四分以上の外反りを有したらしい。それを包んだ鞘は現在腐朽してその木質のみ見られるが、極めて扁平な製作に係り、江戸時代に行はれた日本刀の鞘とはかなり外観の異なるものと考へられる。」
「尚その一部に幅約二分…前後の樺櫻の表皮を同一の間隔を置いて笛巻状に纏いた所謂樺櫻纏きの部分が遺存して居るのは特記しなければならない。他にこの刀の特色としては、木瓜形の表裏に柏葉を意匠した柩穴のない青銅製の鍔のあることを挙ぐべく、又元来この刀には脛巾金を用ゐて居なかつたことゝ、革切羽が嵌つて居り且切羽と鍔との間に布片が介在して居る様なことも看過すべきでなからう。」
「この刀は、近世のアイヌの墓地より発見せらるものと類似して居るが、その年代の推定に就いては鞘の手法・様式等の相當古式を示すに反し、鍔は様式上少なくとも室町時代を遡ることはない。又刀身もその平造は或いは古い作風を示すとも考へられぬ事もないが、寧ろそれは製作の粗雑に基くものであつて、鍔の推定年代と大きな隔りはないと思はれ、全體を通じてやはり室町時代頃に置くのが妥当であらう。」

考古学雑誌 二十三巻六号 「千島択捉島出土の土器及び石器」 齋藤忠 昭和八年六月 より引用…


元々、この発掘は、昭和七年に択捉島の湖沼や動物採取の調査に入った研究チームが、紗那郡別飛町で無数の竪穴住居跡と思われる凹みを発見し、合わせて考古学調査も行ったと言うもの。
縄文の土器,石器を検出したが、近くの凹みで人骨と日本刀も発見した。
頭位は東の仰臥葬。
腰付近にこの様な室町期と推定される日本刀されていたと言う人骨は、熟年男性とされた。
人骨はこの他にも壮年女性と思われるものかあったとの事。
この様に、これら人骨を骨格学見地から解析したのは、中山/三宅両博士。
京大の清野博士の研究チームである。

実は、問題はその骨格傾向。
ではそちらも。

「二例共に長さ約五尺、幅約二尺の長方形の土穴中に東首仰臥伸展位にて埋葬され、第一號人骨(第九〇九號A)は右側腰部附近より鐵刀を出したが、第二號(第九〇九號B)よりは副葬品と認む可きものを伴出しなかつた。本人骨の保存状態は二例共甚だ不良で、殊に四肢骨に甚だしく、頭蓋及び下顎骨以外の計測は全く不可能である。」
「然し、本方面の研究が全くないことゝ、本人骨の不完全だといふことゝは、満足の結果を得ることは勿論出来ない。以下周圓民族殊に樺太アイヌ・北海道アイヌ現代日本人人等に依つて比較研究することにする。」

考古学雑誌 二十三巻六号 「千島択捉島別飛出土人骨の人類学的研究」 中山英司/三宅宗悦 昭和八年六月 より引用…


まだこの周辺の人類学は創成期。
殆ど研究はされておらず、故に結論は先としながら、比較したとある。
実際、本文中には、千島アイノは本道アイノ、カムチャッカアリューシャンの人々、更にロシア、そして本州とのやり取りがあるのは、中山,三宅両博士も熟知。
どんな「人種」か興味があると記載がある。
先の関連項ら同様に、バラムシロ(北千島)人骨、吉胡,津雲人骨らも合わせて検討した模様。
あれこれ書いてはあるが、残念ながら筆者には骨格学知識は無いので割愛する。

結論として上げているのは、保存状態やらが悪く、且つカムチャッカ,アレウト等の検証不足で、明確な結論は得られなかったとしつつ、その特徴は…

①大概に於いて、他の人骨より「樺太アイノ」に近い傾向を示す。
②全く「本道アイノ」の特性を持っていない。
③むしろ、北陸・畿内の「現代日本人」の特徴に近い部分を持つ。

以上三点。
この段階では、本道アイノをすっ飛ばして、(樺太系に近い特徴持つ)千島系と本州人の両血統を持つ、つまり混血している可能性が示唆されたとある。
つまり、夷船で十三湊や秋田湊に来ていた人々の一派は、北海道を飛ばして、既に本州と婚姻関係を持ち、帯刀する者がおり、それは室町期位に遡る可能性を持つと言う事。
さて、この時代、古書記載に残される統治者は誰?
「安東氏」になる。
勿論、時代によっては「南部氏」や「浪岡北畠氏」の可能性もなくはないが、少なくとも、婚姻関係を結ぶ程になっていた事にはなる。

又、少なくとも骨格学上は、江戸期において、口蝦夷と言われた「本道アイノ」と赤蝦夷と言われた「千島アイノ」は全くの同系統に非ず。
別の系統を持ち、実に様々な人々が居て、中には本州の血統を持つ者も居たと博士達は考えていた様で。

この報告の細かい場所や発掘状況は、択捉島が陸軍管轄下で、シークレット。
択捉島紗那郡別飛町のみ記される。

室町期ですら混血し、数点の標本で大勢を判断出来る状況には、既に無かった可能性もあったと言う事。
まぁアリューシャンカムチャッカも千島も火山爆発はあった訳で、待避したりは当然あったであろうと言う事だ。
むしろ、混血してくるのが自然なのかも知れない。
当然ながら、これら真実がどうであるかなぞ「机上の研究や単一の学問だけ」で解ろうハズも無いと付け加えておく。


参考文献:
考古学雑誌 二十三巻六号 「千島択捉島出土の土器及び石器」 齋藤忠 昭和八年六月

考古学雑誌 二十三巻六号 「千島択捉島別飛出土人骨の人類学的研究」 中山英司/三宅宗悦 昭和八年六月