時系列上の矛盾…瀬棚町「瀬田内チャシ」は江戸期の物、中世迄遡るのは難しいと報告されていた

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/30/142801
前項に続き「チャシ」について報告したい。
瀬棚町
新羅之記録で何度か登場する地名。
タナサカシの乱…
ヘナウケの乱…etc.
正直、細かく学べてはいないが、筆者的に一番馴染みがあるのは、「夷狄船舶往来法度」に登場する「ハシタイン」は瀬棚とか。
そんな瀬棚町には「瀬田内チャシ」がある。
ググると割と記述され、文献にも登場する。
その発掘報告概報を入手出来たので、どんなものか見てみよう。


実はこのチャシ、この報告概報の「調査研究略史」の項によれば、昭和38年に千代肇氏が調査して、1640年頃と1529年頃の二層あったとし、後に昭和49年海保嶺夫氏が文献史学の立場から千代氏の検討結果を受け瀬田内チャシは1529年に推定しうるとしていた。
つまり「タカサナシの乱」らに関与する可能性を示唆させており、その他周囲の発掘らでも、そうではないか?と期待されてきた様だ。
その貴重な文化財であるが、近辺で建材用の砂の採取が行われており、当該地周辺も砂採取許可申請がされ、他に代替地が無い事や事業存続上の死活問題と成り得る等の理由により、緊急発掘に至たった経緯だと言う。
現在も「瀬田内チャシ」は、GoogleEarthらでは検索可能だが、筆者的にその後どうなっているかは、知るよしもない。


では、層序からみていこう。

Ⅰ層…褐色砂質土
Ⅱ層…淡褐色砂質土(遺物層)
白色火山灰層…未特定
Ⅲ層…暗褐色砂質土
Ⅳ層…淡褐色砂質土
Ⅴ層…黒褐色砂質土
Ⅵ層…淡褐色砂層

キーになるのが、このⅡ層下部の火山灰層。
はっきり何の降灰か同定が出来ていない。
先の千代氏の報告では、1640年のKo-d(駒ヶ岳火山灰d)と推定されていた。
だが、近辺にある「南川遺跡」では、1741年のOs-a(渡島大島火山灰a)だと推定され、その差101年。
後者の場合、1643年頃の「ヘナウケの乱」との関与は否定される。
この発掘調査報告では、Os-aの前、1625年頃の乙部層ではないか?としている
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141
乙部層は、青苗遺跡で登場したが、本調査報告概報では、奥尻島神威岳の1725年の爆発による降灰ではないかとの説を説明している。
いずれにしても1700年代の降灰と考えた事になる。
では、それを踏まえて観て戴きたい。


「瀬田内チャシには、いわゆる丘先式のチャシに見られる様な壕を地上から見ることはできないが、写真や地形図に示したような段が存在する。しかし。これもいわゆるお供山式とよばれるチャシの段とは異り、鉢巻き状に一周するものではない。それは平面的な輪郭が円形でないことにもあらわれてきる。地上から観察できる段は丘陵の北側と南側に限られているが、南側のものが今回の調査区域に一部含まれていた。図3の断面図に示されているように、B-5,B-6部分の段には火山灰が存在しなかったりとぎれていたりしてその形成期が判然としないが、B-9およびB-11の段は明らかに火山灰降灰以後に作られたものである。さらに、それらは遺物包含層であるⅡ層の堆積後に耕作のために削平された可能性さえある。これをもって、すべての段が新しいものとは言えるわけではないが、この丘陵の現在の形は多分に後世の影響を受けているようである。」
「発掘の結果、図5に示した周溝が確認された。外周の太い壕は幅約1m、深さ約40cmである。内側に4列になってめぐっている溝は幅約20~40cm、深さ20~30cmで、その中や周囲に柱穴様のピットがある。溝の中のピットは比較的大型であり深さも50cm近いものがある。これらの周溝とそれに付随する柱穴様のピットは、たまたま火山灰の堆積していない部分のため、火山灰との新旧関係は明らかでない。しかし覆土中には火山灰のブロックが混入しており、埋まった過程では既に火山灰は降っていたといえる。」
「この櫟群からB-4とB-5の境にかけて、地表面にきわめてわずかな高まりが続いている。千代氏のいう頂上部の土塁とはこれをさすものと思われるが、断面の観察では特別な変化はみとめられなかった。その他の土塁については、表面観察ならびに発掘によってもその位置を推定するさえできなかった。」
「これらピットは、掘りこみの時期には一部に差はみられるものの、そのほとんどは火山灰の分布する部分においてもその上面で確認しており、火山灰降灰後も存続していたものと考えられる。また、これらのピットや周溝からは、柵列や家屋等が存在したことが想定される。」

「瀬田内チャシ 砂利採取事業に伴う緊急発掘調査の概報」
瀬棚町教育委員会 昭和54年3月31日 より引用…


層序、つまり時代変遷との関連性が強い段,周溝,ピット(人口的に掘られた穴)の部分を引用した。
遺構としては他に、
・配石
貝塚(動物違存体確認済)
・墓(貝塚中。墓壙見えず)
遺物としては、
・陶磁器
・金属器(刀,刀子,鍋,釘,かすがい,斧,漁具,キセル等)
・骨角器(銛,中柄)
・装飾品
・礫と石器
になり、編年経過が解り易い土器は出土していない。
目視で確認出来る段は、
・頂上…B-1~B-5
・二段…B-6
・三段…B-7~9
・底部…B-12~
となっており、周溝やピットは頂上~B-5付近に検出されている。

上記等を踏まえ、こう纏めている。
・瀬田内チャシは、1500年代のタナサカシの乱に関連するものと言われてあるが物証は得られなかった
津軽一統志に登場する瀬棚の長「彦次郎」に関連するのではないか?
・火山灰降灰年代は1600~1700年代それぞれ中葉
・陶磁器編年経過より遺物の年代は1700後半~1800年前半の可能性が高い
・周溝やピット等は、一般に言われるチャシとは趣が異なり、むしろユーカラのチャシに共通点がある。

以上の様な考察がされている。
近辺の遺跡に珠洲系陶器の出土らがあり、この近辺に中世に人が住んでいた事を否定するものではないが、少なくともこの発掘では、瀬田内チャシは江戸期の物だろうとしている。
残念ながらこの南側部分は、中世遺構ではない模様。


そもそも論、前項でも書いたが、目視から「チャシ」とは表現しているが、全てが土塁,空堀で守られる様な構造をしているとは限らず、この様に自然段丘に少し手を入れ、柵列と建物を建てた様な物もあるし、発掘調査したら全く遺構が無い場合もあるのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/19/203842
浦幌の「十勝太海岸段丘遺跡」でも、チャシの伝承あれど、現物は検出されなかった。
実は、チャシとされる場所の発掘調査報告を検索すると、遺構が無かったあるいは記載されない場合は多々散見される。
つまり、後世の人々が自然地形を「チャシ」ではないか?と勘違いしていると思われるケースはあるのだ。
ましてや、ここも「火山灰の壁」が立ち塞がる。
旧来から…は通じない。
降灰以前に遡る事は不可能。
つまり、構築年代とその構造、周囲の遺跡との関連性…構造コンセプトをはっきりさせなければ、砦や聖域らとされる「チャシ」とは断定は不可能。
事実、「チャランケ・チャシ」は自然地形ではないか?と危惧していたではないか。
その辺は本州も変わらないと思う。
城館とされてはいても、城か?寺社か?なぞ、廃絶されてからの年代が古ければ発掘せねば解らないのだから。
勿論、全て発掘して明らかにしろなぞ、保存の観点からも予算の観点、地権者との関係からも言えた話ではない。
試掘も含め、状況に合わせてやるしかないのだ。
どうだろう?
チャシとがっくるめて言ってはいるが、その実はこんな感じである。
現状は、それが本当にチャシなのか解らない場合や時代により運用方法らもバラバラな事もあり、本当は「解らない」が実状なのだろう。

それらを踏まえ、まとめを書いた峰山巌氏はこう締めくくっている。
「「チャシ」にこだわることなく、近辺にあった運上屋や場所請負制度との関連を考慮すべき」
だと。
至極同感である。

何でもかんでも「チャシ」にしてはいけないし、何でもかんでも「アイノ文化」な訳もない。
チャシと一口に言っても、時代や用途らが同じではない。
構築コンセプトを追う必要あり。
必要な事は、多視点で学術的に検証し、それが真実か?探求を重ねる事であろう。


さて…
「瀬田内チャシ」は中世遺構ではなく、中世の蝦夷衆の乱とされるものとの関連性は無い様だ。
では…
締めくくりに当たり、我々からはこれを問うとしよう。
新羅之記録等に記載される中世の出来事は何割が本当の事なのか?」と。
これは何も、我々が穿った思考をしているからではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
以前紹介した通り、史書たる新北海道史ですら、そう指摘していたのだから。
研究対象とされる「コシャマインの乱」ですらこれ。
有ったか無かったか?解らぬものの内容をゴタゴタ議論するより、有ったか無かった?を立証するのが先。


再度…
新羅之記録等に記載される中世の出来事は何割が本当の事なのか?」



参考文献:

「瀬田内チャシ 砂利採取事業に伴う緊急発掘調査の概報」
瀬棚町教育委員会 昭和54年3月31日