この時点での公式見解⑳&ゴールドラッシュとキリシタン19…時系列に並べると、江戸初期の東蝦夷地の情勢は見えてくる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/26/170401
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/04/192603

上記が関連項になる。
SNS上でも、シャクシャインの話題らが出ていたが、元々我々は人口インパクトから金堀衆やそれに混じり混んだキリシタンの影響を考慮していた。
ならばこの際、関連項にある2つの略年表を組み合わせてみよう。
それが、事件としての寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)の時代の十勝~胆振周辺の状況となるハズだ。
当然、出展は「新北海道史」と「北海道とキリシタン(カトリック)」となる。
では、下記の通り…


・1548~1571年
ランチェット、フロイス、ビレラ等が蝦夷地の状況ら報告。

・1612年
江戸幕府キリシタン迫害開始。

・1613年
①コンスタンツォがキリシタン医師を松前へ派遣(松前公の要請)。
江戸幕府、改めて禁教令発布

1616年
松前慶広公没(慶広公は鉱山開発に消極的)
②金山開山へ軌道修正し、福島,松前両町で砂金採掘開始

・1618~1622年
アンジェリス&カルバリオ神父がそれぞれ二度訪道

・1621年
①知内川沿い開山
②仙台出身金師の喜介の元、厚沢部,檜山,上ノ国周辺を開山

・1623年
アンジェリス神父殉教

・1624年
カルバリオ神父殉教
②アダミ,ポルロ両神父の訪道の話あり

・1625年
アンジェリス神父の「蝦夷国報告」が印刷、全ヨーロッパへ配布

・1628年
大千軒岳開山

・1629年
モレホン神父が「松前カルバリオ神父から洗礼を受けた者6名が米沢藩で火刑」と報告

・1630年
アダミ,ポルロ両神父が津軽に赴き蝦夷渡航企ての話

・1631年
キリシタンの児玉喜左ヱ門、松前藩金山小吏となる。

・1633年
沙流ケノマイ,シブチャリ開山

・1635年
南部藩の宗門改めで「松前に「伊勢嘉右衛門」と言うキリシタン(司教?水方?)が居ると発覚」
②様似(運別),国縫,夕張開山

・1639年
大千軒岳の大弾圧及び殉教

・1640年
駒ヶ岳Ko-d降灰、8mの津波伴う
(様似の東金山落盤?)

・1644年
仙台藩の転び人の白状により、様似で児玉喜左ヱ門捕らえられる(キリシタナイとの伝承)

・1648年
シブチャリのカモクタイン(シャクシャイン)とハエの鬼菱が抗争開始

・1649年
松前藩、初めて幕府へキリシタン宗門簿を提出。

・1653年
鬼菱がカモクタインを討つ

・1655年
鬼菱とシャクシャイン、福山で和睦

・1662年
鬼菱とシャクシャイン再び抗争開始

・1663年
有珠山us-b降灰

・1667年
樽前山Ta-b降灰

・1668年
鬼菱がシャクシャインに討たれ、争乱拡大

・1669年
寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)勃発
同年、シャクシャイン一党和睦、酒宴の席で処刑。
また、シャクシャインに与した庄太夫を火刑に処す

・1670年
ハウカセら西蝦夷の乙名らが不穏として余市にへ進軍、服従の誓詞を取る

・1671年
松前藩の「宗門制度」完成
②改めて東蝦夷地へ進軍、白老で服従の誓詞を取り、同年中で全乙名より誓詞を取る。

・1673年
松前藩キリシタン宗門を厳禁と触れを出し、幕府へ「古切支丹類族帳」提出。
松前では、キリシタン本人より上二代、下五代を「非人扱い」とする

・1682年
改めて禁教高札。
訴え者への報償金制度確立。

・1687年
松前藩キリシタン調査状況を幕府へ報告。
因みに類族死亡時は塩漬けにし、宗門改方の指示を仰ぐ指示を出す。
②生類憐れみ令(鷹狩猟にダメージあれど無くならず)

・1691年
宗門改時、名主と五人組は寺判を示す様に通達。

・1692年
幕府へ「古切支丹類族帳」提出。
この年の家老松前広時の日記の約一割はキリシタン関係だったと松前町史にあり。

・1694年
駒ヶ岳Ko-C2降灰

・1697年
宗門改が年一度十月に行われる事になる

・1716年
松前町史ではこの年から1735年(享保年間)に松前ではキリシタン消滅とあり

※元文~天明元年(1739~1781)より、蝦夷地知行地及び知行主を示す書状が現れる


以上、この様な感じになる。
実は、寛文九年蝦夷乱らの新北海道史上での記述は全て元号により、西暦が併記されていない。
故に、改めて並べ直す必要がある。
ついでに※を付記した。
実は、ご覧の様に、知行制が拡大していくのは、1700年代半ば以降になる。
一環した書状が無い様だ。
と言うか、信じられない事だが、藩内の職制もはっきりしたものがないと新北海道史に記載がある。
どうやって、治めていたのだ?
非常に素朴な疑問が生まれてきて、頭の中に???が浮かぶ。
正に「無為にして治める」だったのか?
松前藩が開かれてから150年位あるのだが………
実は、「北海道とキリシタン(カトリック)」の項にある様に、上記年表の後には「キリシタン取り締まり強化」が並ぶ。
知行地の拡大は、残る記録上ではその後になる、各乙名から服従の誓詞をとりつけているにも関わらずだ。
我々的には新たな疑問が吹き出る…治安維持政策や場所の取引管理はどうやって行っていたのか?だ。
それら状況を示す一時資料としては、場所の管理や鉱物採掘権を得た者の日記ら新北海道史では挙げているが、軒並み1700年代のもの。
1600年代のものは、あまり提示されてはいない。
驚くべき事に、「藩の職制」の章には、

松前藩の職制に関する沿革はおおむね明らかではないが、その大体は他の藩とおなじく、幕府の制度をまねたものであった。ただ、北辺の島国で他藩と事情を異にするものが少なくなかったため、これに関しては特別の職制が設けられていた。最初は職名も少なく、必要に応じて臨時に設けられていたが、次第に固定化し制度化していった。」

「新北海道史第二巻 通説一」 北海道 昭和45年3月31日 より引用…

家老の初見…1641年
用人の初見…1681年
町奉行の初見…1600年代
(後亀田奉行や檜山奉行らへ分割)
寺社奉行の初見…不明
(町奉行との兼勤で二名が1733年の記録)
町吟味役の初見…1787年
(町奉行所の政務トップ)
沖の口奉行の初見…安東氏時代よりあったとされる
勘定奉行の初見…不明
(各蔵毎に管理者を置いた?)

と言う様で、その他産業が起きた時に、金山奉行や檜山奉行(江差の檜管理、1678年)設置していった模様。
つまり、安東氏から独立段階で平行して管理機構を作っていた訳ではなく、当初は慶広公や極側近のみの指揮系統だと想像する。

随分、脇道にそれたので、この辺で。
ここは、この後の研究がどうかもあるので、今後の宿題としておく。


さて、本題に戻る。
他の鉱物は敢えて入れてないが、鉛や硫黄らもこの位の時期から産出してる模様。
予め気付いた方も居るかと思うが、寛文九年蝦夷乱で松前藩が最終防衛線とし拠点にしたのが国縫
略年表の様に、国縫自体が砂金場であり、
それは、日本海側に流れる後志利別川の源流でもあり、支流あちこちに金堀拠点があるのだろう。
それを死守するのが目的で、布陣したと「新北海道史」にある。
つまり、松前藩の目的の一つは砂金場防衛にある事になる。
ここで解るのは、松前藩が「シャクシャインの目的の一つは砂金場の占領」だと考えている事。わざわざそれを記載している。
略年表を見てもみてとれる。
喜介にしても児玉喜左ヱ門にしても、仙台出身又は何らかの関係を持っていた事は解る。
それらの人々が、開山,管理して金山が1620~1630位で開かれていき、呼応する様に大量の金堀が初期から流入している。
当初は渡島半年周辺だったが、キリシタン弾圧が厳しくなる時期と重なって東西蝦夷地へ金山が広がる。
1640年の駒ヶ岳噴火や様似キリシタナイでの捕縛から、何故かシブチャリ勢は西の沙流方面と抗争開始、それを鬼菱が食い止めていたような構図が見える。
和睦をしていたにも関わらず、噴火の予兆から再度シャクシャインは西へ向かい、噴火で右往左往する鬼菱や沙流勢を踏み潰しながら、更に西の国縫らを手中にしようとしていた…こんな風な事になるか。
関連項で書いた様に、交易船は来ていたので、それらと合わせ手を差し伸べるだけで、寝返らせる事は可能だ。
兵は詭道なり」…当時の人々が孫子の兵法を知らぬハズもない。
戦わずして策略で攻略するのが常道。
血を流す必然性はない。
交易船を抱き込めば、ハエも沙流も落とせるのだから。
むしろ、調停役の松前藩に直接攻撃を仕掛け、結果的には全乙名が服従の誓詞を取られる。
この段階で、蝦夷衆の独立性は棄却される。
要害設置しながら、知行主が入り込んでも文句を言える状況では無かったのでは?
だが、松前藩はそれをしたのは数十年後。
横道にそれた新たな疑問がここ。
本州でもはや潜伏化した時期にも関わらず、キリシタン取り締まりを妙に強化している。
と、すれば、第二第三のシャクシャインが現れるのをそれだけ恐れていたと言う事か?と想像も可能な訳だ。
現状的にも、ロシア正教会がジワジワ東進南下してくる時期とも重なる。
入り込んでくる人々を警戒監視,阻止するだけの力は松前藩にはないのだから。
関連しそうな項を幾つか添付しておく。

災害について…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

人々の流入について…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443

経済について…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/27/200716
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/24/101104
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203


さて、最後に…
何故、わざわざこの様に略年表を作ったりしたか?
実はこの新北海道史、元号のみの記載の部分と、元号,西暦と併記されている部分に分かれる。
知識ある方なら、元号のみでいつ頃の話か解るであろうが、全く知識がない方なら初見で時系列的に並べるのはムリ。
筆者の様に、全く知識無しからの学び直しなら、全然解らない。
自分の理解度を上げる為に西暦に直して並べ直したのだが、気にしない方ならそのまま読んで起こった事件だけ覚えていくだろう。当然、江戸期のみならず中世も穴だらけな事なんか気付きはしない。
だから、事象がひっくり返って語られても何の疑問も持てずに鵜呑みにしていまいがち。
知行地が1700年代以降なら、松前藩蝦夷衆を弾圧したなどと言う事は成り立ちはしない。
むしろ、無為にして治める…ルールを作らず管理をしない為に、集団同士もめたり、商人が好き勝手やるのを見てみぬふりをしたと考えるのが妥当であろう。
ただ、商人にも言い分はあるのだ。
松前藩は、蝦夷衆含めた庶民らから租税をしていない様だ。
取引に来た商人達に租税した。
なら、商品価格(交換レート)に付加して購入者に請求するのは世の常だ。
赤字になってまで、北海道に来る馬鹿は居ない。
その辺も加味して、歴史的評価は付けるべきだろうと、書いておく。



参考文献:
「新北海道史第二巻 通説一」 北海道 昭和45年3月31日

「北海道とキリシタン(カトリック)」 カトリック留萌教会 平成七年二月十八日