「安養寺久左衛門」とは誰?…「算用状」に記された、秋田(安東)実季公へあしか皮を送った人々

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/17/201849
たまたま何気に手にしてしまった能代市史資料編。
「めさし(メザシ)」が目に入りパラパラした段階で、新たな疑問が沸き上がったので、報告する。
秋田家文書にある「栗山二蔵御肴算用目録」。
これは「栗山二蔵」と言う人物が、秋田(安東)実季公の側近である「秋田太郎左衛門」へ、領内から調達した鮭や塩引,メザシ,鰰ら魚や白鳥や雁ら鳥、そして熊皮やあしか皮を受取り、それを誰に回したか?を報告した「算用目録」。
慶長二~四年の内容を慶長五年に報告したもの。
では引用してみよう。


「慶長三年ニ請取申御肴之事」

「一あしかハ弐枚 案東三十郎殿ヨリ」
「一同壱枚 安養寺久左衛門ヨリ」
「一同弐枚 安東式部大夫殿ヨリ」
「一同拾枚 松前殿ヨリ」

「慶長三年御肴拂方之事」
「一あしかハ十三枚 同断本間治兵衛へ渡申候。」
「一同弐枚 同年六月十日ニ御わをり皮の御用として富澤一郎ニ渡申候、普門院ニて。」

能代市史 資料編中世二」能代市史編さん委員会 平成十年七月三十一日 より引用…


以上の通り、あしか皮の部分を引用してみた。
ご覧の通り、四人計15枚を受け取り、二ヶ所へ振り分けた内容。
実際、塩引きは松前からも入って来ており、北海道のものと秋田のもの両方を扱っていた模様。
まず、調達先。
松前殿は勿論「松前慶広」公だろう。
と、安東式部大夫殿…これは、北海道に居た下国氏だろう。
解説では、この段階では案東三十郎殿と共に「実季公の重臣」とされている。
しからば…安養寺久左衛門…
この人物は何者ぞ?

まだ筆者は安東氏家臣団は、ちゃんと学べてはいないが、あしか皮と言う事情を加味すれば、考えられる条件は、
①北海道に居たであろう…
②「殿」と付けられていないので、武将級ではない…
③苗字を持つ商人の可能性もあるが、武将級とやり取り可能な扶持衆?の様な身分であろうと言う事…

実際、この算用状を書いた「栗山二蔵」なる人物がどんな身分かは、例えば他の「御扶持方衆御暇被遺候衆」等、他の秋田家文書のそれぞれが一致しない部分があり鵜呑みには出来ないとはある。
が、少なくとも、その様な上記条件を満たす様な人物が居たであろう事は間違いないだろう。

「安養寺」氏は秋田でも珍しいが、確かに見た事がある。
苗字系サイトでも秋田にも居らっしゃるとある。
実は、北海道にも極少数居らっしゃる様だ(サイトでは松前ではなく紋別市に集中とある)。
が、新北海道史の江戸中期辺りの知行主のリストにはその名は記載されない。
同様の事は、時代を遡り…
安東政季公の時代に居た「相原氏」でもある。
福山の大館…後に福山城が築かれる場所は、下国(安東)定季(松前守護)が治め、相原政胤が補佐していた。
この相原氏とは、房総千葉氏の支流の様だ。
その子孫達も名前に「胤」をつけられている様なのでそんな系譜なのだろう。
勿論、後に秋田へ渡ったりしているかは、まだ調べられてはいないが、この相原氏も知行主リストには無い。
同様の重臣「小林氏」は記載されている様だが。
実際のところ、史書らを見る限り安東政季公は、南部氏に傀儡政権を作る為に擁立されたとの説が強く、直近家臣団に東北の人が少ないのは特徴。
相原氏、小林氏、河野氏ら。
鎌倉~南北朝辺りに、主家から分派するなり北畠氏に帯同した等の人々を味方につけ、南部氏に反旗を翻すのは有りだろう。
なので、安養寺氏も同様な事は考えられるが、どうだろう?
調べられてない推論だが、仮に知行主リストに名を連ねないなら、「蝦夷衆の乙名」と成り得る話も有り得ると考えるのではあるのだが。
何せ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
こんな話もある。
蝦夷地内での勢力争いやらを、後の江戸期にその正統性を上げる為に、蝦夷衆に仕立て書き残した危険性もある訳だ。
史書は勝ち残った者が記すのだから。
まぁ「新羅之記録」らは、それこそ新北海道史そのものが真偽の程を疑っている。
これが、アイノ目線で疑いを持つのなら、安東氏や南部氏目線で疑いを持つ事も可能なのだ。
まぁ少なくとも「安養寺久左衛門」の様な人物が、織豊期末に北海道に居たハズであろう事は間違いないと考えても良かろう。


もう一つ気になる点。
解説で、この段階では下国(安東)氏は、松前氏配下としていない事。
まぁ「算用状」に幾つかの記載があるのは確か。
松前氏は「豊臣秀吉公の朱印状を持って独立」の様に言われるが、この段階では、松前,蠣崎を名乗る以外唯一家老職ら重臣を務めた「下国(安東)氏」は実季公配下の重臣と見る事が出来る。
つまり、松前慶広公が北海道を自在に治める事が可能となったのは、江戸幕府が開かれ徳川将軍より「領地と通商権の保証」を黒印状で安堵され、秋田(安東)氏が宍戸へ移封された時…とも考えられる。
勿論、根拠が薄いので、全くの暴論とも言えるのだが、安東氏が一貫している「俘囚長である安倍氏の末裔」に拘り続けたのも、強ちな話ではないのかも。
現に、新羅之記録でも、江戸初期の松前氏の藩運営は苦戦している様に描かれる。
そりゃそうだ。
それまで、安東氏が担保したであろう、松前領の米が一切無くなる。
秋田湊に入っていた夷船経由の米の搬入も移封により無くなる。
当然、他の手段で確保しなければならなくなる。
なので前田氏らから紹介された「近江商人」…どうだろう?
これなら、松前氏にも前田氏らにもメリットが出る。
矛盾は出ないと考えるが。


さて、「安養寺久左衛門」は何者?
こんな暴論的仮説も、中央史や東北史との関連史を学ぶ事は可能。
これなら、蝦夷衆が起こしたとされている「乱」も見え方は変わるハズ。
何せ、シュムクルアイノには「本州から渡った」との伝承がある。
「赤蝦夷風説考」にある口蝦夷が、こんな安東氏方に居た人々でも矛盾なぞ出ないのだ。
そしてそれならば、アイノ文化に見える東北文化の片鱗も、擦文文化の本州との類似性も全て説明が可能。
そして、文化の変化は「火山噴火の連発」による、赤蝦夷らの移住により人口構成の変化で発生…これで説明可能だ。
まぁこんな事を考える研究者は居るのか?
我々だから気付くのか?
極普通に辿り着くが。
いずれ、安東氏や蠣崎(松前)氏の家臣団構成らも当たっていきたい。
また見え方は変わるハズである。



参考文献:
能代市史 資料編中世二」能代市史編さん委員会 平成十年七月三十一日