時系列上の矛盾&生きていた証、続報28…奥尻島「青苗遺跡」に見える「鉄製錬」と「朝廷」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/18/110054

筆者が奥尻島「青苗遺跡」を知ったのは、歴史の勉強を始めて直ぐ位の頃。
相互フォローの方からそれを教えて戴いていた。
面白そうな話を伺っていたが、なかなか見る事が出来なかった。
せっかくなので、この機会に改めて取り上げてみようかと思ったので、発掘調査報告書を入手してみた。
発掘そのものはかなり古くから行われていた様で、最近のものはネットの「全国遺跡総覧」からダウンロード可能。
だが、関連書籍を並べないと理解不能な筆者的には圧倒的に「紙媒体」派。
1981年版発掘調査報告書を入手したが、核心部分がこの発掘より前の様で、まずは最も古そうな所から下ってみよう。
その「核心部分」とは鉄製錬の痕跡である。

「北海道志などの文献によると、享徳三年(西暦一四五四年)、武田信広が上陸してから明和四年(西暦一七六七年)まで、定住者がなく、和人や夷人がトドや魚などを一時滞在して捕穫して帰つたらしい。奥尻島に遺跡があることは、昭和六年十月の深瀬春一氏の調査で明らかになり、貝塚、住居跡、遺物包含地の所在の概報を「旅と伝説」(第四巻第十二号)の"奥尻島紀行"に報告された。遺跡の調査は、昭和二十七年8月東京大学人類学教室鈴木尚教授らの調査団によつて、青苗の貝塚の発展がなされた。」
「鞴の口 奥尻島釣掛にある奥尻中学校で、数日前生徒が青苗貝塚から掘つて来たと言う資料をみた時、まだ新しい土の付いた鞴の口を遺物の中から発見した。鞴の口は縦に割れたもので、完形の五分の三のものであつたが、荒い砂混りの粘土で造られ、焼けて赤褐色になつている、長さ一七糎、円筒形で先端がやゝ細く丸味を帯びている。先端の内径約二・五糎、基部外径約八糎、内径約五糎のもので厚さ一・五糎である。」
「こゝで概略を紹介した遺跡はおもに東海岸であるが、北西部、西部、西南部は未調査である。奥尻島擦文式文化の上限に、続縄文の数形式があると考えられる~中略~特に南部は縄文の遺跡が数多く、住居址群が存在しているので、奥尻島の先史時代は予想以上に多くの課題を残していた。」

考古学雑誌 第四十一巻第二号 「北海道奥尻島遺跡調査概報」 千代 肇 昭和三十一年 より引用…

恐らく鉄精練に関する第一報はこの鞴(ふいご)の羽口。
残念ながら、生徒が掘ってしまった様なので出土詳細は不明…ここが難しいところ。
生徒にすれば、興味と善意で掘ったのだろうが、本来は専門家の指導の元で行わねば出土状況が不明となってしまう。
少なくとも、鞴の羽口あらば、鍛冶の痕跡が想像可能、ここから鉄関連遺構、そして鉄滓の検出に繋がる…のは良いのだが、筆者的には更なる疑問が巻き起こる。
何故、そんな重要地点を放棄廃絶するに至ったのか?
復興の痕跡が見えないのか?
古書上、中世~江戸期には定住者無し。
そんな拠点を放棄するのはどうなのか?


と、言う疑問を持ちつつ、取り敢えず1981年版発掘調査報告書にいってみよう。
基本層序は次の通り…

Ⅰ層…Os-a 15cm
Ⅱ層…乙部層
Ⅲ層…Os-b 5cm
Ⅳ層…Ko-e 6cm
Ⅴ層…Os白ハン層
Ⅵ層…奥尻ロームA 20~30cm
Ⅶ層…奥尻ロームB 30cm
Ⅷ層…奥尻ロームC

遺構や遺物の出土する所謂文化層は、
Ⅲ層~Ⅳ層…擦文系土器を中心
Ⅵ層…続縄文系土器を中心
にして検出される。
実は、この段階で少々引っ掛かる。
それ以前の1976年位から所々近辺の発掘が行われていて、1981報告の現場より高台では11層に分かれている。
ざっと言うと、この現場のⅡ~Ⅲ層辺りにが撹乱されているのか、細かく分かれて居たものが混ざってる?
厳しいと思われるのが、
Ⅱ層、乙部層…由来不明の火山灰
Ⅲ層、Os-b…古代~中世の火山灰
Ⅳ層、Ko-e…三世紀位の火山灰
と、一番知りたい古代~中世辺りに当たる事。
その辺を踏まえて、下記引用を。

「焼土の断面はレンズ状であり、広範囲焼土は10cm~15cmの厚さで、赤橙色を呈している。小範囲の焼土でも厚さ1~2cmを測る。こうした状態は、可なりの高温と相当時間の燃焼が行われたものと解釈でき、その目的は、土器の焼成、鉄の溶解、鍛造などに自ずと限定されてくる。」
「溶滓、いわゆるフラッグと鉄滓が~中略~3ヶ所に集中的に出土する。(1)は塊状の鉄滓230g、溶滓435gと羽口を出土した。溶滓の分布から、或いは(2)のものかも知れない。(2)は焼土を取巻いて鉄滓360g、溶滓1225gと羽口を出土した。溶滓は小石大のものが殆んどで、分布は鉄滓出土グリッドに濃く円状に広がり、外縁になるにつれ薄くなる。(3)は鉄滓960g、溶滓593gと羽口破片3点を出土した。」
「(筆者註:遺構の「弧状溝」)発掘区の南側に弧状の溝がある。~中略~総延長19.8mのものである。~中略~この溝の弧内、C-10区に焼土があり、周辺から大型深鉢形土器、台付浅鉢形土器、杯形土器、勾玉の石製模造品、把手、羽口、鉄滓などを出土している。」
「また、鉄滓の形状から、精練が行われたか、或いは、小鍛冶程度のものであったか、遺構が焼土だけであり、貝塚台地の製錬遺構をもってのみ、判断する事は困難である。」
「焼土と配石を伴う遺構は、本調査以前のものを加えると、発掘区の西北150mの墓所前三叉路と北50mにある青苗貝塚およひ台地を結んだ、広い範囲に分布する事になる。それが鍛冶址なのか、小規模な製錬が行われたものなのか、即断することはできないが、多量の鉄滓、溶滓、鉄製品の出土は、そこに鉄に関する大規模な生産遺構が存在したことを意味している。」

奥尻島青苗遺跡」佐藤忠雄/奥尻町教育委員会 1981年3月 より引用…

1980年版概報もダウンロードしてみたが、この製錬遺構の写真や詳細は、まだ確認出来ず、また、これの鉄滓らの組織観察等の報告に辿り着けていないので、小規模でも鉄製錬に成功していたのか?ははっきり解らずであるが、小規模鉄精練にtryした痕跡、鍛冶を行ったのは間違いないだろう。
何せサクシュコトニ遺跡では、温度が低く、上手くいかなかった形跡。それが何故かが解れば、何故これだけの素地を持ちうる北海道で近代迄製鉄が成功しなかったのか?それが紐解てくると思うのだが。


さて、こう書くと、直ぐ「アイノによる製鉄」だと短絡的に言う方がSNS上だと直ぐ沸いてきたりする。
だが、それはない。

「青苗遺跡で検出された墳墓は、遺体の周囲に 2 段以上の石積みが確認されていることから、扁平な石を長方形に囲んで構築した石組墓と推定している。掘り込みはないため、遺体は地表面に置かれ、その上に盛土が行われたようである。人骨は頭蓋骨と下肢骨の一部が残存し、頭位を西方に向けた伸展葬と推定されている。その頭部南側から鉄刀、胸部付近から玉類(丁字頭勾玉・水晶製切子玉・平玉、ガラス製小玉)が出土した2)。また、ガラス玉が溶着していることから、埋葬時に行われた着火儀礼あるいは火葬された可能性が指摘されている3)。石組みという墓葬構造の特殊性や共伴土器がない点などから、この墓及び副葬品の時期については見解の一致をみていない。」
「小嶋芳孝は、この墓の年代をガラス玉や水晶切子玉などから 7 世紀代と推定した4)。また、埋葬時に行われた着火儀礼について、6 世紀後半から 7 世紀前半にかけて北陸・近畿地方でみられる点に注目するとともに、大陸の靺鞨や渤海に代表される北方系埋葬儀礼の影響を受けた可能性を指摘した。瀬川拓郎は、奥尻島を『日本書紀』斉明六年(660)三月条にみえる「幣賂弁嶋」と想定した上で、青苗遺跡の墳墓は本州から渡ってきた古墳社会の人間の墓と捉えている5)。その被葬者については、阿倍比羅夫の遠征に同行し、幣賂弁嶋で粛慎(オホーツク人)と戦って死んだ能登臣馬身龍の可能性を推測している。笹田朋孝は、北海道の鉄文化について検討するなかで青苗遺跡の鉄刀についても触れ、ガラス玉・ヒスイ製勾玉・直刀などの共伴遺物から本州の古墳文化の産物と評価する6)が、詳細な年代については述べていない。最近、大賀克彦が青苗遺跡出土の玉類について検討している。従来、この玉類の流入時期については5~7 世紀と捉えられてきた7)が、大賀は同遺跡出土玉類のなかに真球形を指向して製作された水晶製丸玉が含まれている点を重視し、墳墓の埋葬時期を 8世紀以降とする見解を提示している8)。以上のように、青苗遺跡の墳墓出土副葬品の年代については、古墳時代後期から奈良時代にかけての比較的幅広い年代観が提示され、本州の大和政権あるいは律令国家の影響を受けたものと捉える点で共通する。」

「北海道青苗遺跡出土鉄刀のX線画像解析」 小嶋/中澤/稲垣/高橋/中村 2016年 より引用…

同論文では、石組墓に副葬されたこの直刀のX線画像解析によれば、その形状から7世紀後半~8世紀前期の本州系の物と概ね特定されだ。
上記の通り、瀬川氏によれば「阿倍比羅夫」に帯同した方ではないか?と仮説する。
北方影響を考えつつも、小嶋氏に至ってはむしろ、その上他の副葬の勾玉や水晶,ガラス玉の特徴は、東北と言うより畿内~北陸に近いともしている。
北海道地盤の土豪と言うよりは、この墓に眠る人物は、畿内~北陸出身の人物説が現状有力。
そうならば、むしろずっと朝廷に近い拠点だった可能性が出てくるだろう。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%8B%97%E6%96%87%E5%8C%96
wikiでは、青苗文化は「擦文文化と本州文化のクレオール」的な書き方をしているが、上記の通りむしろ朝廷色か濃くなる。
実際、擦文土器は土師器の影響で生まれた事が解って来ているので、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
東北豪族より、むしろ朝廷の拠点「津軽渡島津司」に近いものと考えるのは如何であろうか?
出土刀剣的には、この直刀の後に、北海道~東北では見慣れた「蕨手刀」へ変容していく訳だ。
ここで石帶が出土すればそうなってきたであろうが…


処で、筆者が感じた疑問に戻ろう。
仮に朝廷の何らかの拠点とした場合、何故この場所が前述の通り、中世以降定住者が居なくなり、廃絶されたままだったのか?
SNS上で意見を伺った中で、10世紀位にはピークを迎え後廃絶された…と。
時代背景を考えると、9世紀半ばの「元慶の乱」後、東北では土着土豪の力が台頭、安倍氏清原氏に権力が集中してきて、奥州藤原氏がそれらを束ねる。
故に、北海道からの産物らは朝廷拠点の「秋田城」から、それら土豪へ取り扱いが変遷する。
しかも、土豪らの財力の増大での船の大型化により、航続距離の延長が起こる。
更に、層序に見られる様に、火山灰の撹乱…つまり津波や火山噴火ら天災によりダメージを受けているだろう(少なくとも1300年代には津波の伝承あり)。
それら複合の理由で、狩場や風待ち湊以上の役目を終えた…と考えれば合理的かも知れない。


ここも古代日本海ルートの湊の一つであろう事は想像に易しい。
但し、中世以前に廃絶、静かに眠りにつく…現状我々が思うところはこの辺。
また気になる点については、報告してみようと思う。


参考文献:
考古学雑誌 第四十一巻第二号 「北海道奥尻島遺跡調査概報」 千代 肇 昭和三十一年

奥尻島青苗遺跡発掘調査報告概報」佐藤忠雄/奥尻町教育委員会 1980年3月

奥尻島青苗遺跡」佐藤忠雄/奥尻町教育委員会 1981年3月

「北海道青苗遺跡出土鉄刀のX線画像解析」 小嶋/中澤/稲垣/高橋/中村 2016年