時系列上の矛盾…厚岸町「下田ノ沢遺跡」に存在する、複数期を跨ぎ使用された竪穴住居の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/203042
フライング…前項で先に貝塚について報告した、厚岸町の「下田ノ沢遺跡」。
実は興味深い記述はまだある。
続けて住居について掘り下げてみたい。

「第1号竪穴(2図1)」
「第1層表土、厚さ5~10cm、第2層は火山灰で厚さ4cmほどであるが、中心部に厚く20cm近い。本層は中心部を除いて、周縁部の大半は撹乱をうけ、特に壁の立上がり部分にはほとんど認める事はできない。第3層は黒土層で厚さ5~10cm、第4層は黒褐色土層である。本層は竪穴内全面にみられ、厚さは5~10cmである。第5層は礫まじりの黄褐色を呈する地山である。」
「遺物は第1層から近代アイヌ又は和人の鉄製品、磁器類などが散乱して状態で出土している。第2層からはまったく出土をみない。第3層からは擦文式、オホーツク式を主体に少量の続縄文式土器が出土をみた。石器としては掻器などがある。黒曜石の剥片も多い。第4層上部は第3層の主体土器の他に続縄文式土器が出土し、本層下部から第5層上部にかけては、続縄文式土器が主体となる。」
「本竪穴ははじめはじめ単一時期の所産と思われたが、発掘の結果、少なくとも3時期以上に亘り、ほゞ同じ場所を選定して、断続して営まれた例である。その範囲は互いに多少出入りはあっても10m2以内で重なり合っていたもののようである。最新の遺構は、第1層直下外縁部では第2層を削平して営まれていた。それは竪穴の北隅に現われた巾1m、長さ2m、厚さ5cmの焼土を中心としていた。~中略~焼土からは砂岩製の砥石が一個出土した。付近からは、アイヌ玉、貧乏徳利、半銭、かすがい、手斧、漆塗り椀の破片、釣針、舟釘、磁器片、ビール壜の破片が散乱し、その範囲は焼土を中心とした6m2以内に集中する。」
「これらの遺構の下、第4層上部を床面とした住居地が存在した。一辺7m前後の方形を呈すると思われる。~中略~南東壁は傾斜面の途中につくられていたためはっきりせず、カマドの位置からそれと判断したにとどまった。カマドは板石でつくられ、煙道とみられる粘土帯が東西を軸斜行してみられたがこの付近の石はほとんどが動いており、カマドの構造等を追及するのは困難であった。」
「床面近くから出土した土器はすへて擦文土器であり僅かにオホーツク式土器がないあった。」
「カマドの石組の下には、更に北東方向に拡がる続縄文式土器を出土する竪穴があるが、これについては、東隅に一部以外、追及しなかった。~中略~第5層を床面とした続縄文式土器を伴う竪穴の構造については明らかでない。」

「第2号竪穴(2図2)」
「本竪穴は1号竪穴の南7mほど離れて存在した。」
「1号同様北西側は根室段丘の急斜面に接し南東側は沢に面していた。裾にはまばらにカキが散乱し、貝塚の末端に接している。」
「第1層表土、第2層は白色火山灰層の風化したチョコレート色で厚さ12cm、第3層は黒褐色土層で厚さ10cm。第4層は黄褐色を呈する段丘礫層である。住居址の床面はこの第4層に形成されていた。遺物は表土に僅かのカキを含み、他に数片の擦文式土器がみられた。第2層および第3層に擦文式、オホーツク式土器が出土し、続縄文式土器が混在した。石器も若干出土している。」
「前略~東側に開口した石囲いの炉がある。カマドは南東壁中央より少し東北に寄せて設けられていた。それに使用した板石は倒れ、構造を追及するに足る状態ではなかったが、この石組に続く煙道は若干斜行し、南東壁の盛土でできた土手を斜めに貫き、ほゞ東西に軸をとった形でみられた。煙道そのものの長さ長いカキの殻7枚をもってつくるという厚岸らしい特殊な手法を持っている。」

「1号竪穴は単一時期の所産てなく偶然同じ竪穴が3時期に亘り使用されたものである。最上層の遺構は焼土を中心としたものであったが、アイヌか和人の杣人のものか、判然としない。細長い自然礫をキナ編み用の錘とみればアイヌ的色彩が強いが決め手にかける。その上限は、白色火山灰(Ma-f)層の上にみられたことからこれよりは新しく、下限は半銭、ビールビン、湯呑茶碗などから、明治中期以降~大正まで下るものと思われる。中層の遺構は擦文文化期である。カマドは沢に面した南東壁にあった。2号竪穴で特記すべきことは、石囲いの炉をもち、南東側にカマドを有するという組み合わせであり、しかも煙道が厚岸産のカキ殻によってつくられていたということであろう。」

「1号、2号竪穴は、いずれも東側壁際に石組を伴い煙道をもつカマドを有している。擦文文化末期の竪穴住居址である1号は3回以上に亘り重複して利用されたとみえ、2号も2回に亘りほゞ同一空間が利用された可能性がある。また、これらの竪穴住居址は、開けた三方に前後する時期の竪穴と互に壁や床面を切り合い、本遺跡における続縄文、擦文・オホーツク、アイヌという変遷の中で、住居が営まれたということを背景に複雑な姿を示している。これは貝塚においてもみられ、ここを居住の場として占有した人々の生産基盤が細部においては、多少の違いがあるにせよ、共通した何かを互いに持っているということができる。」

厚岸町下田ノ沢遺跡」 厚岸町下田ノ沢遺跡群調査会 昭和47年3月25日 より引用…


間髪入れず…
Ma-fじゃ約7700年位前…縄文迄遡る。
見る限り、縄文遺物は無いからいきなりそこまで飛ぶのはどうか?失笑せざる終えない。が、そこは昭和四十年代の発掘調査報告として相殺すべきか。
実は、後の1982年報告、隣町、浜中町「ホトロ沼遺跡」の発掘調査で、表土の下部とその下の黒色土の間の、白色火山灰はMa-a(500±90B.P.)、つまりざっと1450年位降灰のものとして断定する報告がある。

で、アイノ文化期利用とされる住居跡は、「表土から、火山灰層へ掘られている」ので、それ以降になり、またもや火山灰が壁になる結果である。
で、アイヌ玉も出土しているが…
アイノと断定しない謙虚さ…これが昨今にはあまりないと見える。

と言う訳で…
同じ竪穴なのに、竈は消える。
筆者が必用に追う「生きていた証」が無い、つまり直接、食文化に関わる文化が継承されていたいないのだ。

この住居の他にも多数竪穴と考えられるものもある様で、ムラとして存立した可能性もある。何せ近辺にはチャシら他の遺跡が点在し、貝塚は先の報告通り。
まるで牡蠣採取と生産基地の様相も感じる。
と言うか、そうでなければ、近現代にカキ殻粉工場が存在出来るハズ無し。
続縄文からとして、仮に1600年位と仮定しても、コタンの様な単位で食い切れる量でもあるまい。
産業として成立し、本州へ送り届けていたと考えるのが妥当かと思うが、如何であろうか?

上記には、「偶然」とあるが、筆者はそうは思わない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/13/185111
明治ですらこれ。
急斜面に作られていた竪穴住居…
凹みを狙って作り直したと考えるのが合理的だと考えるが。
この場合、一つ問題が発生する。
アイノは、掘立住居に住んでいたと言う設定。
だが、問題にはならぬ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/11/115246
掘立登場は江戸の降灰前後、更に床面が付くのは幕末、幕府の指導による。
根室は竪穴式木造住居。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/10/104637
特に発掘調査結果ではトレース出来ている。
地域柄や居住したのがどんな人々かで、住居事情が違うのは当然。
更に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205
「赤蝦夷」は竪穴住居。
この場合、「アイノの住居文化は一つではなく、人々の特性も含め地方色を持つ」と、設定を変更すれば良いのだ。
何も、萱野氏コレクションに全て合わせる必要なぞ無い。
事実に即しアップデートすれば良いだけなのだ。
勿論、「単一文化集団」と言う設定も棄却されるが。

そんなもの、アップデートを怠った方々の責任。
我々の知った事ではない。
我々の様な素人でも、この程度学ぶ事は可能なのだ。
この「下田ノ沢遺跡」や「竪穴住居」については、もう少し掘り下げたいと考える。



参考文献:
厚岸町下田ノ沢遺跡」 厚岸町下田ノ沢遺跡群調査会 昭和47年3月25日

「ホトロ沼遺跡発掘調査報告-浜中町文化財調査報告1-」 北海道厚岸郡浜中町教育委員会 1982年3月