これでも「未開」?冗談でしょ?…音更町「葭原2遺跡」にある縄文の生活痕と「燈明皿?土師器」の存在

https://twitter.com/gurinhiguma/status/1374282750891491331?s=19
SNS上、流れてきた「音更町史」の一部の標題に驚く。
蝦夷地の頃 未開の地」…だそうで、先史時代について割かれたのは3頁にもならないとの話を聞く。
ちょっと待った…幾ら古書らで登場しなくとも、今まで遺跡の無い市町村は無かった。確かにネット検索の限りでは、史跡は殆ど明治開拓以降。
それでも幾ら何でも、自虐的過ぎる。
と言う訳で、また思いつきで「発掘調査報告書」を入手してしまう筆者。
本当に「未開の地」であるのか検証してみよう。
「葭原2遺跡」…だそうで
この遺跡は、「道道音更池田線道路特殊改良工事」により存在が周知されていた遺跡の一部が破壊されることが必定となり正式発掘を行う事になったと言う。
筆者はズルける…遺跡あるじゃん。
では、古代音更町の様子を覗き見てみよう。
一応、基本層序は、
Ⅰ層…Ta-b火山灰ベースの腐植土
Ⅱ層…Ta-b火山灰層に砂を含む
Ⅲ層…火山灰ベースで腐植に富む黒色土
Ⅳ層…Ta-dl火山灰
Ⅴ層…黒色土
Ⅵ層…暗褐色の砂を含む腐植土
Ⅶ層…鈍い橙色の砂土
Ⅷ層…砂土(安山岩,火砕岩,凝灰岩等を含む)
で、遺物は、Ⅲ層から下部にあると言う。


「葭原2遺跡は、道道長流枝内木野停車場線の葭原から分岐して国道242号線の高島・青山間に抜ける道道音更池田線を750m北東に向った所の道路北斜面一帯にある。」
「(図4)東側の現状は、明渠を挟んで畑地と一部荒地となっているが、古老によれば1930年代までは全くの禿山で、基盤土層が露呈していたといい、また西部は、一帯が松の植林となっているが、1940年代後半に一時前後開拓者の入植があり、取付道路の北に居住し、舌状台地の斜面が耕地であった。何処もそれ以前は東側同様に処々に基盤層が見えていたといわれている。」

「焼土は54箇所に検出された。~中略~鉛直にはⅢ層からⅦ層上面に及び、Ⅲ層上面に18箇所、Ⅳ層上面に2箇所、Ⅴ層上面に6箇所、Ⅵ層上面に20箇所、Ⅶ層上面に8箇所認められた。これらは、遺構および周辺遺物からⅢ~Ⅴ層までのものを晩期、Ⅵ、Ⅶ層のものを中期とすることが可能であるが、Ⅵ層の中には一部、晩期のものも含まれていると思われる。」
「舌状台地の東先端部に集中する焼土群、No.39~45、54がある。~中略~それぞれに付帯すると見られるピットがあり~後略」
「本遺跡唯一の人為的土壙である。平面ブランは円形で、東南東と南東の2箇所に木根による崩落がある。~中略~壙の堀込みは、Ⅲ層上面と見られるが傾斜する南辺が欠損しているので明らかでない。」
「(筆者註:竪穴住居跡)南北と東西にのびる暖斜面の頂部にあり東30m先の台地下に湧水の流れる小沢がある。」
「本竪穴住居は、縄文中期の竪穴の覆土に晩期の竪穴が重複して構築されている。」

「(筆者註:ミニチュア土器)舟形(図44-607)舳先が反り上がっており、上面観は長楕円である。口径長径-、短径(3.6m)、器高(1.6cm)、器厚(0.4cm)。」
「(筆者註:ミニチュア土器) 砲弾形(図44-608)完成品である。口径1.4cm、器高3.0cm、底径1.0cm、器厚0.3cm。」

「図26-10は、E-14区の撹乱層から出土した、ロクロ目を残す土師器?の杯である。口縁の内外面に油脂痕が見られる。燈明皿であろう。器高(1.6)cm、口径(11.2)cm、底径(5.0)cm、器厚(0.4)cm。」

「針葉樹とカバノキ属の増加は、縄文時代中期から晩期にかけて気候が徐々に冷涼化したことを反映したものと推定される。」
「ここで発掘された縄文中期及び晩期の住居跡の周辺にはミズナラ・カシワ・オニグルミ等の堅果が実る樹木が生育していたことが明らかになった。これら堅果類が当時の人々の食料として利用されていたことが予想される。」

「葭原2遺跡の発掘調査から得られた成果は、焼土、石器製作址、土壙(筆者註:表記上は土偏に広)、竪穴住居等の遺構の検出と98,840点の土器、石器等の遺物の出土である。遺跡の状態は、立地が丘陵の斜面、耕作地、植林地という地形的、人為的条件から良好であったとは言えないが、縄文時代前期(筆者註:出土土器より)~晩期に亘って、そこをテリトリーとした人間集団の生活空間の一端を察知する事ができた。」
「ミニチュア土器は~中略~器種に壺形、丸木舟風の舟形があるのも珍しい。」

「葭原2遺跡 -1986年発掘調査報告書-」 音更町教育委員会/佐藤忠雄 1987年3月15日 より引用…

上記の通り。
成る程。
「古老の話で1930年代迄禿山」…この辺の話で、未開となってるのか?
だが、この遺跡「だけ」でも、縄文前期~晩期迄の生活痕はガッツリ見える。
実は筆者はもう一冊入手しており、十勝川温泉付近には「チャシ」があり、最低7つの遺跡、それも縄文全時代をほぼカバーする出土遺物がある様で。
中には、須恵器が出土もした場所もあるようなので、最低縄文~擦文迄の生活痕が残されている。
これで未開?…冗談ではない。
ちゃんとご先祖達がくらした痕跡があるではないか。
こんな環境で何故「未開」と表現が出来るのか?の不思議。

我々は音更町に提案する。
むしろ…
「縄文全時代に於いて、音更町の豊穣の大地に、先祖達が悠久の時を過ごした」…
こう表現しては如何であろうか?と。

確かに火山灰降灰の影響は諸に受けた形跡もあるが、それはこの周辺一帯共通。
むしろ、縄文時代からの悠久の通史の中では、中~近世の「たった一時期」の遺跡が見つかっていない「だけ」だ。
故に、自然科学の力を借り、その間に「人が住める環境にあったのか?」を検証し、町史に反映させれば良いだけ。
この発掘調査報告書には、地山がどんな地質かまで記載されている。
層序も、高低差を考慮した記載迄ある。
通常、市町村史には、どんな自然環境かも記載する。
反映可能だろ。
蝦夷地の頃 未開の地」なぞと書くより、古より魅力ある町であった事を記載すべき。
誰の為に残す「地方史書」なのだ?


さて、内容…
縄文焼土跡54箇所ったら、生活痕としては充分立派だろう。
筆者も、舟型ミニチュア土器はあまり見た記憶ない。
これはダイレクトに、その周辺でカヌー型の船を使い生活していたと推定するには十分だろう。
何しろ「シーパワー」の要。
遠距離の移動が可能だったと示唆できる。

何より食い付きたいのは、たった一つ擦文期の土師器が出土…ロクロ痕あると言うのでその可能性が高いが、内外に油脂痕があり、燈明皿と推定…なぬ!
あまり燈明皿の出土はないと思われるが。
基本的に地炉での焚き火は、そのまま暖房だけでなく、明かりとしても利用されている所で、燈明皿があったと言う事は、何らか暗がりで作業した形跡とも言える。
それも、擦文土器ではなく土師器。
ググると、燈明皿は奈良朝辺りから畿内中心に出土…それを持ち込んで使ったのは誰だ?
撹乱層なので、時代背景はこれだけでは不明だろうが、たった一つの遺物からこんなにも謎が謎を呼ぶ。
こんな集団が居たのなら、とても「未開の地」なぞではないと考える。


如何だろうか?
どうせ史書として記録を残すなら、夢はあった方が良い。
勿論、客観的事実に基づいてだと言う事は、言うまでもない。

もう一つ付近しておく。
縄文時代にアイノ文化の痕跡なぞ有ろうハズもない。
この発掘調査報告書にも「アイノ文化」なぞと言う記載は一言もない。
通史観もなく反応するのは肯定派,否定派共に病的と言わざる終えない。
「時系列の壁」がひっくり返る事はないのだ。タイムマシンはまだ発明されていない。
何故ここまで書かねばならぬのか?我々としては非常に不本意
感情論を持ち出す前に、我々の様に「学ぶべし」と付け加えておく。


参考文献:
「葭原2遺跡 -1986年発掘調査報告書-」 音更町教育委員会/佐藤忠雄 1987年3月15日