「シャクシャイン」は北海道の英雄か?…災害史からの視点なら「非道」と言わざるを得ず

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/25/202424
最近、災害史を取り上げているが、この視点を拡大し、歴史上の事件を見てみよう。

関連項は下記。
この人物は如何だろう?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523
一部から英雄視される「シャクシャイン」。
染退の惣乙名、今の新ひだか町静内に居を持ったと言う。
で、改めて新北海道史での勃発仮定を…

「和人の蝦夷地における経済活動が盛んとなるにつれ、漸時蝦夷に対する圧迫が強化され、両者の間に利害の衝突をみるにいたったのは当然である。」
「寛文九年の蝦夷乱は、和人の交易上の不正、蝦夷の自由移動ならびに交易に対する制限、和人出稼ぎ人の扇動、松前藩蝦夷地に対する放任主義などの原因が重なって起きた大乱であったが、そもそもは東蝦夷地における染退蝦夷と波恵蝦夷との闘争が始まりであった。」
「染退の脇乙名シャクシャインは、力衆にまさり、衆夷を威服していたが、波恵の乙名オニビシまた器量これに劣らず、両者拮抗していた。この年シャクシャインとオニビシとが会って酒宴を開いた際、シャクシャインは酔いに任せてオニビシの部下を一人殺害した。」

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

と言う感じ。
実際、オニビシとの抗争は1648位には始まったようだ。
松前藩と事を構えたのはこのずっと後で、1668年にオニビシ殺害で、翌1669年には長万部クンヌイまで進軍、同年10月に新冠で和睦宴会最中に松前藩により射討たれる…と、まぁこのような感じなのだが…

これを災害史と言う視点を加味してみよう。
改めて参考に。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
平取や白老、有珠、虻田らに降り注いだ火山灰。
実はこの地域周辺が、ある程度波恵や沙流の勢力圏に合致してくるだろう。
シャクシャインは東→西へ進む事になる。

では降灰とシャクシャインの行動を重ねてみよう。

1640年…Ko-d…駒ヶ岳
1648年頃…波恵、染退、抗争開始
1653年 …カモクタイン討たれ、後和睦
1661年頃…抗争再燃
1663年…Us-b…有珠山
1667年…Ta-b…樽前山
1668年…オニビシ討たれ、乱が拡大
1669年…シャクシャイン討たれ、終息
1694年…Ko-c2…駒ヶ岳
1739年…Ta-a…樽前山

こんな所だ。
まずは天災の状況。
1640年のKo-dには推定8mの津波が日高、胆振に検出されている。
ここで…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
有珠4遺跡の状況。
Ko-d(1640)の降灰から立ち直るべく、畑の作り直しをしている。
つまり、ある程度復興の方向へ向かっていたと考えられる。
だが、Us-b降灰の段階でこの一帯での耕作は放棄され、遺跡も廃絶されている。
ギブアップせざる負えぬ被害だと言う事。
後に、ここに遺跡の痕跡は無く、後に菅江真澄有珠善光寺を訪れた時の話がこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939

では、シャクシャインらの動き。
これら抗争は、胆振~日高のKo-dと津波からの復興期に開始されている。
オニビシが、松前藩の仲裁に協力的なのは、こんな背景からも理解可能。
そしてある程度復興が成された辺りで、抗争再燃。
オニビシがシャクシャインに討たれる時、その前の年迄にUs-b,Ta-bの連続降灰を食らう。
形勢はどうか?
シャクシャインに圧倒的に有利…と言うより、オニビシに反撃能力があったのか甚だ疑問持たざる負えない。
ここでもオニビシは仲裁に乗り、シャクシャインは拒否。
この様な流れになる。

つまり、染退アイノは、胆振~日高が弱っている時に軍畑に持ち込んでいると言える。
それは、数々の仲裁拒否で裏付けできる。

弱った敵を叩いて勢力拡大、これは戦略の常道。
歴史に感情を入れぬ筆者的には有り。
但し、この場合少々様相が異なる。
Ta-bまで食らい、周囲はほぼ壊滅。
これで武力を使う必要は無い。
兵は詭道なり」…
食料を与え、懐柔工作だけで周辺は落とせる。周りを寝返らせる事は可能。
何せ新北海道史にある様に交易船はきていたのだから。
食料を買い占めれば、必然的に寝返り工作は出来たであろう。
「血を流す」必然性は無かったと思われる。

さて、どうだろう?
歴史にifは無い。
シャクシャインは「血を流す」必然性の無い戦いを仕掛け、アイノ文化の根幹である話し合いでの和解をしなかった。
英雄ではない。
むしろ「非道」だと思われるが。
それぞれ、意見はあろうからこれまで。


ところで…
新北海道史に於いて、何故こんな天災史からの考察が無いのであろうか?
いや、防災学の見地からもそれは語られていない。
何故、これら多視点の検討をし、アイノ文化の源流を探そうとしないのか?歴史上の出来事を重ねたりしないのか?
分離したままにするのか?
我々本州人にすれば甚だ疑問。

自由闊達に、研究出来る状況に無いと言わざる終えない。