時系列上の矛盾…島牧村「チャランケ・チャシ」から見える「チャシは単独運用ではない」と言う考え方

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関連項として、「ユオイ,ポロモイチャシ&二風谷遺跡」の項を上げておこう。

北海道史を学ぶ上で必ずぶち当たる一つが「チャシ」だろう。
何なのか?
砦や聖域ら…諸説ある様だが、あまり取り上げて来ていなかった(あまり発掘調査報告書が出回らない)ので、毎度ではあるが、現物,物証と背景を見ていくのが我々のスタイル、我々なりに考えてみよう。

島牧村にある「チャランケ・チャシ」。
何でも、元々埋蔵文化財登録されていた為、国道229号線改良工事の際、一時チャシ跡を避けて敷設していた。
だが、泊川橋の位置や避ける為のカーブの問題から、次改良では一部縁に当たる部分を切らざる負えなくなったと、経緯にある。
おいおい…何の為の埋蔵文化財登録なのだ?…置いといて、話を進める。

では、引用していこう。

「チャランケ・チャシは、昭和48年のチャシ分布調査において登録され、埋蔵文化財包蔵地カードには、「立地,泊川河口左岸の砂丘,小独立,標高8m,特徴,その他,この辺はかってのアイヌ・コタンで、当時チャランケをした所との伝承があり、アイヌの部族の争いをめぐって、勝利者の間を転々とした壺の話もある。(豊平 小柳金吉談)」とあり、これとほぼ同様の記述は、宇田川洋氏の『アイヌ伝承と砦(チャシ)』(宇田川 1981)中にも紹介されている。」
「これら、武四郎が残した記録の地名と、島牧、泊、太平、千走など数多くのものが一致する。しかし、武四郎の地名の中には、チャランケ・チャシを指すような記述はなく、地元にも、地名としてチャランケ・チャシの名は残されていない。このため、調査以前の認識の中には、自然地形ではないかという危惧もあった。」

「本チャシは、頂平坦部径20×13m、裾部径35×23m、断面形状は台形、平面形状は略長円形を呈し、裾から頂への比高差は4mの規模である。」
「チャシの形態及び、その研究については、様々な分類基準が示され(河野 1958、藤本1977,1980、後藤 1982,1984)、大きく、先丘式チャシ、面崖式チャシ、丘頂チャシ、孤島式チャシの4形式に分けられ、更に、これらの接衷形態、細分化されたものなどが示されている。本チャシをこれらの分類形態に当てはめて見るならば、独立丘を利用し、山側の裾部を切って壕を掘っていることから判断するならば、孤島式と言えるであろう。」

「本遺跡の調査は、前述したごとく、チャシ斜面のごく一部に限られたものであった。チャシ主体部は発掘外であるため、遺構等の様相は不滅であるが、山側の裾部にあたる傾斜面下で壕の存在が確認されている。また、発掘区が傾斜面であったためか、チャシと共伴する遺物は出土していないが、続縄文期の遺物が少数出土している。」
「出土状況は、木の根や盛土除去後の第Ⅰ層から第Ⅱ層上面にわたって出土し、それも、傾斜面下位に多い。」

「本チャシを含む泊川左岸地区には、前述もしたが、泊川河口遺跡が存在する。同遺跡は河口左岸の標高5m内外の海岸段丘上に営まれたものであり、その広がりは川岸から、本チャシの裾部近くまで達している。遺跡の営まれた時代は縄文~アイヌ期まで認められ、チャシ調査期間中に筆者らも、何点か遺物を収集している。」
「地元の人達によれば、チャランケ・チャシと同様な独立丘が現在の国道沿いに、数基存在していたといわれ、本チャシ以外にも何基かのチャシが存在した可能性があるが、現存は盛土整地され、往時の姿を見ることはできない。また、チャシより1km程瀬棚よりの水田内には方形を呈する2つの黒色土の落ち込みが認められ、擦文期の竪穴住居跡の可能性がある。」

「チャランケ・チャシ発掘調査報告」 北海道島牧村教育委員会 昭和60年3月20日 より引用…


昨今層序から書いているが、なんと13層の砂層がほぼ均等且つ水平に並び、全体を覆う様に砂層があるのはⅠ,Ⅱ層のみ…割愛する。
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残念ながら、主要部の発掘をやってはおらず、遺構全体像や構築年代を示すものは無い模様。
ただ、本体の層序に火山灰が全くなく、裾にある壕の覆土中に二層の黄褐色火山灰がある。つまり、チャシ構築はその後になるのだろう。

出土遺物はこのⅠ,Ⅱ層付近から、続縄文の土器が地文確認可能なもの31点、石器が9点。
本来、地下にあるべき遺物だが、覆土として上からかけられた…と言う事か。
他には少し離れた場所、チャシに伸びる泊川河口遺跡のものと考えられる太刀やキセルと土器らが数点出土したのみ。
構築年代を割り出すには少な過ぎる。


さて、妙な事に気がついただろうか?
影響を受けにくい地域ではあるが、壕跡にはあるのに、火山灰らしきものが無い。
しかも、「あの」松浦武四郎が、これら数基あったと考えられるチャシ跡に全く触れていないそうだ。
更に、地元で地形に纏わる話が殆ど無い事。
下手したら、「チャランケを行った伝承」は松浦来訪後に起こった話なのか?
壕に残る火山灰は、本来なら、チャシ全体を覆う様になっていなければならない。
つまり、火山灰降灰より後の時代…極最近に構築されている事も考えられると言う事だ。
最も下った場合、松浦来訪後…
又、壕跡に火山灰が残り、本体に無いと言う事は、元々壕を伴う遺構があった場所に、後の時代に周囲の砂をを使い、再構築した可能性も残る。
まぁ何にして物証がなく、主要部分の発掘がなられていないのだから、この辺にする。


さて、本題。
引用の通り、実はチャシは四種類に分類される。
恐らく、構築年代や目的が違うだろう。
それぞれ、地形や目的に合わせて行うのが土木工事や建築の常。
泊川河口遺跡と一体なら、このチャランケ・チャシは単独で運用された訳ではなく、居住区たる河口遺跡と、何らかの意図を持って盛土した複数の山とによって運用した…とも考えられるが…どうだろう?
先に添付した平取の「ユオイ,ポロモイチャシ&二風谷遺跡」でも、それぞれのチャシは居住区たる二風谷遺跡の陸路側、川辺側それぞれを見張る事を想定する様に配置されている。
つまり、元々単独で使われた訳ではない事になる。
伝承で、「それぞれが別々の物」だと言うなれば、周辺一帯が廃絶された後に、後発で居住開始した人々が全く別用途で使い始めた…こう考えても筋が通る。

何故そんな発想が出来るのか?
我々は、究極の蝦夷(エミシ)館である「大鳥居山柵」を知っているし、本州の山城も知っている。
大鳥居山柵は単独運用はしておらず、付近にある「台処館跡」や周辺の館跡との連携運用。
山城も本丸,二ノ丸,三ノ丸ら分割された上、同様に周辺の城館と連携運用。
何故チャシの様に、近辺に居住区があるのに、細切れで考える必要があるのだ?と、逆に訊ねたい。
天性の地政学を地でいくご先祖達が、何の構築コンセプトも持たずに施設を作るのか?
そう考えたら、答えは即答で「否」。
よって、仮に「最後の使用者」の伝承が細切れで伝わっていたのなら、その「最後の使用者」は構築コンセプトを知らないで使っていたと言う事だろう。
この泊川河口遺跡&チャランケ・チャシ跡も、他の小山の分布によってそれらを割り出せば、実は、構築時点では、そこそこ大きなムラや都市だった可能性はある。
何故、こうも見え方が違うのか?
北海道の検討の場合、スタートラインが近代伝承から遡っていく…周辺のコタン伝承からの遡りとなる。
だが、我々は時代を下り、「何故そんな施設が必要になったのか?」から検討開始…
自ずと見え方は違ってくる。
まして「構築コンセプトを知らぬ使用者」からの伝承ならムラや都市が見えるハズない。
数軒程度の居住単位なら、ムラと呼べる単位ですらないので、チャシ間の距離観が埋まりはしないだろう。


如何だろうか?
もし、こんな考え方が成り立つなら、元々それなりの人口を抱えたムラや都市が、何らかの理由で廃絶移動したり、規模縮小して、近世に松浦武四郎らが見た姿になったと言えてくる…何せ擦文文化期の遺跡規模は、近世より大きいであろう事は想像に優しいし、場所により災害痕跡はちゃんと地質学的に検出もされている。
それらを網羅せねば、簡単にアイノ文化期の開始時点も文化隔絶の謎なぞも解ろうハズはない。
少しずつ、チャシについても触れていこうと考える。


参考文献:

「チャランケ・チャシ発掘調査報告書」 北海道島牧村教育委員会 昭和60年3月20日