河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/06/174150

関連項はここになる。
全く関係ない内容を学ぼうと入手した論文集なのだが、たまたま二件SNS上で気になる事があり、それについての記載があったので紹介してみたい。
河野広道博士は、昆虫学、考古学、アイノ民俗学の研究者。
北海道の歴史学創成期から活動された方。
筆者的には支持する研究者を持たぬので、細かい所全てを知る訳でもない。
詳しくはそれぞれ調べて戴きたい。


①発掘,研究への気構え…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
河野博士は、後藤寿一博士らと江別,恵庭古墳群らを発掘した人物である事は紹介済み。
実は、SNS上で江別古墳群や江別チャシの現状を見せて戴いた。
都市開発で、発掘当時の片鱗は既に見えない。
そんな時にこの記事を見つけた。
河野広道博士没後二十年記念論文集からの一節。

「この時、先生はいろいろな発言をしたが、私の印象にのこるのは次のようなことであった。すなわち、遺跡の発掘は遺跡の破壊である。一度こわされた遺跡はいかにしても原型に復することはできないのだから、発掘-調査は破壊を代償としてなおかつ十分な価値あるものでなければならないはずである。それでは北海道における発掘-調査の現状はどうだろうか。先生は自問し眉間に細いしわをよせつつ、眼鏡の下で大きい目をふるわせるのであった。そして「発掘は正しいことをつかむものでなければならない。そこには唯一の正しいことしかないはずで、一つの事象の中で裏と表のあるようなことはけしてない。」と云いきるのであった。先生のこの考え方は研究の態度でもあったし、生活の言動でもあったように思う。」

『河野広道博士没後二十年記念論文集』 「正しいこと」君尹彦 河野広道博士没後二十年記念論文集刊行会 昭和59年7月12日 より引用…

君氏が紹介した河野博士語録。
さて、当時何故河野博士は眉間にしわを寄せたのか?
現状の発掘調査でのスタンスはどうか?
少なくとも河野博士は、結論ありきの発掘による破壊をしようとしてはいなかったと思われる。
もっともそれ以前に開発優先で、発掘以前に遺跡が破壊されるのを彼は見ており、緊急に発掘を行った話もあった模様。
それでこう言わしめたのかも知れない。
未だに開発優先で史跡指定された場所でも簡単に破壊され、発掘調査報告書を書けば「アイノ文化との関わり偏重」の内容が多い現実を彼はどう見るであろうか?
ふと考えさせられた。


②「人送り(食人)」伝承について…

少々センシティブな話である。
SNS上食人文化の話が流れてきた事があった。
筆者的には聞いた事がなかったが、これもたまたまこの河野広道博士没後二十年記念論文集に記載されていた。
下記引用は、藤村久和博士が河野広道博士と知里真志保博士の衝突を記した一辺。
寸劇とは北大医学部で開催された人類学会の民族学協会連合大会で、アイノ文化で伝承された「人送り」や食人風習についての話に関し言及した河野博士らを知里博士が激昂し糾弾したと言う一幕を回顧しての一幕である。

「ともあれ大会の寸劇を知った人たちは河野先生に同情を寄せていたと言われるように、先生のもとには関連する聴きとりが後日よせられていて、野帳にはそれがしたためられてある。
①「他地方の首長の娘を捕えて来て、ドレイとしておいたのを熊おくりのと一緒に殺した。」
②「大昔、宗谷で熊おくりのとき人をおくった。あとで人の代りに犬をおくった。これは樺太から」
③「足寄で子供のとき人しめるimunbani〈イ-ヌンバ-ニ=それ(ここでは人の首?)を-しめつける-木〉のことを聞いていた」
④「樺太では熊祭りの時、♀グマに男を、♂グマには女をつけておくる。しかもそれは若い人でなければならない。それにきめられて熊と一緒におくられる人で逃げて宗谷に来たアイヌがいる」私も人を食った話や送った話は耳にしている。その一つは、昭和53年3月、財団法人、アイヌ無形文化伝承保存会から刊行された『人々の物陰』(四谷ヤエ媼口述 オタスッの人に嫁いだシャチ神の妹の自叙伝 p59~89)に掲載されている。しかし、こうした伝承への真偽はどの古老も存在しえないこととし、むしろ、そういう現象を起こさないための教訓であるという。ここで詳細にのべることはできないが、大筋でいえば、アイヌ文化の核でもある信仰からはそれは絶対的に認められないし、万一そうした事実があったとすればアイヌの人々は全員死滅しなければならないしくみになっている。」

『河野先生のアイヌ文化研究に思う』 藤村久和 『河野広道博士没後二十年記念論文集』河野広道博士没後二十年記念論文集刊行会 昭和59年7月12日 より引用…

この後、二人が再び同じ場所に立つ事は無かった模様。
お互いの言い分は、それぞれの著書に少しずつ書かれているとの事なのでご興味ある方は紐解いて戴いたい。
さて、それはおいといて…
「人送り」の伝承があり、その昔行われてたか?その真偽は別にして、それなりの数口伝され、学術書には記載されてる模様。
筆者は近世にはあまり興味がないので、ここでその風習に深く突っ込みはしない。
ただ、人類学の研究として、研究材料としての人骨を得る場合、貝塚を狙って発掘をしている節は見受けられる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140
縄文以降の人骨標本を得る為としている。最終目標は縄文の人骨かも知れないが、アイノ文化を持つ人、擦文,オホーツク文化を持つ人であれ、骨格学では、比較しなければ結論が出せない。
つまり、貝塚周辺やその中に人骨がある事は認知された事なのだろう。
どこにあるか解らぬ墓を狙って発掘するのは困難だ。確かに埋葬されて間もない墓標ある場所を発掘した者も居たであろうが、勝手に発掘すれば墓荒らし。
概ね開発に伴い発掘許可をとって行う事になる。
まぁ風習の真偽は別として、河野博士はこれに近い事例を発掘で見てるのだろう。

貝塚の中から小児の埋葬墓が発見された。貝層中のため墓壙は確認できなかったが、あるいは、確認しうるような墓壙はもとから存在しなかったのかもしれない。それは、あたかも枕のように置かれていた鉢の破片が、はなれた区画のものと接合したことからも考えられる。葬法は、東頭位の仰臥伸展葬であり、アイヌの一般的な埋葬法と一致する。しかし、厳密にいえば、頭位は北東方を向いており、また、骨格上の特徴も小児であるため、アイヌであるか否かは不明である。副葬品と思われるものは、鉢の破片のほかに、右上肩部の脇にあった鉄の輪、胸の上にあった刀子などがある。また、頭部付近より多量の魚骨が出土しており、埋葬法と何らかの関係があるかもしれない。」

「瀬田内チャシ 砂利採取事業に伴う緊急発掘調査の概報」
瀬棚町教育委員会 昭和54年3月31日 より引用…

瀬棚内チャシの貝塚で検出された墓。
明らかに周坑無しで儀礼ありと貝塚上に直接安置と不自然な埋葬。
こんな事例を見てその風習を聞き取りしていれば、仮説の一つとして上げても何ら違和感はない。
勿論、五体揃う事を鑑みれば、食人ではなく「人送り」と仮説するのが適当ではないかと考える。
学術としては、精神性らも美化してはいけない。
伝承がある以上、伝承は全て記録した上で、その真偽を立証すれば良いだけ。
せっかく口伝戴いた内容、人道的配慮と学術は別次元。
本州にも「人柱」らの伝承はある。
観光やフィクション作成で伏せるのは有りだが。
ここで①を見て戴きたい。
だから、河野博士は表も裏も無しと言い、それを実践したのでは?
発掘した遺跡、墓壙も全く元の状態には戻せない。
仮に仮説が立証されたとしても、アイノ古老が言う様に、人道上それを二度と繰り返さない様に教訓を取り出せば良いだけ。
発掘らの時点で継続された事実はないのだから。


さて二題紹介した。
どうだろう?
因みにこれらも付記しておこう。
河野博士は特攻警察に活動家として取っ捕まった経験を持っていたりする。

また現在も、北海道はどっかの大学でもめてる様だが、昔からなのか?
系譜的には、河野博士が考古学民俗学知里博士が民俗学言語学
たまに聞く話ではあるが。
そして、知里博士は再三登場するジョン・バチェラーに近い人物。
こんな風に繋がって来るのはネットワーク論的には興味深い所ではある。


参考文献:


『河野広道博士没後二十年記念論文集』 「正しいこと」君尹彦 河野広道博士没後二十年記念論文集刊行会 昭和59年7月12日

『河野先生のアイヌ文化研究に思う』 藤村久和 『河野広道博士没後二十年記念論文集』河野広道博士没後二十年記念論文集刊行会 昭和59年7月12日

「瀬田内チャシ 砂利採取事業に伴う緊急発掘調査の概報」
瀬棚町教育委員会 昭和54年3月31日