時系列上の矛盾&生きていた証、続報29…東蝦夷地は旧虻田町「高砂貝塚」にある畑地の畝の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141
さて、ぼちぼちゴツいところも暴露せねばなるまい。

グループ内ディスカッションでも、よく話題に上がるのは「食い物」の話。
先祖が何を食っていたのか?これはむしろ、子供や主婦ならば、最も興味示すところだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/22/192105
擦文(平安)期迄で、五穀ほぼ栽培種にとって代わるのは解った。
なら畑は?
実は「八雲町」や旧「森町」で田畑の「畝状遺構」が検出されるのは知っていた。
だが、我々が欲しいのは「蝦夷地」でのそれ。
あちこちの発掘調査報告書でも、植物遺存体や炭化種子で、それを示唆させる報告はみているが、畝状遺構らの引用はほぼ無い。
が、何気に探しまくると、あったりする。
そこは、旧「虻田町高砂貝塚遺跡」。
実はこの発掘、元々はそこにある縄文墓から人骨を検出し、縄文人の骨格らをしらべるのが最大の目的だったのだが…
発掘チームとしては「迷惑な人為的撹乱」に過ぎなく、殆ど記事の記載がないが、引用してみよう。


「今回の発掘において28基の墳墓が発見されたが、そのうち撹乱をうけた墳墓は半数に近い12基に達している。これらの墳墓の上部には、有珠火山灰c2層が保っているので、撹乱は火山灰c2の降灰以前とみなされる。」
有珠山火山灰c2の降灰年代は不詳とされているが、有珠山の噴火記録には1611年(慶長16年)の噴火がある。その後1663年の火山灰b2の噴出まで噴火記録がないので、火山灰c2の降灰は1611年を降ることはあるまい。」
「E~G区では火山灰c2層下面は波状の曲線を描き、黒土層の上面は90cm~100cmの間隔をとった畝が、東西の方向をとって並列し、さながら畑地の様相を呈していた~中略~。畝状の構造は明らかに人為的なものであり、墳墓の撹乱にかかわりをもつとともに、農耕によるものとすれば、一つの問題を提起することになる。」
「第Ⅲ層の黒土層に人為的な撹乱がくりかえされたとすれば、火山灰c2層直下の10cm内外の部位にある。高砂縄文人の生活面および墓壙を被ることは当然であり、G9号とG5号墳墓はその好例である。G9号は用途不明のP3ピットの堀込みにより、墓壙は半ば以上が撹乱消失している。G5号では上半身の埋葬が浅かったため撹乱により消失し、埋葬の位置がやや深かった下半身はかろうじて骨格の位置をとどめていた。また、G6号墳墓の如くG5号墳墓の構築による撹乱もある。」

高砂貝塚 噴火湾沿岸貝塚遺跡調査報告2」 札幌医科大学解剖学第二講座 昭和62年6月25日 より引用…


さて、畝状遺構は添付通り。

有珠火山灰Us-c2は降灰年代不詳だが、後のUs-bは1663年確定。
その直近前は、1611年の噴火記録があるので、それから下る事はまずないだろうとの事。
つまり、1611年より遡る時代に繰り返し畝を作り、高砂縄文人の墓をぶっ壊していたっていうオチ。
大きく範囲をとれば、縄文~1611年の間で、1611年に極近い時期に畝作って農地にしていた可能性が高いって事だ。
その趣旨故に、文面からは不満タラタラですが、俺的には小躍りである。
何せ、旧虻田町は「蝦夷地」なのだ。


耕作を知る人達がここに居た事だけは可能性大。
百歩譲って、耕作しない人達が居たとしても、耕作はしなかったとされる「アイノ文化の人々」と、仲良く共生してたって事になるのだ。

さて、これはどんな人々?
我々は既に「菅江真澄」から学んでいる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939
そう、夜な夜な念仏?を唱える人々。
これなら、擦文文化を持つ人々の直系としても、なんら違和感が無い。
何しろ畑作をし、貝を採ったり魚を捕ったりして暮らしたであろうからだ。


何故、これらが発掘調査報告書らで引用されぬのか?
また、何故「有珠善光寺」の開基伝承が史書上無視されるのか?
恣意的と考えても矛盾無し。
何せ文字が無いのに、「考古学」的アプローチを無視し、アップデートしないのは、目論見があると勘繰られてもおかしくはない。

この辺…
実は伊達市のスタンスに疑問を持っていたので、バックボーンとしての学習をしてからと考えて、有珠湾周辺の発掘調査報告書は棚上げしていたのだが…
ぼちぼち出番だろう。
少し掘り下げていく。


参考文献:
高砂貝塚 噴火湾沿岸貝塚遺跡調査報告2」 札幌医科大学解剖学第二講座 昭和62年6月25日