時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140

前項に続き、畑の畝の存在について進めてみる。
たまたま、前項の資料と同時期に別の思惑で入手した発掘調査報告書なのだが、ペラペラ捲って驚く…
ここにも畝状遺構が記される。
虻田町に程近い「伊達市有珠町」にある「有珠4遺跡」である。
ここも「有珠貝塚」らと共に、墓跡が検出されるのが知られており、その墓の発掘をメインにして行われた模様。

まず基本層序…

Ⅰ層:近現代の埋土・撹乱、約1m
Ⅱ層:us-b(1663年有珠火山灰)
で内部二層有り、約60cm
Ⅲ層:a…Ko-d(1640年駒ヶ岳火山灰)混じりの黒色土
b…aとcの間の黒色土
c…B-Tm(946年の白頭山火山灰)混じりの黒色土
d…c層下の黒色土
Ⅳ層:風成堆積砂層

と、編年指標が三層検出。
では、引用してみよう。


「1640年以前のはたけ跡(第79図)」
「当該期のはたけ跡はKo-d火山灰に覆われ、さらにその上にUs-b火山灰が堆積している。調査区北東側で確認された。畝全体にⅢa層の堆積が認められ、構築面はⅢb層上面と判断される。畝の全長は8~10m前後である。心心間距離は約1mほどで、畝頂部と畝間底辺の比高差は5~10cm前後である。調査区外まで広がるものや撹乱されている部分もあるため正確な耕作の単位は明らかでないが、最大19列の耕作の単位が認められた。畝の方向はおよそ南北方向と東西方向の2方向が認められる。平面図を作成後、掘り下げを行い、下位の遺構・遺物を検出するとともに、他のはたけ関連の痕跡の確認に努めた。一部、畝が明瞭に検出され、かつⅢ層の層厚がやや薄い箇所においてのみ、耕作・作物痕と思われるⅣ層起源の砂の巻き上げが見られた。はたけ跡が重複・交差した箇所も見られたが、それらの先後関係は明らかにできなかった。また畝の切り返しも確認されていない。耕作・作物痕については、Ⅳ層上面で確認し、特にはたけ跡が見られなかったD・E-7・8グリッド付近で検出されたもののみ記録をとり図示した。」
「はたけ跡自体に伴うと判断できる遺物の出土はない。」
「有珠4遺跡発掘調査報告書」 伊達市噴火湾文化研究所 平成21年3月31日 より引用…

「1640~1663年のはたけ跡(第80図)」
「当該期のはたけ跡は、当初撹乱部の壁断面にて確認された。Ko-d火山灰を掘削している状態が確認でき、かつ畝をUs-b火山灰が直接被覆している状態であった。畝を検出するために、まずUs-b火山灰を水平に掘り下げ、畝の頂部がやや露出される段階まで掘り進めていった。次に畝間に溜まったUs-b火山灰を畝頂部より低いレベルにするように除去していく。」
「Ⅱb層の除去後、Ⅲa層混じりの黒色土が縞状に確認された。調査区南端から南西部に広がっている。はたけはⅡb層に直接覆われており、畝の肩が崩れずはっきりとその輪郭を留めていることから、Us-b火山灰降灰直前の、はたけ使用時の状態に近いものと考えられる。構築面はⅡa層上面と判断される。畝間の全長は現存最大で9.6m、幅0.6mである。短いものでは4~5mのものも見られる。心心間距離はおよそ1mで、畝頂部と畝間底辺との比高差は10cm前後である。畝および畝間が平行して存在する一枚のはたけは畝の数で最大12列である。畝の方向はおよそ南北方向と東西方向の2方向が認められ、これらが隣り合って存在する。切りあう箇所が認められなかったたま、それらの先後関係は不明である。土層断面の観察から、一度の切り返しがあったと考えられる。また新しい畝の端部に見られる楕円形の窪みは、古い畝間が埋まりきらなかった状態と判断した。」
「はたけ跡自体に伴うと判断できる遺物の出土はない。」
「層位的検出状況から、Ⅱ期(1640年の駒ヶ岳噴火から、1663年の有珠山噴火まで)の遺構と判断される。」

「有珠4遺跡発掘調査報告書」 伊達市噴火湾文化研究所 平成21年3月31日 より引用…

調査区外にも伸びる事も示唆させているので、なかなかの規模である。
残念ながら、はたけ跡に直接関与する遺物ななく、その状況は不明。
さて、この「はたけ跡」、何を栽培していたのか?
土壌に含まれる花粉や胞子分析をやっているが、残念ながら畝上,畝間からのそれは非常に数が少なく、むしろ畑周囲の野生植物に由来したもの。
追肥寄生虫卵も未検出。
だが近辺土杭からは、ヒエ、マメ、スモモ、カキノキ属が栽培植物として検出。これらは擦文文化期に持ち込まれた出土例がある模様。
特にカキノキ属はこれで「勝山館」に続き二例目。
植物遺存体調査から考えられるのは、ヒエら穀物やマメ類と言う事になるのか。
少なくとも、江戸初期段階で、これだけの耕作をする集団が、有珠湾周辺に住んでいたのは間違いがない。
まぁ墓の調査がメインなので、詳しい事は記載がないのは、高砂貝塚と同じ。

で、何故1640年と1640~1663年で、畑を作り替えたのか?
この墓跡にある一文を…

「1640年の駒ヶ岳噴火に伴う津波堆積物と思われる粗砂層が人骨下位に確認された。」

「有珠4遺跡発掘調査報告書」 伊達市噴火湾文化研究所 平成21年3月31日 より引用…

つまり、1640年よりずっと前からここで耕作し墓に葬られる生活が営まれていたが、津波の直撃を受け、新たに畑の作り直しを余儀なくされた…とも、取れる訳だ。
天災は恐ろしい。

さて、ここに暮らす人々はどうなったのか?
実は、1663年以降にも、土杭や柵列遺構は検出されるが、はたけ跡が新たに作られる事はない。
それらの土杭は「有珠場所」に起因すると推定され、この一帯に耕作地が復活する事は近代まで無くなっている。
故にどうなったのかは不明。


ところで、この報告書はこれらが「アイノ文化」と断定した上で書かれている。
でも、我々的には本当にそれが「アイノ文化の人々」と証明出来ますか?と問いたい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
元々、消去法でアイノとされたのだから。

むしろ我々なら…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/21/041328
前項でも添付したこの状況を鑑みれば、

①栽培種雑穀を受け入れた「擦文文化人」の末裔
②江戸初期に入った、キリシタンを含む金堀ら「本州から来た人々」
松前支配を嫌った「安東方」の人々
こんな人々が単独、混生していてもおかしくはない。


尚、この有珠~洞爺湖一帯では、後に鉄山や硫黄山の鉱山が作られる。
つまり、②の選択肢も充分にあり得る。
そして、追加背景として…
鬼菱とシャクシャインの衝突は1658年位迄は遡れる。
この人々が、アイノ文化を持つ人々か①~③迄の人々なのか?混生を含めると、断定出来る決定的要素は無い。
何せ古書上オリジナル表現は全て「蝦夷」、胆振~日高~十勝の遺物でも、アイノ文化と断定出来るものは「シブチャリチャシ」ですら出土していない。
本州で作られたものがメインなのだ。
少々嫌らしいであろうが、この背景も付記しておく。
少なくとも断定可能なのは、「耕作を行った人々の存在」のみ。
それが従来から伝わる「アイノ文化は耕作をしない」…これと相容れない事実だと言う事だけ。
恐らくここだけではない。
有珠湾周辺には、豊かな耕地があり、一部の人々はそれを知っていたであろう事だけ。
そう、擦文~江戸初期降灰迄の一定期間の実績として。


参考文献:
「有珠4遺跡発掘調査報告書」 伊達市噴火湾文化研究所 平成21年3月31日