ゴールドラッシュとキリシタン-21…金銀島探検報告に記載される「金銀での決裁」,「コロボックル?」そして「織豊~江戸初期の地理観」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/17/201313
カトリック史研究での視点、もう少し堀り進む。
直接の関連項は下記になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/13/082543
歴史的研究の中で、中世末~近世の「カトリック史」の研究は、どうしてもキリスト教に関わる司教,司祭や地方史研究によるものが主に見える。
が、考えてもみて欲しい。
この時代に来日した人々は、文献を残している。
ポロポロ史書上で引用されてはいるが、メインロードで扱われてはいないので、一般の歴史にはあまり取り上げられず…

泉隆氏がカトリック史の一部として貯した「北海道キリシタン史資料」と言う著作がある。
これに寄稿された五野井隆史氏の「キリシタン文献にみる蝦夷の金山とキリシタン」と言う論文がある。
主には、江戸初期ゴールドラッシュとキリシタンの関係についてバテレン達の報告とその時の状況を記事しているが、ゴールドラッシュ前に金銀島探検で来日した人々の記述も引用しているので、そちらを紹介する。
いきなり核心部分なので注意頂きたい。


「(略)彼等(蝦夷)は、銀や砂金を沢山持っていて、それを払って日本人から米や其他のものを得る。米と木綿衣は最も要求せられる。鉄と鉛は日本から来る。食器や衣服類は直ぐ売れる。日本の米は蝦夷に持って行けば四倍の値となる。マチマ(松前)と言う所には、日本人が約五百家族居住して市場を開いて居り、また城がある。其処の統治者はマチマドンナ(松前殿)と呼ばれている。マチマは蝦夷の第一の市場であって、ここに土人達は集まって交易をする。殊に九月には冬の貯をするために多く集って来る。三月には鮭や干魚や種々の品物を持って来る。日本人は物々交換で、それらの品物を得るのであるが、とりわけ彼等の有する銀を望んでいる。」

「マチマの他には定住者若しくは市場はない。この蝦夷で北方に住んでいる人は非常に小さくて侏儒の様でもあるが、一般の蝦夷人は日本人と同じ体格である。彼等は着るものとしては日本からのもの以外には持っていない。蝦夷と日本の間には、高麗から流れて来て東北東に向ふ強い海流がある。風は日本と同じく九月から三月までは北風でその以後は南風になる。」

キリシタン文献にみる蝦夷の金山とキリシタン」 五野井隆史 『北海道キリシタン史資料』 泉隆 山音文学会 昭和49・3 10 より引用…

1613(慶長18)に、英国ジェームスⅠ世の親書を携え来日した海軍司令官「ジョン・セーリス」が、蝦夷地に二度行った事がある日本人から聴取した内容。
これらの文は「ビスカイノ金銀島探検報告書」に記載あり、それを引用しているとある。
では、ポイントを2つに分けて見てみよう。

A,交易の状況について…
蝦夷衆は金銀、鮭や干魚らを持ち込む
②本州人は米、衣類、鉄,鉛、食器らを持ち込む
③主な決裁は金銀、越冬用食料を秋に買い込む
④この段階で市場は「松前」のみ
⑤取引された米が道内流通段階で値段は四倍に跳ね上がる
以上となる。

どおりでこれが成り立つ訳だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
明治まで、砂金による決裁は継続されていた。
この報告は1613年、知内川周辺での金採掘が開始されるのは1621年。ゴールドラッシュ前に既に金銀決裁は行われていた事になる。
更に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436
蝦夷衆は金銀のありかを知っていたとある。
これで、金銀決裁は最低でもゴールドラッシュ前、織豊期位迄は遡る事が可能になった。
蝦夷衆と金銀鉱山が繋がった訳だ。
これらが、松前氏らの古書に記載される訳はない。
バレなければ金銀を独り占めに出来る。
松前氏にとっては生命線だ、何せ石高〇なのだ。
そもそも、魚にして海産物にして「旬」がある。海獣を捕るにしても当然。
ましてや、豊漁不漁の波がある。
何時でも手に入れられると思う方がおかしいのだ。
船出出来る時期にしても、季節風や海流を考えねば渡航不能。実際に渡航する事を考慮すれば、何らか決裁材料を持たねば、生き延びる事なんか不可能なのだ。
蝦夷衆の長にしても、金銀を持ち込めば米を四倍にして裁けるので、正に石ころが莫大な富となる訳で。
厳しい冬を乗り越える為の備蓄米だろう。
大量に必要なのだから、それなりの価値を持たねばおかしい。

B,民俗風習について…
①この時、道南以外には殆ど定住者が居らず、季節毎に北から訪れた
②少ない定住者としては、北に体格の小さい人々が住んで居る
③一般の蝦夷衆は、体格は本州同等で衣服は本州からのもの
④ジョン・セーリスに情報を教えた人物は「対馬暖流」と日本海の「季節風」を熟知している
以上となる。

訪道経験者は、航海を知っている人物だと想像に易しい。
何せ日本海の海流と風を的確に知っている。
で、北海道には定住者が居ないと言う。
これは、現在の考古学がある程度立証してしまっている。
中世の遺跡が極端に無い…この点については合致している。
定住者がなければ遺跡は出来ようハズもない。
そして、北に居たとされるコロボックルらしき人々。
これだと留萌の北、宗谷辺り?樺太
伝承では、竪穴に住んで居たとか。
今迄も我々は、竪穴住居には近世近くまで住んでいたのではないか?と話していたが、これも案外…

非常に興味深い記述ではないだろうか?
正に、北海道史の穴を埋める情報なのだが、史書らで取り上げては居ないような…
でも、むしろ現状の遺跡,遺物らに照らし合わせると、こちらが近いとも思えるのだが…
たった一つの問題点はここには「アイノ文化」の片鱗がたった一点も無い事だ。
それでもまぁ…
説明は可能なのだが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443
まぁ、当時の南蛮人にしても説明者にしても、そこに住む者なぞ意に返さない。
故に、利害は発生しない。
南蛮人にして必要なのは金銀のみ。
松前氏らの古書と違って、中立的立場で書き残す事が可能な訳で…


さて、もう一文紹介しよう。
これはスペイン人、セバスチャン・ビスカイノの報告。
徳川家康公へ謁見し、本州東海岸の測量許可を貰い、陸奥塩釜から測量開始…釜石付近の「根臼(cenbazu)」で、その土地の人に蝦夷について質問,情報収集をしている。その一文である。
先のジョン・セーリスの報告に合わせ、当時の地理について記述を残している。

「司令官は此処に於いて山に住み猪皮の靴を履き、領主に対しては、甚だ従順ならざる土人に就きて、北及び北西の方に至る路程何日を要すへきか尋ねたり。彼等は更に進んで二国あり、第一は南部殿 Venbondono 又一は松前殿の所領なり。土地甚だ広大にして三〇日以内に国の終端に達することは能はず、又両国を通ぐれば、海岸は西に転ずと言えり。(中略)此国の端より高麗の端に至るまでの距離は短く六〇レグワ以内にして、韃靼に至る前の海峡に大いなる島あり、蝦夷(Yeso)と称し、生蕃の如き人民居住し、全身毛を生じ只眼のみを露出せり。彼等は一年の一定期、即ち七八月に日本に来り、魚類動物の皮其他交易品を持参し、其他の島に必要なる品を求むるの習慣なり。年中他の季節には此海峡を渡航する能わず、暴風及び潮流船を顛覆し難波せしむるが故なり。」

キリシタン文献にみる蝦夷の金山とキリシタン」 五野井隆史 『北海道キリシタン史資料』 泉隆 山音文学会 昭和49・3 10 より引用…


この釜石付近の人の認識だと、蝦夷は北海道より更に北で且つ韃靼への途中の海峡のデカイ島って事になる。
何せ松前を越えろ、その辺は広いと言っているので。
まぁ、元々行基図では、陸奥と北海道は陸続きの認識で、下北~渡島半島津軽海峡は大河…その先で大陸へ至る手前の島は「樺太」、つまりこの人が言う蝦夷とは、樺太の事になってしまう。

確かに、これらの後に訪道するアンジェリス神父は当初北海道は島だと考えていたが、途中から大陸と陸続きだと考え始める様になっている。
この、釜石付近の人の認識なら、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
南部公が八戸公に、ガンガン船を作ろうと呼び掛けたのも、自領の端である道東辺りは陸奥領と考え、その辺にくる蝦夷衆に船を売り付け一儲けを考えていたとしてもおかしくはない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743

実際、この後に書かれた赤蝦夷風説考でも、蝦夷の地理観は樺太や千島,カムチャッカに及ぶ。
1700年頃段階で、松前氏は幕府に対して「千島は松前領」だと報告したている。
北海道「だけ」が蝦夷地で、北海道に住む人々「だけ」を蝦夷衆と呼んでいた訳ではないと解釈すれば、現代の我々より蝦夷地は広大だと認識していた事になる。
アンジェリス神父の報告にも、蝦夷衆は70日かけて船で松前迄来ていたとしている。
ここで…
アンジェリス神父の蝦夷報告が印刷されたのは1625年。
セバスチャン・ビスカイノが1611年、ジョン・セーリスが1613年。
これらの情報の方が、アンジェリス神父訪道より先。
時系列的にはそうなる。
お互いに情報共有していない事になるが、この辺の地理観は一致しているのだ。
つまり、コロボックル?らしき人々が住んでいたのは樺太でもおかしくはないし、樺太や千島の一部では近世迄竪穴住居に住んで居たとか。
ここで、考古学遺物、南蛮人の記述、ユーカラら伝承は一応合致している。
如何であろうか?
一致しないのは、松前の古書(一部は合致)と言うか…現代語られている北海道史のみなのだ。
上記の通り、経済視点でも合致する。
ほぼ、歪みはないであろう。
ならば、問わねばなるまい。

『現在語られている歴史は、何処までが真実なのだ?』と…

さて、上記の通り『南部公』登場である

そしてビスカイノは『伊達公』とかなり近しくしていたとされる。
それらに火の粉が及ぼうが、学閥に属さぬ我々は全く支障がない素人集団である。
一言…
『宗家に話が及ぼうが、知った事ではない』


さて、これで…
金銀鉱山、初期のキリスト教、経済、物流らが一連連動し繋がり得る事可能性が高い事は解って戴けたと思う。
無視出来る方がおかしいのだ。
それらの精査で見えてくるハズだ。
「北海道正史」がだ。



参考文献:

キリシタン文献にみる蝦夷の金山とキリシタン」 五野井隆史 『北海道キリシタン史資料』 泉隆 山音文学会 昭和49・3 10