地質学,地形学から見た北海道歴史秘話四題…北海道の先祖達は「生き延びる事が出来たか?」

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我々は、今迄も「災害」について述べてきた。
ここ至り、発掘調査報告書を幾つか紹介してきたが、その「層序」には災害の痕跡がつきまとう。
なら、「地質学,地形学」らの研究でそれらがどの程度解明されているのか?
文献の中から四題取り上げてみよう。
地質に刻まれた北海道の先祖達の生き延びる為の苦闘の断片である。


①層序に「河川由来の砂層」が無い事…

「北海道の気候のもう一つの特徴は、小雨でかつ降雨強度が著しく小さいということである。本州以南では普通に見られる梅雨前線や台風に伴う集中豪雨の頻度が著しく低い、そのほか、温帯低気圧による降雨もあるが、本州以南に比べるとその頻度も低く、降雨強度も低い、集中豪雨は斜面の崩壊や河川の氾濫を引き起こし、地形を変化させる原動力であるので、この頻度が低いということは、北海道の地形変化速度が緩慢であることを示唆する。北海道では降水が少ない上に、更に降雪としてもたらされる分が多い。融雪はそれに費やされる熱量に上限があるので(太陽放射熱および顕熱)、緩慢にしか起きない。したがって、融雪による増水は大きな洪水とはなりにくいが、頻度は大きい。」

「日本の地形2 北海道」 小疇/野上/小野/平川 (財)東京大学出版会 2003年8月26日 より引用…

実は妙に気になっていた事があった。
報告書の層序に河川由来の砂層が少なく、やたらと火山灰系の地層が重なる事。
勿論、気温や土壌凍結頻度ら他にも理由は載ってるが、一番はこれ…梅雨も台風も無い為に、豪雨による河川氾濫が少ない=地形変化の要因に成り難いと言う事。
氾濫の痕跡が無くはないが、砂の層が乗り上げた層があまり見えない
一気に地形を変えてしまう確率が低く、火山灰が洗い流される事も少ない。
その分、火山活動の痕跡が如実に現れる事になる。
水はけも悪い…か。


②土壌に現れる「開拓者」の苦闘…

「北海道開拓の歴史は土との闘いの歴史でもあった。北海道では、330万haといわれる農牧地(傾斜が15度以下で標高800m以下の土地:瀬尾,1951)のうちの約75%が化学的・物理学的性質からはそのままでは農耕地に適さない、いわゆる特殊土壌によって占められていた。特に広い面積を占める火山灰土、泥炭土、重粘土は、三大特殊土壌と呼ばれていた(山田、1953)。このうち、重粘土は厚いテフラ(註釈:火山灰土)に覆われない北海道北部の段丘上に分布し(図1)、湿ると粘性が強く、乾くと逆に著しく硬くなる性質を持ち、化学的には強い酸性を示す土である。このような台地上の重く粘りけの強い強酸性土壌は、まだ機械力がなく人力に頼らざるを得なかった明治・大正期の開拓者にとって手強い相手であった。」

「日本の地形2 北海道」 小疇/野上/小野/平川 (財)東京大学出版会 2003年8月26日 より引用…

火山灰をモロに食らった胆振~道東に比べ、道北~後志は影響は少なかったがその代わり、強酸性重粘土層があったと。
現状、この粘土層は、大陸由来の風成塵の堆積進行しながら最終氷期に溶けたり凍ったり繰り返し緻密化し出来たと推定される。
北海道でなかなか農耕が定着しなかったのは、こっちがデカいのでは?
北海道と言えば直ぐ寒さのせいにしがちだが…違う
古代でも、水のルート伸ばし、水温を上げる灌漑技術は東北でも行われた。
短期間で育つ豆らの作物なら、夏場でもこんな技術ならカバー出来ただろう。
だが、土質はこれではカバー出来ない。
擦文期に、札幌サクシュコトニ遺跡らに見られる様に、台地上より低地を好んだのはこのせいでは?
そして明治期に厚岸らで牡蠣殻を掘り出し必要としたのは、これら強酸性土壌を牡蠣の炭酸カルシウムで中和する為だったのでは?
明治の開拓者が、如何に苦労したか考えるべき。
これらは、地質学や農業技術らの専門家なら知っている。農家の人々の話では知れた話の様だ。
ただ、歴史学に反映させていないだけだ。
現在、明治の開拓百年記念塔を取り壊そうと言う話があるそうではないか。
よくこれで、開拓史を消そうと出来るななと、我々は恐れ入る。
これ等は、開拓使松前の人々もアイノ文化を持つ人々共通の問題。
何せ、こんな苦労をしながら食べ物を得て、生き延び歴史を刻んだのだ。
皆、これらを食べてきた…
それで明治の開拓の歴史を消す?
恥を知った方が良いと言っておく。


③厚岸周辺らで中世に人が住める環境だったのか?…

「沢井・三塩(1998)はチライカリベツ川の沖積低地において、海成層と陸成層の境界を谷の縦断方向に追う事によって、過去3000年間の海進・海退過程の変化を連続的に把握した。それによると、3000年前頃までの時期にはチライカリベツ川沖積低地の最上流地域まで干潟が広がり、現河口では内湾が形成されていたが、2600年頃にかけて海退が起こり、泥炭地になった。その後、1900年前頃をピークにする海進が起こり、前の時期に形成された泥炭地の上・中流が再び干潟になった。さらにその後の海退とともに、900年前頃には干潟は消えて現在と同規模の湿原が現れた。さらに600年頃以降の小規模な海進を経て現在の地形が作られたとしている(図3.1.7)。このような多数の小規模な海進・海退現象は、千島海溝沿いで発生する大地震および大地震間の隆起・沈降とも関わっている可能性があり、注目に値する。」

「日本の地形2 北海道」 小疇/野上/小野/平川 (財)東京大学出版会 2003年8月26日より引用…

ざっとだが、
3000年前→紀元前1000年
2600年前→紀元前400年
900年前→西暦1100年位
600年前→西暦1400年位…

前後はするだろうが、この指標を用いると…
1・縄文…
干潟→湿原へ
2・縄文晩期,続縄文~擦文…
干潟、後に湿原化へ
3・中世…
湿原だった
事になる。
で、1400年位から大体現在の形になっている。
これは先の厚岸での報告に大体合致してくると思う。
擦文期以降の遺跡が消えて、近世迄痕跡を消す…これは、「地震津波で干潟…牡蠣の漁場が消えて、湿原化した」からでどうだろう?
人が住み難い環境になり移動を余儀なくされたと考えたら合点は行くだろう。
ましてや海退時期に仮に住んだとしても、もっと海の方になったハズ。
現状、そこは海の底なので発掘不能、故に検出されていない。
少なくとも地質学からみれば、厚岸周辺は、干潟の存在で盛衰が決まってたのでは?


④5mを超える「巨大津波」の痕跡…

「北海道の太平洋沿岸は千島海溝に沿って巨大地震が頻繁する地域であり、地震動とともに津波による被害を受けてきた。」
「前略~「なお、アイポシマ(注:十勝太平洋岸の地名)付近の海食崖では樽前b統火山砂の直下に厚さ5cm前後の薄い礫層がはさまれている。この礫層は、径5cm以下の円礫よりなり、連続性がよい。この礫層が地形発達史上どのような意義をもつかは明らかにし得なかった」。じつはこの円礫層こそが想像を絶する巨大な津波によって海食崖の上にまで打ち上げられたものなのである(写真1)。」
「北海道の太平洋沿岸の随所に発達する低湿地の泥炭層には、砂の薄層(厚さ1-2cmから10cm)が数層はさまれる。この砂層は最大径2cmの海浜で円磨された軽石礫を含み、内陸数kmまでも分布することから、津波が運んだとしか考えられない。~中略~十勝の太平洋に望む海岸線は広尾から数十kmにわたって直線的にのび、かつ高さ30mから3m程度まで様々な高度の海食崖をなす。海食崖は完新世を通じて後退を続けているから、時代を遡るほど海岸線の位置は現在の海岸線より沖合いにあったことになる。つまり、現在の海食崖上に海成砂層が分布する場合、それは海食崖をこえる規模の津波が内陸まで侵入したことを意味する。」
「このような津波堆積物の発生年代は、十勝地方の太平洋岸では津波の発生年を特定可能な歴史史料などがないかわりに、年代がわかっているテフラと泥炭層や黒土層の14C年代に基づいておおよそ推定できる。」
「前略~潟湖と太平洋を分ける砂州(標高5-6m)が、最新巨大津波の規模(波高)を評価する指標となること、すなわちこの砂州はTa-bテフラにおおわれており、AD1669年以降に千島海溝沿いで生じたどの巨大地震砂州をこえる規模の津波を引き起こさなかったことがわかる。」
「以上のようにして求められた巨大津波の発生時期から、それらの再来期間はおよそ400-600年と見ることができる。自然現象としては驚くべき確かな再来性を示すといえよう。そして最後の巨大津波の発生は17世紀初頭であり、以来およそ400年が経過している。」

「日本の地形2 北海道」 小疇/野上/小野/平川 (財)東京大学出版会 2003年8月26日 より引用…

実は、B-Tm(白頭山火山灰)降下した946年以降のこの巨大津波の発生は現代迄に、
十勝…2度
釧路…3度
根室…4度、検出される。
そして、B-Tm~Ta-bの間で検出された津波の間には一度あり、これは根室~十勝迄全てに検出されており、Ta-bの巨大津波と同等又はそれ以上の規模だった事になる。
丁度946~1669年の中間位であろうか。
少なくとも高さ5mの砂州をを遥かに超え、後に高さ30mの海食層へ痕跡を残し、内陸へ向かった事になる。
そして、そんな巨大津波は、現在~200年後迄に発生する可能性が高いと言う事なのだろう。
江戸期の史料はあり、津波の状況も幾つか記録にあるだろうから、敢えてここでは書かない。
地質は語る。
巨大地震津波の発生を示唆する地質学者達の警告は、こんな過去の実績の研究から導き出されていた訳だ。


以上四題の歴史秘話…
正に、「生き延びる事が出来るのか?」…そんなレベル。
前述の通り、これら災害をはっきりと史書や発掘調査報告書らに記載したものを、筆者はあまり見た事は無い。
勿論、それぞれの文献が出版されたタイミングとの兼ね合いがある。研究は年々アップデートされていくからだ。
だが、なら最新の論文らに反映させて然るべしだが、あまり知られた話では無さげだ。
つまり、実態は、殆ど歴史学へ応用されてはいないのだろうと推測可能。
だから言うのだ…「多視点で検討すべき」「歴史は遡るのではなく、下るべき」と。
それぞれが、それまで住んでいた故郷を離れる根拠にはなってくるかと思う。
「人が住み易い環境であるか?」と言う最も単純且つ重要な視点が欠落しているとも言える。
特に②~④は、命に関わる重要な問題。
備蓄食料を得られるか?
大災害で人口が一気に減少したのではないのか?
文化の継承が行い得るか?
誰だって、死ぬのは嫌だろう。当然、生き延びる為に移動をする。
特に誰も住まない遊休地があるのであれば、当然ながら移動をして然るべし。
「極当たり前」の行動を行う。
近世に人が住んでいたから、そこに人が古代からずーっと住み続けていた等と考える方がおかしい。
我々は少なくとも3.11を経験し、映像を見ている。
福島第一原発の水蒸気爆発を、そのまま有珠,樽前山の爆発へ置き換えてみれば良いだろう。
目に見えぬ放射線ではなく、木々を埋め尽くす火山灰や火山礫が降り積もる環境…
現実、未だに故郷に戻れず避難している方々が居る。
生業が成立しない土地に戻る?
答えは「否」だ。
生業が成立するまでの一定期間、人はそこには住まない。
なら、住める環境が何処だったのか?を探るしかない。
そこに移動を行っていたと考えるべき。
文化が途切れて当然で、その地は廃絶され遺跡と化す。

勿論、我々は歴史を学んで二年にもならぬ素人集団。
これを断言出来る程の専門知識なぞまだ持ち得ない。
だが、そんな我々でも、こんな簡単な「矛盾」に気が付く。
学問や行政のプロが、この矛盾に気が付けぬハズは?あるまい。
だからこう言うのだ。
文化の差異が大きいのであれば、それだけその文化が色濃い地域から人が移動してきた可能性が高くなる。
北方ばかり見れば、それだけそこからの移住説が濃くなってくる物証となり得る。
上記で考えたら、それは道東で言えば「江戸初期の大地震,大津波,大規模火山爆発」の時期に当たり、住民が居なくなった土地の環境が戻った段階で、別文化を持つ者が侵入した可能性が高まると。

最も単純な掟。
人が住める環境に無ければ、文化継承なぞ無い。
理由は…継承する人が居ないから。
これは、学問以前の真理である。

が、まだ上記は、歴史の断片の一つに過ぎない。
たった一片に過ぎない。
もっと多視点で歴史に学べと…言いたい。


参考文献:
「日本の地形2 北海道」 小疇/野上/小野/平川 (財)東京大学出版会 2003年8月26日