生きていた証、続報33…秋田以外や古代で「貝焼き」を探してみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/16/200026
前項である。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121

我が国で料理名として記録されたものはなにか?
それを料理した料理人は誰なのか?
永山久夫氏によると、日本書紀に記載あるそうで。
「磐鹿六雁」が景行天皇に出した蛤と鰹の『膾』だそうで。
『膾』…現代の「なます」ではない。
平安期の百科事典と言うべき「和名抄」では「細切肉也」とされる。
当時は、生に酢をつけて調味した様で。
後の室町期に、何の魚か解る様に切身にヒレを刺した為に「刺身膾」と呼ばれる様になり、「膾」の部分が消えた。
つまり、我が国最初に記載された料理とは…
『刺身』の事。
因みに『宍膾』も後に記録ある様で。
この料理は?
宍→シシ…
つまり、獣肉や鳥肉の刺身の様で。

と言う訳で、「竈探し」もその痕跡を簡単に辿れないのは承知。
なら、調理法たる「貝焼き」を探し、まずは七厘(コンロ)を探してみようと考える。

「貝焼き」をあっさり言えば?
小型のコンロに貝殻を載せて、自分で煮焼きしながら食す料理。
秋田に於いては既に鍋物の名称に変容し、使われている。
まずは、秋田いや北海道~東北以外で貝焼きをやったところはあるのか?
関連項でも紹介した物は下記。

「風が吹けば、砂ぼこりが舞い上がるような江戸の初期には、町に舞い込んだ犬がいれば、見つけしだいに捕まえて、料理してしまったという。「武家、町家ともに、犬にまさりたる物はこれなし」(大道寺友山『落穂集』)~後略」
「前略~寛永二十年(一六四三)に刊行された『料理物語』の「獣の部」にイヌがあり、「吸い物、貝焼き」といった料理法が記載されている。」

「「和の食」全史 縄文から現代まで 長寿国・日本の恵み」 永山久夫 株式会社河出書房新社 2017年4月30日 より引用…

江戸初期の江戸では貝焼きで犬を食べたとある。
では、他の地域では?
最早、料理の辞典から検索しまくる敷かない。
とりあえず、貝殻を鍋に仕立てた物をピックアップしてみる。


まず筆者当地の秋田の「しょっつる」。
しょっつる鍋は、カツオだし汁に二〇%のしょっつるを入れ~中略~野菜や魚介類を煮込む。鍋代わりの大きなホタテの貝殻と、一人前ずつの小さなコンロ(ケフロ)を使う野趣溢れる料理である。〈しょっつる貝焼き〉と呼んでいる。貝殻から溶け出した微量のカルシウム分が、風味を増すという。」

「日本の味 探求辞典」 岡田哲 (株)東京堂出版 平成8年1月31日 より引用…

どうやら、この方は「しょっつる=貝焼き」と誤解されている模様。
違います。
しょっつるとは「調味料(魚醤)」の事で鍋料理の事ではない。
「貝焼きの中の一レシピとして、ハタハタをしょっつるで味付けしたもの」…これが「しょっつる貝焼き」又は「しょっつる鍋
地元民による訂正。

では、似たものを。
東京の「すきやき」の項に、関西の例が記載されている。

「関西のすき焼きの歴史は古い。江戸中期の『素人包丁』宝永五年(一七〇八)に、唐鍬やタイラ貝でハマチを焼き醤油・おろしダイコン・唐辛子を薬味にした料理が出ている。関西独特の魚すきである。」

「日本の味 探求辞典」 岡田哲 (株)東京堂出版 平成8年1月31日 より引用…

実際、牛肉を使い初めるのは、文明開化による東京牛鍋から。それまでは雁や鴨、鹿を使ったものが江戸で発達したと記載される。

では、更に似たものを。

「秋田のしょっつるは、ホタテ貝であるが、この料理は、隠岐島一帯でとれる大きなアワビ貝を鍋にする。~中略~カモの脂皮や骨を叩いた団子をだし汁に入れ、ダイコン・ネギ・ゴボウ・サトイモ・黒田セリ(松江特産)・シイタケ・焼き豆腐を入れ、その上に鴨肉を並べる。この料理の特徴は、①アワビの貝殻の穴は干瓢で埋める。②小さなコンロで煮ながら、醤油・味醂・酒で好みの調味ができる。③鴨肉は半煮えがおいしい。④鉄鍋に較べて、貝殻はゆっくり加熱できるので、煮過ぎることがない。」

「日本の味 探求辞典」 岡田哲 (株)東京堂出版 平成8年1月31日 より引用…

これは、前項で八郎潟町での事例と調理法らもほぼ同じ。
付け合わせの野菜等が違うだけ。
貝殻がホタテ貝→アワビの差があるだけ。
さすがに、その起源迄は載ってはいない。
さて、現状はこれだけで、その伝播ルート,順らは全く不明だが、江戸の町が幕府と共に開けた経緯を鑑みれば、上方の「魚すき」が古いとの予想は出来る。
確か、七厘は三河辺りで作られた話はあったかと思うので、徳川家康と共に江戸へ伝播したとは考えられる。
更に、島根県隠岐なら、日本海ルートと過程とも言える。
貝風呂(キャフロ)の出土が異常な秋田から…
「魚すき」の元祖である上方から…
どちらからも、若しくはどちらへも、伝播は可能。
この辺は、隠岐が最初だとすれば、コンロの製造が可能か?で判断可能だろう。
まずは第一段階である。


ところで…
なら、そんな料理法が何時からあるのか?
古代食研究者である永山久夫氏が調査した中で、平安まで遡ってみよう。
前述の「和名抄」、本当の名称は、「倭名類聚抄」と言う。
永山久夫氏がピックアップし「日本古代食事典」に記載ものの中で、焼いたり煮たりで熱いまま戴くと思われる物は下記三点。

羹(あつもの)…
野菜→羹
肉類→臛(カク)
熱い汁物の意味

灸(あぶり)…
焼き肉の類

(いりもの)…
鳥肉や山芋等の材料の水気がなくなるまで煎りつけたもの

ここには残念ながら、貝焼き直接の記載は無い。
ただ、「小野小町」が食した料理の中では羹の他に、予め石を焼きその上でタコ焼いた事が記載されている。
小野小町は羹等で、鮎,鯛,雉,熊の掌,アワビ,蛤らを食べていた模様。
これは「玉造小町壮衰書」からのピックアップ。
以上の様に、貝焼きを連想させる物はあるが、決め手になるものはなく、平安の文献からは明確ではない。
とすれば、中世の茶席からか?
少なくとも、十三湊遺跡、洲崎遺跡らからは、抹茶を作る茶臼は出土が認められる。
現状の推定で、石の竈や七厘(コンロ)を秋田で製作したのは、1300年中葉が上限であろう。
大体がその辺で重なり、しかも日本海ルートの交易がかなり盛んである事は解っているので、それらで上方から伝播したと仮説するのが妥当だと思われるのだが。
ここは、更に追いかけて行きたい。

なんて言ってると、貝焼きで一杯やりたくなる。
夕方に検討する事ではないと考えるのは、筆者だけであろうか?


参考文献:

「「和の食」全史 縄文から現代まで 長寿国・日本の恵み」 永山久夫 株式会社河出書房新社 2017年4月30日

「日本の味 探求辞典」 岡田哲 (株)東京堂出版 平成8年1月31日

「日本古代食事典」 永山久夫 (株)東洋書林 1998年11月11日