https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/192546
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/180351
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
関連項は上記通り「ゴールデンロード」とした一連である。
擦文遺跡と後の鉱山との一致性について「臭う」と考えている訳だ。
これは当然、中央史における「金の需要」、東北史における「砂金発見や鉱山開山の伝承」らが、時期的に一致してくる点からの推測からもある。
ましてや江戸期におけるゴールドラッシュの人口インパクトは、無視すべきではない。
なら、これらも物証の有無を確認せねばなるまい。
参考に、SNSにで。
秋田県埋蔵文化財センターの展示である。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1389152950979686408?s=19
金属やガラスらを加工したり、鉱石から鉱物を精練する時に必ずに必要になるものがある。
『坩堝(るつぼ)』
元になる原料を高温に熱し、融かしたり酸化,還元する為の容器の事。
坩堝用素材の絶対的条件は、その為耐熱性になる。
砂鉄やガラス原料,地金らを容器に入れて窯で熱した時に、容器が燃えたり溶けたりしたのでは全く用を足さない。
なので、埋文の展示の様に、土師器,須恵器ら焼き物、凝灰岩や安山岩等耐熱性の高い石材らを使用していた。
特に灰吹き法精練では、凝灰岩の坩堝に鉛を吸い込ませて金銀のみを取り出す事は紹介済み。
現代でも陶質坩堝は使われている。
よって、我々は特に、砂金の「選鉱皿」や「坩堝」も探している訳だ。
さて、ここまでが前提になる。
「有珠善光寺」…
何度も紹介しているが、江戸期の「三官寺」の一つ。
実は寺伝では、826年に慈覚大師が自ら彫った阿弥陀如来を安置し開山されたと伝承される。
勿論、学術的な裏付けはされておらず、恐らく北海道の博物館らに問い合わせしても、古刹として報告される事は無い。
たまたま、幾つかの検索ワードで遺跡総覧を探ったら「坩形土器」と言う物があった。
そこで直ぐ様どんなものか?と発掘調査報告書を入手したので、引用してみよう。
「杯形土器(第31図-1~3) 1は土師器で体部中位に粘土接合による段を有し、内面にヨコヘラミガキを施す。2・3は内外面回転ナデをのこしている。いずれも口径反転復元できた。」
「坩形土器(第31図-4~6) 4は内面に荒いヨコナデを外面にヨヨハケの後に粗いヨコナデを施す。胎土は径2.5~3.0mmのチャートを多く含む。煮沸具特有の混和材かと思われる。外面にはすすが付着している。5・6は外面にヨコヘラケズリを内面にミガキを施す。これらは形態が4と類似するので、坩形土器と分類したが、他の機能(例えば蓋など)を有する可能性がある。」
「須恵質陶器(第31図-14~16) 14は体部上半。条線叩きをヨコナデによって消している丁寧なつくり。15も体部上半で成形時の器面の凹凸を残して条線叩きを施す。16は体部下半で凝格子の条線叩きを施す。これらは、調整技法からみて「古墳時代」の須恵器ではない。いずれも甕の破片。」
石皿(第35図-14・15(筆者註:おそらく14~16の誤植であろう)) 14は隅丸方形で断面は台形状の底辺側を使用している。15は使用面が2段になっている。材質が14が安山岩で、15が多孔質の玄武岩質安山岩。」
「有珠善光寺2遺跡Ⅱ -史跡保存整備事業に伴う発掘調査-」
伊達市教育委員会 平成元年3月25日 より引用…
「有珠善光寺」の境内の中は遺跡になっており、年度や位置により、有珠善光寺遺跡と有珠善光寺2遺跡に分かれている。
近年、最新発掘はまだやっており、そちらはまだ未入手だが、本命はこの「坩形土器」の記載があるver.Ⅱだった。
最新版は記載が無かったので、別途入手検討である。
時代特定は包含層遺物でありムリ。
が、擦文土器の出土もしている中、土師器,須恵器が同時に出土しており、土師器→擦文土器と移行するどころか併用の可能性や、後の時代に(須恵器が続縄文で入った物ではなく新しい時代のもの)改めて断続的に持ち込まれた可能性もある。
この記載内容を観る限りでは「坩形土器」とは、その形から表現した様には見える。
だが、「4」の一点に関してだけは形のみならず、原料の土にチャートを含ませ熱で割れ難くしたり、すすが付着し直接火に掛けたであろう痕跡がある。
使用痕がある。
残念なのは底部が無く、何を入れたのか断定不能。
他に石器も形態に妙な特徴を持つ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
ここで紹介した様に、近辺の洞爺~有珠では、後に鉄や硫黄の鉱山が開かれ、鉱物層があるのは報告済み。
勿論、おおざっぱな推定しか出来ないが…本当に「坩堝」なら?
何らかを融かす為に本州から持ち込み、火に掛けた事が仮説化可能になってくる。
こんな特徴の土器が、実はまだまだあるなら、要注意となってくる。
因みに、「4」土師器は口径が10cm強で、金属を融かすには、良いsizeであるとは思う。
土器は意図してあまり触れてはいないが、こんな特異な特徴があるのなら考慮し物証探しをしていくのも良いかと考え紹介した。
ゴールデンロードの探索はこれがまだ最初。こんなヒントを少しずつ掘り下げていこうと思う。
まだまだ先は長い。
ところで、「有珠善光寺,有珠善光寺2遺跡」からは、まだ古代有珠善光寺の痕跡は得られていない事も付記する。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939
菅江真澄が訪れた「有珠善光寺」は三官寺になる前。
この段階で既に阿弥陀如来像は煤けていた。
確か火山噴火で、阿弥陀堂の場所は、換わってる伝承が有った様な記憶。
なら、古代有珠善光寺は、場所がズレて当然だと言う事になる。
その辺を発掘チームはどう捉えているか?は知るよしもないが。
参考文献: