時系列上の矛盾…「ルイス・フロイスの書簡」を含め、蝦夷衆を描がいた古書を並べてみる

蝦夷衆とは?
文献史的アプローチと言えばそうなんだろうが、実際、蝦夷衆がどう描かれているか?並べてみるのも良いと思う。
何故ならば、その時代にアイノ文化を持つ痕跡として局部的に引用されるそれぞれの文書なのだが、それぞれの全体を読んで行くと、ニュアンスが変わってくるからだ。
少なくとも「北海道」に居たのか?
疑問が生じてくる。


まずは、古い方から。
諏訪大明神画詞」
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/02/205112


次に登場するのはこれだろう。
とうとう「秋田市史」からの引用。

「(前略)日本國の北方殆ど北極の直下に䓁人の大なる國あり、彼等は動物の毛皮を着し、毛全身に生じ、長き鬚髯あり、飲まんと欲する時は棒を以て其髯を上ぐ、甚だ酒を飲み、戦闘に勇敢にして、日本人は之を恐る、戦闘中傷を受くる時は他に薬を用ひず、鹽水を以て之を洗ふ、鏡を胸に懸け、頭に剣を縛し、其尖端は肩に達す、法律なく、天の外禮拝する物なし、國は甚大にして都より三百レグワあり、彼等の中にゲワ(出羽)、の國の大なる町アキタ(秋田)、と稱する日本の地に來り、交易をなす者多し、日本人彼地に至れる者あれども、彼等の爲殺さるゝが故に其数は少し、(後略)」

秋田市史 第八巻 中世資料編」 秋田市 平成八年三月三十一日 より引用…

耶蘇会日本通信の永禄八(1565)年1月10日付の「拊都發パードレ・ルイス・フロイスから支那及び印度のパードレ・イルマン等に贈リシ書翰」との事。
欧州や南~東南アジアを知る人物が、聞いた話を報告した物。
あちこちで引用されている書簡だが…


3つ目は、やはりアンジェリス神父の報告だろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/24/145700
これに、蝦夷衆が何処からきたのか?概ね記載されている。


4つ目はオランダ人。
オランダ東印度会社のカストリクム号司令官マールテン・ゲリッセン・ド・フリースの記録。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436
そしてこの後にTa-bら降灰。

で、5つ目。
ここで、工藤平助や林子平登場。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/04/224207
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743

この後、各種記載の文書は増えるので、とりあえずここまで。
残念なのは、ルイス・フロイスの書簡がこの部分しか乗ってないので、ルイス・フロイスがこれを誰から聞いたか解らない。
いずれ全文を見てみたい。
これを並べ、全文をそれぞれ読むと、引用頻度の低い部分く、論文,書籍に乗っていない部分があったりする。
諏訪大明神画詞でも、「333の島で構成される」「二島から交易にくる」とかも引用頻度は高くない。基本的には、日ノ本,唐人,渡党の箇所。
だが、全体を読むと、「本道についてだ」…なんて一言も書いてはいない。
「十勝」と言う地名の初見も1620年前後。
これは「赤蝦夷風説考」とかで範囲が更に拡大し、オホーツク,カムチャッカ及び樺太まで及ぶ。
先の段階に於いて、アンジェリス神父が、70日も掛けてくる者も居ると言うのも頷ける。
現代訳でも、実物を読んでみると、印象が全然違うのだ。

そして、割とその描かれた姿は一致しており、それら人々が来ていた元の地域は、かなりの広範囲。
まぁ風習らの視点での研究で、樺太や千島方面との関連は散々指摘されているので、この項での説明は割愛する。

その人々に、大型船を売ってたのは誰か?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
安東氏。
大型船の話がある以上、これに描かれた蝦夷衆は、消去法なら船を持たない「口蝦夷」ではなく、船を持っている「赤蝦夷」が残ってくる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
好身を結んだ所に優先的に訪れるだろう。
上記の通り、十三湊陥落後には秋田湊に寄港したとルイス・フロイスが書き残している。

ここで、上記史書と中央史と重ねてみよう。
諏訪大明神画詞」が書かれたのは、南北朝の頃。
最早十三湊を中心とした交易らは開始されている。夷船が寄港している記録は残る。
後、応仁の乱や南部氏侵攻らで十三湊陥落、混乱期を迎えるが、秋田湊には寄港しているだろう。
室町の記録では、三津七湊に東北で名を残すのは、十三湊と秋田湊だからだ。

ルイス・フロイスの書簡は戦国期末。
我が国国内は、段々戦国の世が統一を目前にし、畿内やらが落ち着き、戦乱復興から好景気に転じてくる。
大名らも鉄砲やらを手に入れる為に、各地鉱山を開き金銀銅が溢れ出し、世がインフレ傾向を出してくるってタイミング。

アンジェリス神父の書簡は江戸初期。
太平の世に移行し、各地が町の復興らで更に活気を帯びるが、松前氏が通商権を握り、安東氏は国換えし、夷船の姿は本州から消える。直後に有珠山,樽前山の爆発。

工藤平助,林子平の書籍は江戸中期。
既に北前船が就航し、松前藩では「場所制」に入っている。わざわざ本州迄来る必要もなくなっている。
更にロシアの東進がその前に起こり、人の移動が掛かり得る。

皆さんなら、手っ取り早く取引しようとしたらどうするか?
「場所制」が本道に広がれば、その周辺に居た方が簡単だと直ぐに解る。
ロシアが進めば、手を握る者も逃げる者も居る。
ましてや、アンジェリス神父の時代はゴールドラッシュ中で、労働力は必要。
特にテリトリーが小さな貧困層なら尚更。
移動する事の説明は、簡単についてしまう。

経済視点で見れば、この程度の推測は可能。
同時に、オホーツク文化期から一度途切れる北方系の人々の痕跡が、遺跡から出始めるのは、火山灰降灰前後から。
現状では、この推測と見事に合致する。
つまり、アイノ文化期はこの時期から色濃くなる…と、考える事は可能。


ここで一つ重要なのは、先のオランダ船の報告の様に、1500年代後半~1600年代初期には「金銀島探索」と称し、欧州船が盛んに北上し測量、それが欧州で地図として出回り始めている事。
国内と言えば、本道に居た口蝦夷と、樺太,千島系の赤蝦夷が度々ごちゃ混ぜになるレベル。
未だにごちゃ混ぜレベルは続くと…

こうやって古書を並べ、素直に全文を読んでみると、アイノ文化は「赤蝦夷」の流れを組むと。
元々居た口蝦夷に同化する様に流入した「クレオール文化」に近い性質とでも言うべきか…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/21/041328
仏教に帰依した人々の痕跡。
何しろ、松前慶広公が有珠善光寺を「再興」したのは1613年。
新羅之記録」では、(有ったか無かったかすら確定していない)コシャマインの乱で焼かれたとされる。
これが「口蝦夷の痕跡」だろう。
既に仏教を信仰する者が居なければ、辻褄が合わない。
つまり、口蝦夷は東北人に近い文化集団になる。
新しく入って来た赤蝦夷に教えるのは時系列的に可能。


勿論、これからも流れや整合性の確認は進めて行く。
ただ、現状ではこんな推測が最も矛盾がないのではないだろうか?
更なる物証を学ぶ。


参考文献:
秋田市史 第八巻 中世資料編」 秋田市 平成八年三月三十一日

※その他は、各ブログの項の参考文献による