時系列上の矛盾…今度は西蝦夷地、稚内「声問川2遺跡」にあった畑跡、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/25/202424
防災絡みの視点を続ける。
と言うか、たまたま防災関連文献の中に有ったネタ、と言うのが正解で、筆者的には、何故関係無い所からこんなネタが舞い込むのか不思議でならない。

直接の関連項は下記になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
畑跡、畝状遺構は、紹介した東蝦夷地は胆振の他は、主に渡島半島の八雲町「栄浜2,3遺跡」、森町「森川3,6遺跡」「上台2遺跡」等。
遺跡総覧らを検索してもヒットするのはこれら。
が、こんな事例もある様なので引用してみよう。
標題では「砂あらし、災害をもたらす」とある。

「遺跡は、北海道稚内市大字声問村コエトイ五一六-二番地に所在する。調査地点は、標高四~五㍍程の河岸砂丘内にある旧声問駅構内に位置し、発掘調査は二〇〇〇年五月一〇日~一〇月三一日まで、稚内市教育委員会によって実施された。」

「遺跡が営まれた時期は続縄文時代アイヌ文化期のもので、擦文時代やオホーツク文化期のものは見られない。主体となる時期はアイヌ文化期で、四列の畝を持つ畑跡一面、焼土跡五ヶ所が検出されている。また発掘調査区からは魚骨、貝類の集中面も確認されているが、畑跡との重複関係からは畑の展開以前のものと考えられている。」

「遺跡から検出された遺構は畑跡と焼土であるが、焼土近くからは獣骨なども出土している。特筆されるものは畑跡である。畑跡の規模は最大で一八・五㍍×七・七㍍の長方形で、この範囲の長辺に沿って四列の畝が構築されている。畝は遺跡がのっている低い砂丘に沿って延びており傾斜は少ない。畝同士の中心は一六〇㌢~一八〇㌢の間隔があり、一本の畝は五〇㌢~九〇㌢の幅である。畝間と外周には浅い通路状の溝が設けられており、畝の側縁部には鍬で畝立てされた窪みが連続している(図1)。また畝上には作物の痕跡状の小さな窪みが認められているが栽培種は特定されていない。畑跡の他に五か所の焼土が検出されているが、畑跡との関係は明らかではない。この焼土には魚骨混じりの層があり、また魚骨ブロックが存在するものもある。また発掘調査区からは多くの動物遺存体が出土している。この内貝類が大部分をしめており、魚類、鳥類・哺乳類の順である。この動物遺存体が集中して出土さる面は、畑跡に先行する状態が確認されている。」

「発掘調査区からは寛永通宝、ガラス青玉や石製煙管、鋤、刀子、和釘などの鉄製品も多く出土している。これらの遺物の出土状態と畑跡との関連からアイヌ文化期の所産と見なされているもので、帰属年代は一八~一九世紀と考えられている。」

「声問右岸2遺跡で確認された天災の痕跡は飛来砂層が畑跡を被覆して全体を埋没させているものである。~中略~以上のことからこの声問川右岸2遺跡は、一八~一九世紀になって展開した近世アイヌの畑が強い風による飛来砂によって、右岸に作物が残っているか収穫直後に一気に埋没して放棄されたものと考えられる。」

「北海道の防災考古学~遺跡の発掘から見えてくる天災」 北海道の防災考古学編集委員会 (株)みつ印刷 2020年8月より引用…

稚内市「声問川2遺跡」の畑跡。
詳細は発掘調査報告書を検索したがヒットせず、現状は入手難しい模様。
遺物18~19世紀の帰属と考えられている様だ。
あれ?稚内は西蝦夷地だが…
松浦武四郎最上徳内らは、この辺のアイノ文化を持つ人々か畝作って耕作したと記録していたか?
林子平らは?
アイノ文化において、畝を伴う耕作なんぞしていないのが「通説」だと思うが。
なかなかの驚き。
と言うか、これ…
知られていないだけで、畑跡はもっと数多く検出されてるんじゃね?そんな疑念を抱かざる終えない。
畑跡遺構が検出された話をあまり資料館ら訪問で伺う事はない。
結局、遺跡総覧らにリンクさせてない「だけ」で、発掘調査報告書にのみ記載し、話を伏せている「だけ」なのでは?
なら、端から話は変わると考える。
何故なら、擦文文化期には栽培種の穀物を含め、豆類等を耕作したのは誰なのか?検討する余地が出てくるからだ。
前述の通り、アイノ文化において、畝を持つ本格的な耕作をした記載は殆ど無いかと思う。
誰が何時、何処で指導し、誰が耕作したかを明らかにせねばなるまい。

さて、我々ならどう考えるか?
江戸期の日本海側では、飛砂による埋没はあった話。
遺跡で言うなれば中世の「十三湊遺跡」は、廃絶から江戸期に再利用されてもなお、1.4mの砂の下に眠っていたのはもう報告済み。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/054041
他にも、津軽の平滝村廃村跡らの近辺が飛来砂により問題化しており、秋田においても、栗田定之丞による砂防林構築が無ければ同様な事は、知られた話。
日本海側一帯に黒松が植えられているのは、これによる部分がある。
そもそも、日本海側とはそういう地なのだ。
稚内なら、同様に季節品の影響を受けると思われるが?

更に18~19世紀といえば、東北諸藩による北方警備が始まり、各藩士やそれに伴う人々が各地に入っている頃だが、確認したのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/30/223653
大体、最初の文化年間の警備時には、野菜不足によるビタミン欠乏から浮腫病でバタバタ倒れていった。
そんなノウハウ有らば、耕作で野菜確保位考えるだろう。
陣屋らに適さなければ、収穫と共に放棄し移動すると思うが。
これらは、何の数の中には無しか?
それらは恐らく、東北に記録があるが。

矛盾に対して疑問を持たない方がどうかしてると思うのだが…
この辺が我々には理解不能なのだ。
ロシアの南化から、北海道を守ったのは誰だ?
そのアイノ系の人々も含め危害及ばぬ様に、絶対勝てぬ装備で身体張ったのは誰だ?
宗谷にも陣屋はあったと思うが、そんな人々は数にも入らずか?。
それでも、飛来砂による災害に変わりはない。
日本海側では大変な問題だったのだ。
が、ド素人の我々でもこの程度の考察は可能だが。

だから言うのだ。
アイノ文化期の遺跡を見る限り、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/30/043133
こうでなければ辻褄が合わないと。

疑問を持たぬ方がどうかしてる。
防災の視点から「だけ」なら、警鐘を鳴らす意味合いで上記で良いと考える。
だが、列島的意味合いを加味するなら、その災害に直面するのはそこに住む全員が対象になる。諸藩藩士も運上屋の人々らも対象だ。
キッパリ…
考察をアイノ文化「だけ」に頼り過ぎ。



参考文献:
「北海道の防災考古学~遺跡の発掘から見えてくる天災」 北海道の防災考古学編集委員会 (株)みつ印刷 2020年8月