時系列上の矛盾…少ない「編年指標」と地質学からの新たなアプローチ、そして

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
関連頃は上記である。
昨今、「北海道の先祖達は生き延びる事が出来たのか?」「そこで暮らせる環境にあったのか?」が非常に気になり、災害と言う視点で学んだりしている。

そんな中、壁になるのは「編年指標」。
古書記載が少ない
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
例えば、秋田城。
続日本紀の秋田城築城の記載と井戸遺構から出土した木簡がほぼ合致し、朝廷由来の出土品や遺構がザクザクと…
これなら、ここが秋田城だとほぼ特定可能。
が、北海道では古書記載そのものが薄い上に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/152153
松前藩史書もこの通り。
なら、考古学的アプローチなら?
よく言われるのは中央史での研究と接続し、出土遺物の年代を推定する手法。
割とはっきり解っているのは陶磁器の編年過程。
例えば…

余市の様に「貿易陶磁器」が出土していれば、それと編年過程を比較して年代を割り出す。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529
これがあるので、余市は中世の遺構があると言える。

たまに記載しているが、「C14炭素年代」。
炭化物中の放射性炭素「C14」の残存量らで炭化した年代を測定する。
だが、この方法は、振れ幅が大きく(±100年位)、時代が下ると精度は落ちる欠点を持つらしい。

地層中の「火山灰降灰」を検出して、年代を割り出す。
火山活動が激しい北海道でメジャーなのはこれ。
筆者も層序を示したりするが、主なところだと…
946年…B-Tm…白頭山(北朝鮮)
1640年…Ko-d…駒ヶ岳
1663年…Us-b…有珠山
1667年…Ta-b…樽前山
1694年…Ko-c2…駒ヶ岳
1739年…Ta-a…樽前山
1741年…Os-a…渡島大島
これらが検出されたら、遺構はその間の何処かの次期の物と言い切れる訳だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
こんな感じ。

「土器編年過程」で割り出す…メジャーで行われているが、これが実は曲者。
例えば擦文土器は幾つかの論文で編年過程が示されているが、決定的では無いらしい。
SNS上で教えて戴いたが、擦文土器や陶磁器を指標年代で並べてみると、食器とされるsizeの杯らが途中で途切れる様だ。
代替えで木器らがあれば良いが、そんな遺物は出土されていない。
つまり、中世位にどんな食器で飯を食ったのか…「謎」になる。
地域差らもあろうから、一概に言えないだろうが、土器がもっと近世迄使われていたか、上記通り木器らを使わなければ辻褄が合わない。
つまり、土器編年過程が正確ではないと言えてくる。
これ、場合によっては、北海道の中世は…
食器が無い→
定住者が居なかった→
Ta-bら降灰直前に定住者が現れる→
アイノ文化はこの定住者で、他から移住している…こんな事も考えられてくる。
もっとも、そんな説を唱えている論文はまだ見た事はないが。
むしろ、そんな視点が丸っきり欠落してる段階で、筆者的には理解不能である。

さて、そんな風に、こと中世に関しては丸で解明されていない北海道でも、こんな研究がされていた様だ。
紹介しよう。
地質学系からのアプローチ。

「対雁2遺跡は、江別市に所在する縄文時代晩期中葉から続縄文時代初期に営まれ、主に晩期後葉に利用されていた遺跡である。遺跡からは、遺構や地層を切る形で南北方向に走向する噴砂脈が六〇本以上確認されている。」
「噴砂の年代は通常噴出面に形成される噴砂丘から判断されるが、対雁2遺跡の上部は河川敷公園の造成によって削平されており、噴砂の次期を特定することはできなかった。そのため、噴砂が土層や遺構を貫いていることや札幌市内の遺跡で確認されてある事例から石狩地震(一八三四年)もしくは擦文時代後期(一一・一二世紀)~樽前a火山灰降下(一七三九年)の次期のものであろうと推測していた。」
「しかし、考古地磁気研究による年代測定を行うことによって噴砂の年代を測定することができるということを知った。この年代測定法は地磁気変動曲線と遺構・遺物の残留磁化を対照・照合することによって、被熱や地震等による液状化などで当時の地磁気方向に再帯電したものの年代を測定することができるものである。二〇〇六年に富山大学の酒井教授の協力を得て、対雁2遺跡の噴砂の年代測定を行ったところ、一二世紀初頭(A・D・一一三〇年頃)という測定結果が得られた(酒井ほか二〇〇七)。これにより札幌近郊で見つかっている擦文時代の噴砂の多くは一二世紀初頭の地震のものである可能性が高くなったと考えられる。」

「北海道の防災考古学~遺跡の発掘から見えてくる天災」 横山英介他 「北海道の防災考古学」編集委員会 2020年8月7日 より引用…

以上の通り。
こんな測定法も出てきた様で。
自然地盤で液状化現象が起きるのは、震度5以上だそうで、擦文(平安)期に大地震石狩平野を襲った事になる。
但し、「日本被害地震総覧」を見てみたが、該当の地震の記載無し。
つまり、古書らに記されていない地震なのだろう。
実際、元々「擦文以降」や「擦文~Ta-a降灰(1739)」とされてきたのも、こんな記述の少なさ故。
この間約500年、それを埋める為の指標としては、有効ではないだろうか。

実際、北海道の中世って何も解ってない様なもの。
記録もない…
紀年遺物もない…
遺跡もあまりない…
謎だらけ。
上記の様な手法も合わせ、土器編年のアップデートが成されてくれば、もう少し中世もはっきりしてくるかとは考える次第。

さて、土器編年については、実は15世紀頃迄使われ続けたのではないか?と言う説もあると教えて戴いた。
確かに食器が途切れるハズもない。
地域差も出よう。
特に道東は陶磁器出土が、余市や上ノ山とは比較にならぬ程に少ない。
で、筆者はこんな物をかつてフィールドワークで見た事がある。
f:id:tekkenoyaji:20210525200327j:plain
潟上市郷土文化保存伝習館」の展示品。
北海道系土器の「完品」。
説明では擦文と言われたが、オホーツク系か?
何故こんな所にあるのか?
この伝承館は、
秋田の偉人「農聖」石川理紀之助翁の功績について特化した展示をしている。
この方、明治期に農村救済等に人生捧げた方で、貧困,デフォルトの村を五年で復活,黒字化させたり、写真の探針で土壌調査して地図作ったりした方。
実は九州らにも行き、農業指導をしている。
秋田の「種苗交換会」を始めた方。

この方、探針(一本1.5m位)で、地面をつつき捲るので、当然怪しい物にぶち当たる。なので、遺跡発見らしたり、出土品掘り出したりしたそうで。
縄文の物が好きだったらしく、幾つか展示されていた。
この北海道系土器は「札幌の血縁者から譲り受けた」又は「国後島で亡くなった息子の遺品」どちらかとして入手したものだそうで、とても気に入り大切にしていたそうだ。
子孫の方は、息子の形見と考えているとかで、大事にしているものを伝承館へ貸出している。
全く補修されていないのだ。
さて、これ、何時代のものか?
何らかで保管されていたとしても、平安期辺りからこの姿を維持出来るものか?
実は、場所によりかなり近世迄、土器が作られていた可能性はないだろうか?
前述の様に、息子さんは国後島で亡くなったとある。
仮に近世まで作られていたなら、中世の空白は「土器編年が下る」事で埋まってくる。
が、明治に作られたレプリカの可能性もある。
まぁ事実はまだ闇の中。

北海道の研究者の奮闘を期待するだけだ。



参考文献:

「北海道の防災考古学~遺跡の発掘から見えてくる天災」 横山英介他 「北海道の防災考古学」編集委員会 2020年8月7日

「日本被害地震総覧 599-2019」宇佐美/石井/今村/武村/松浦 (財)東京大学出版会 2013年11月15日