生きていた証、続報35…「東遊雑記」に記された「竈無し」と秋田県史との矛盾、そして「夷人」登場

 https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
竈探しである。
が、これは否定的な例となろうが、ちょっと面白い展開でもある。
何せ「夷人」が登場するのだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/20/112451
この北鹿ハリストス教会の記事を確認する為に 「大館市立郷土博物館」を訪問した際「竈」が無いとする記述があるとの事で、「東遊雑記」を紹介戴きコピーを戴いた。
この場を借り改めて御礼申し上げたい。
ありがとうございます🙇
では、どんな記述なのか?
いきなり引用してみよう。


「豊岡の南一面の原にてかぎりなし。所どころに乞食小屋同前の百姓屋を見る。委しく聞くに、人死にて墓というものなく、野に葬りて土をかきよせて置くのみといえり。大家にても竈というものなし。いきゐ(囲炉裏か)と称して炉をして、それにジザイ〔自在鉤〕をつりて煮炊きをすることなり。この辺の風俗の義理礼法は元より知らず、身をかざることもしらず。誠に夷人なり。余六十三歳までかかる辺鄙なる所、かかるあわれなる暮らしもあるやとあきるるばかりのことなり。予帰郷ののちに旧友にかたりて、おごりある人を制したきことなり。」

東洋文庫 27東遊雑記」大東時彦 昭和48年7月1日より引用

さて…「東遊雑記」とはなんぞや?

コトバンクによれば…
「古川古松軒が1788年(天明8)幕府巡見使に従い、奥羽地方蝦夷(えぞ)地(北海道)を視察した半年間の紀行誌。『西遊雑記』の姉妹編。12巻。6月9日(旧暦5月6日)江戸をたち、白河から会津道に入って日本海岸を北上して弘前(ひろさき)に至る。蝦夷地を8月21日(旧7月20日)からまる1か月巡視、帰路は仙台道、水戸街道を回って11月15日(旧10月18日)帰府。各地の人情風俗を上方(かみがた)・西国と比較して評価しており、蝦夷地については林子平(しへい)著『三国通覧図説』を鋭く批判している。当時の地方事情紹介として重要な資料である。」
とある。

では、この「豊岡」とは何処か?
明治以後の地名で「豊岡村」は大仙市にあるとの事だが、記述の次の項目は「能代」。
湊町として栄える姿が記載される。
巡見使は北上したとあるので、ここは現在の三種町豊岡金田付近であろうか?
大館市立郷土博物館でも能代の近くとの事だったので、手前である三種町周辺で概ね当たりなのだろう。

大きな家でも「竈」すらなく、囲炉裏?地炉を使っていたとある。
幕府巡見使はこの後に津軽→北海道へ向かうと…
我々の推定とは真逆の記述登場である。

だが…
「そういうわけで、阿仁のシチリンも五城目町秋田市で仕上げられたものが多かつた。また、能代市桧山でも趣きあるシチリンがつくられていたが、現代ではそうした地方色がほとんどなくなつてしまつた。」

秋田県史 民俗工芸編」 秋田県 昭和37年3月31日 より引用…

そう…我々は檜山でも七厘を製作していた事を捉えている。
この檜山こそ、中世で安東氏の居城「檜山城」があった場所。
矛盾が生じてくるのだ。
ましてや、八郎潟湖岸~三種町付近は平安~中世での遺跡は多く、それらは製鉄遺構を伴う土豪に治められていた地域と考えられる。
中世迄の経緯を考えると、この寂れた状況は少々疑問が残る所。
ましてや…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/24/152415
「秋田日記」に描かれた姿と天地程の差がある。
三種町も秋田湊~檜山への羽州街道沿いだろう。
ちょっと辻褄が合わない。
少々遡って菅江真澄はこの地をどう描いているのか?
宿題にしてみよう。
菅江真澄は、この辺もあまり違和感ある表現をしていない様な…?
この辺が歴史の妙…面白いところだと思う。


ところで、「東遊雑記」に戻る。
もはや、能代より北では古川らでは言葉が通じ難くなってる様で、能代から東へ向かうにつれ、家もみすぼらしく言葉が通じなくなってきて「北狄の地と別ならず」とまで書いている。
で、「夷人」の単語が登場。
結局、江戸から派遣された巡見使帯同の人にすれば、みすぼらしく見えれば「東夷」「北狄」と表現しているのだ。
そりゃそうだろう。
当時、世界最大の都市の一つから訪れており、比較対象はそれになるであろう。
勿論、日本書紀古事記を読み学んだ人々。我々東北人に対しては、多少なりとも色眼鏡は入る。
(とは言うものの、安東氏を田舎者とした文書にはまだ遭遇せず)
貧しい地域なら「蝦夷」と呼んでも当然なのだろう。
なら、北海道に置き換えてみよう。
住んでる者がこんな感じであらば、そのまま「蝦夷」と呼ぶ。
仮に同一文化であろうが、貧しく慎ましい暮らしぶりなら「蝦夷」だろう。

同時に…
先の疑問について。
仮に、豊岡周辺に本当に蝦夷と言われた文化の人々が居たとしたら?
津軽や南部で現在「本州アイノ」と呼ばれた人々は、湊町や都市周辺にコロニーを作って移り住んだ様である。
なら、安東時代の県都の一つであり湊町でもある檜山の外郭に移り住んだとしても違和感は無い。
当然ながら、火山噴火らの災害を避けて…
どちらにしても有り得る話である上に、墓を作らず竈も無い。
どちらにしても、一応合理的な説明は可能であろう。
この辺も含めて言うのだ。
「北海道と東北は古代から繋がっている」
そして、
「『蝦夷=アイノ』に非ず、『蝦夷にアイノは含まれる』」と。

さて…
真実は如何に?



参考文献:

東洋文庫 27東遊雑記」大東時彦 昭和48年7月1日
 
秋田県史 民俗工芸編」 秋田県 昭和37年3月31日