余市の本当の凄さはこれ…「大川遺跡」の中世「港湾遺構」の片鱗

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関連項はこの辺だろう。
我々がホットスポットと考える「余市」。
今迄も文字(墨書土器,硯)、貿易陶磁器、火葬跡ら、他の地域では少ない本州との深い繋がりを示す出土遺物を紹介してきた。
だが、本当の余市の凄さは、実は中世の「遺構」を伴う事なのだろう。
北海道で抜け落ちた「中世」の姿を、確実に眼前に晒した「遺構」は道南では極端に少ない。
それが、遺物と完全に合致した形で余市「大川遺跡」では検出されている。
では、引用してみよう。

「遺構は、余市川南岸より65~80mを隔て、北東~南東方向に蛇行する大溝MO-10(幅2~3m,深さ0.8m~2m,断面逆台形,一部V形)を基軸とし、現河口より150mほどから東西約200m、南北約55m、約11,000m2の帯状空間をなす。河口に近い東辺に2列の柵列と東西を溝MO-1・2とMO-6で画された東半に3×4間(約50m2)の管理事務所とおぼしき掘立建物が復原でき、雨落溝より西には管理事務所に勤仕する近侍層の居住域とみられる小型掘立建物の柱穴群がみられる。これに西接した区画は、大溝と直交するMO-8と出入り口を開き断続して弧状に伸びるMO-12・3・4・9・7が300~350m2ほどの狭隘なゾーンを形成し、南辺を不連続な柵列で画する。ここの柱穴群にはC2群のように160cm間隔で、径22cmと30cmの太い柱根の遺存例が認められることから倉庫域の可能性を持つが、積極的な証拠はない。」
「遺物は、甕・壺=貯蔵具が欠落する点に問題を残すものの、ごく一部染付椀が15世紀後半ないし以降に下るとみられる以外ほぼ13世紀末から15世紀中葉におさまり、遺跡の盛期は道南十二館や日本海域の中核港湾町より幾分先行し14世紀後半~15世紀前半に求められる。大川中世遺跡の廃絶については、先稿で述べたように大溝でほとんど例外なく数cm~25cmほどの焼灰層が上部に堆積し、被火痕を有する中国陶磁・瀬戸陶器が総量の10%に上ることから、長禄元(1457)年のコシャマインの蜂起に連動した余市アイヌ集団の襲撃に求めうるかもしれない。」

「1994年大川遺跡発掘調査報告概報-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概要Ⅳ」 余市町教育委員会 1995年3月 より引用…


「次に壕状遺構であるが大川遺跡の全体に走るものである。北東から南西方向にみられる基本となる壕状遺構MO-10は延長約180mにもおよび、直交して10~20mもの壕が見られるが今回の調査においても確認された。遺構に伴う遺物はなく、年代については明確にできなかったが、壕の一部において、壕の掘直しや切り合いが確認された。」
「以上のように概況を記してきたが、1989~1994・1998~2001・2003年度にわたる大川遺跡の発掘調査は今年で終了した。これまでの発掘調査による墓坑は約1200基を越えており、縄文時代晩期から近世・近代までの変遷についての膨大な資料が蓄積されている。今年度の調査をふまえると、大川遺跡における墓抗群はほぼ全体像が把握されたことになり、年代とともに墓域が移動していることが確認でき、墓域ごとの詳細な比較・検討が重要な課題と言える。大川遺跡は北海道小樽土木現業所による余市川改修および大川橋線街路事業に伴う緊急発掘によって約30000m2が調査されたが、現在は掘削され、その殆どは河川となっており、その面影は写真を含む記録でしか見ることができない。しかし、出土した遺物は約200万点もあり、今後も遺構・遺物の調査および研究を通して、大川遺跡の歴史的変遷について解明していかなければならないと考えている。」
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「大川遺跡(2003年度)」余市町教育委員会 平成16年3月26日 より引用…


以上の通り。
壕状遺構は、基軸のMO-10に直交する付帯壕状遺構は26本に及ぶ。
2003年の報告書において行われた壕状遺構に残る焼灰層でのc14年代測定結果は、
MO-10…550±60y.b.P.
MO-21…590±60y.b.P.
と、大体西暦1400年位を捉えており、出土遺物の編年経過とほぼ一致、パーフェクトに「中世遺構」である事が立証されたケースなのだ。
さすがに、十三湊遺跡の様な港湾都市とは様相が違う点は1994年概報でも記載あるが、中世以降の墓抗群や地炉跡らが出現するのは江戸後期以降の様なので、東南…つまり現大川町や栄町方面まで遺構が伸びていた可能性を示唆しないのは…何故?
栄町では「金銅兵庫鎖」「杏葉残欠」が出土しているのだが。
まさか、余市の町を全発掘なぞ不可能なので、対岸の「入船遺跡」や「栄町遺跡」、「フゴッペ遺跡」らと同一次元を繋ぎ合わせ、多層構造で解析するのが、古の余市町の姿を立証していく事になると思うのだが。

さて、面白い事に、火災跡の原因を「有ったか?無かったか?」はっきりしない「コシャマインの乱」に結びつけようとしてるが、視点が抜けていると考えるのだ。
新羅之記録が何処まで正確なのか?だ。
現状、道南十二館比定地では、戦乱の跡が無く、逆に大川遺跡に火災跡が残る。
実は元々の安東氏勢力圏がもっと北海道各地に延びていて、蝦夷蜂起で道南迄押し込まれた…
この場合、元々の支配域はもっと広かった事になるのだが…こんな可能性は全く考えていない様だ。
更に、こんな蝦夷蜂起の話をしながら、十三湊や秋田湊には、同時代「京船・夷船が入り賑わいをみせていた」とある。
勿論、昆布らが本州で切れた事も無いし、北海道でこれ以後の陶磁器らが切れてもいない…これも事実。この辺をどう捉えるのか?
この辺の考察がまるっきり欠落している。
相対的に考える必要があるのだが、何故のうなる?


まぁそこは置いておいても、この大川遺跡の壕状遺構群が、所謂「和人」に纏わる中世遺構群である事は、誰の眼にも明らか。
むしろ、こういう書き方をしよう。
「本州由来又は本州縁の人々が構築・運営した遺構跡」と。
擦文文化を持った人々が、既に本州由来の人々を含むのだから、こんな表現が良いと考える訳だ。
なんでもかんでも新羅之記録に合わせ、ストーリーを構築するのも如何なものか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/152153
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
実際の史書上はこうなのだから。
北海道教育委員会が、新羅之記録は正確ではない部分が多いと認めているのだが。
登場する古書が少ない→登場する(和人が書いた)古書にストーリーを合わせる…では、ないハズだ。
むしろ、考古学的要素を引き上げねば、解明には繋がらないと思うが。


さて、こんな感じで余市の遺跡の凄さが解って戴けただろうか?
現状描かれる北海道史をひっくり返す要素を持つ片鱗を見せるのだ。
そして、茂入山はまだ発掘されてはいない
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/164447
余市ホットスポットである事は間違いない。


参考文献:
「1994年大川遺跡発掘調査報告概報-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概要Ⅳ」 余市町教育委員会 1995年3月

「大川遺跡(2003年度)」余市町教育委員会 平成16年3月26日