この時点での公式見解21…蝦夷争乱の抽出してみる。そして、松前藩の方針は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/13/082543
さて、今度は江戸期の蝦夷衆の争乱の視点で略年表を広げてみよう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/31/110719
一応、関連項として添付する。
平和を愛する…そうされるアイノ文化を持つ人々ではあるが、現実的には昔からその様に好戦的とも思われる行動を起こしているのは記録される。
江戸期の蝦夷衆の長の中には、
オニビシ、カモクタインを初め、
シャクシャイン
ハウカセ
ツキノエ等々、剛勇とされる者も少なくない。
なので、寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)以降どうだったか?
その部分を新北海道史から抽出してみよう。
※金山の要因は敢えて抜く
一つのキーワードは「無為に治める」。

・1640年
駒ヶ岳Ko-d降灰、8mの津波伴う
(様似の東金山落盤?)

・1648年
シブチャリのカモクタイン(シャクシャイン)とハエの鬼菱が抗争開始

・1653年
鬼菱がカモクタインを討つ

・1655年
鬼菱とシャクシャイン、福山で和睦

・1662年
鬼菱とシャクシャイン再び抗争開始

・1663年
有珠山us-b降灰

・1667年
樽前山Ta-b降灰

・1668年
鬼菱がシャクシャインに討たれ、争乱拡大

・1669年
寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)勃発
同年、シャクシャイン一党和睦、酒宴の席で処刑。
また、シャクシャインに与した庄太夫を火刑に処す

・1670年
ハウカセら西蝦夷の乙名らが不穏として余市にへ進軍、服従の誓詞を取る

・1671年
改めて東蝦夷地へ進軍、白老で服従の誓詞を取り、同年中で全乙名より誓詞を取る。


・1694年
駒ヶ岳Ko-C2降灰

・1701年
根室,国後と直接取引の為、霧多布へ大船を使わす。

※元文~天明元年(1739~1781)より、蝦夷地知行地及び知行主を示す書状が現れる

・1725年
奥島島神威岳噴火、乙部層降灰(説あり)。

・1737年
霧多布の蝦夷が騒ぎ、交易船を中止。

・1747年
ロシア司祭、択捉島に教会建設。

・1758年
納沙布蝦夷が、2~3000人で宗谷蝦夷を襲撃。死者60余人,負傷者200余人。翌年松前派兵し和解させる。

・1770年
十勝蝦夷沙流蝦夷で紛争勃発。
松前派兵し和解させる。

・1773年
ロシア、択捉島に学校建設。
同時に教化強化し、毛皮を租税させる。

・1775年
国後のツキノエが、酒に任せ交易船貨物を横領。翌年から十年間交易船を停止。

・1784年
幕府、蝦夷地開拓開始。

・1786年
最上徳内、千島探検。

・1789年
国後・目梨蝦夷争乱。
松前派兵、国後のツキノエ,厚岸のイトコイの争乱賊らへの降伏勧告で鎮圧、8名処刑。結果、捕らえられた争乱賊が脱走暴れだし、松前により討ち取られ鎮圧。
イトコイら周囲の乙名が誓詞提出。

とりあえず、以上。
択捉島らの状況も抜く訳にはいかないタイミングなので付記してみた。
実際、ツキノエは松前藩とロシアを天秤にかける様な行動をしているのは知られた話だからだ。

さて…
笑えるのが、時間軸印象操作だろう。
この様に、寛文九年蝦夷乱と国後・目梨蝦夷争乱を、同列で扱う事は多い。
だが、
寛文九年蝦夷乱→1669年
国後・目梨→1789年…
江戸期が約260年なのに対し、約120年の時差があるのだ。
勿論、発生原因も全く別。
それどころか、交易拡大の為に大船を使わす様になった割に、蝦夷衆同士で争いを起こしたり、荷物横領で大船派遣が十年見送られたりしている。
全く、個別の内容と言わざる終えないだろう。
この二つ、わざわざ西暦で並べてみないと、寛文九年蝦夷乱からそんなに時間を置かずに発生している様に先入観を持ちがちである。
筆者ですら多少思っていた。
敢えて略年表に落としてみれば、こんなものだ。
再三指摘しているが、この間ロシアはガンガン南下し、もはや目と鼻の先。
大船らでの実情報告は、それら船や運上所から上がっていた様だ。
何せ、教会,学校らは松前藩士も報告している記録はあり、十字架の墓標の墓まであった事を藩に伝えている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
何せ「赤蝦夷風説考」の一部は松前藩士からの聞き取りを含む。
もはや幕府には、バレバレだったと言わざる終えない。
新北海道史にも、それなりに詳細に松前藩主や重臣はロシア南下の状態を捉えていたし、それら情報は確実に漏洩していたと言うことになる。
こう考えれば、幕府からの再三のキリシタン取締指示も頷ける。
幕府は、松前藩とロシアの内通を疑っていたのでは?
少なからず、松前藩が直接ロシアと密貿易をしていたとの疑いの説は幾つかあったかと思う。
まぁ前述のキーワード…「無為に治める」結果とも言えるだろう。

実際、国後・目梨蝦夷争乱の采配では、飛騨屋→村山伝兵衛の場所請負人の交代や食料らの手当てなど、それなりの対応は行っているのだが、争乱発生前の管理が甘過ぎる又は丸投げと見えるのは筆者だけであろうか?
グループ内のディスカッションでも、寛文九年蝦夷乱以後、知行展開らによる治安維持を何故行わなかったか?、疑問が出ている。何せ、東北諸藩の経営時にはこれら問題は殆ど起こっていないのだから。
ましてや、上記通り、断続的に降灰は治まってはいない。
むしろ、平時の管理が出来ていないと言う背景が、混乱の要因の一つに見えるのは、我々だけではないであろう。
事実、松前藩が行ったのは、自ら1800年前後から三ヶ条の高札を連発して立る事。

一、邪宗門にしたがうもの、外国人にしたがうもの、其罪重かるべし
一、人をころしたるものは皆死罪たるべし
一、人を疵つけ、又は盗するものは、其程に応じ咎あるべし

こうである。
小手先の手と言わざる終えない。
結果、
1784年に幕府がフォローする形で松前藩蝦夷地開拓させる方針を、1803年段階で幕府直轄へ方針転換せざるおえなくなる訳だ。


但し、松前藩を責めている訳では無い。
何せ、松前藩主は自ら達の状況を悟っていた節はある。
国後・目梨の乱の後、藩主「松前道広」公は兵法家を仕官させ学び自ら軍法を考えたり、それ以前の安永年間には既に北狄に備え軍備強化や田畑開発、後に函館や戸切地に要害設置らの構造は持っていた事が記録されると、新北海道史にはある。
が、全く実行した様子も無い。
1790年に開発らを進めようとする家臣大原の進言に対し、勇猛を自他共に認める道広公にしてこう答えたと言う。
「兵は二、三百に過ぎず、一年の収納また僅かに三万なれば、何の余財ありて墾田を企て、何の人衆を以て不慮に供ふべきや」…
その上で、新北海道史では、この項をこう締めくくる。
「こうした状況にあるのに、ロシア人の南下のことを幕府に報告するならば、藩はその責任として、防衛策を講じなければならず、藩にはその実力がないから、いきおい幕府みずから手を下して防備の処置なさざるおえなかったであろうが、かかる場合は幕吏らがその領内に往来して、煩わしさにたえないのはもちろん、時によれば転封、削封などを命ぜられる恐れがあった。そのため松前藩としてはただひとえにロシア人南下の事実を隠して、万一の無事を祈っているよりほかはなかったのであろう。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日 より引用…

元々新北海道史は松前藩に対し辛辣は評価で書かれているが、これも然り。
でも我々のディスカッションでも似たような感じではあった。
何故なら現状にも1805(文化四)年には、第一次北方警備として津軽,南部両藩が出兵し、発生した事実がこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/30/223653
この段階で津軽,南部両藩は釘一本まで持ち出しだったのは記載済み。
前後関係から推察し、こんな評価を記述しているのだろう。

歴史は教訓を抽出する学びの場…
こんな観点からすれば、この松前藩の判断は如何に?
確かに当時の武家最大の本懐は「御家存続」。
松前推しの方からは「妥当な判断」と言う話も頂いたが、同時に武家(守護)の役割は「領内の治安維持と安定、そして御家財産の保安」。
1700年頃の松前藩は、樺太,カムチャッカ松前領と幕府に回答している。
つまり、この段階で既に千島らをロシアに奪われる事を黙認し、末端の民が侵略の危険にさらされている。
防備する実力がないのを悟れるなら、早期報告をするのが妥当だと言うのが新北海道史の判断。
結果防備が五十年程度遅れ、黒船に囲まれる事態となった事も事実。
ならその松前推しのご意見は如何であろうか?
と、言うより、これ…
現代も何も変わってはいないのだ。
現在の「尖閣諸島問題」を当てはめてみれば良い。
もはや人民解放軍の一部となった海警船が連日和が領土に入り込む事態。
過ぎ去るのを願い、米軍の事だけ期にする政治家官僚の行動は、この段階での松前藩の対応と何も変わりはしないのでは?
「歴史は繰り返す」であろう。
まぁ平和憲法だけでは国を危機に晒す事を、この時の松前藩の判断は如実に教えてくれている訳だ。


如何であろうか?
蝦夷争乱、つまり危機管理の視点で史実を並べて見ると、また見え方も変わるのではないであろうか?
蝦夷衆に対する収奪がー…などとばかり述べられる事は多いが、背景はそんな単純な話ではない。
是非、筆者同様に自分なりに略年表を作ってみる事をお勧めする。
それも一行一年の等間隔で並べてみる事。
有珠善光寺、防災、それら視点を加味して書いて見ているが…印象は全然変わるし、今のところ1700年当たりの部分はスカスカで記載が無い。
まして上記の様に、時々蝦夷衆同士の争乱は発生。
巷で語れる北海道史の解釈なんか当てにはならないと思わされる。
地味な「作業」だが、それが最も印象操作に載せられない手段なのでは?
勿論、記載がスカスカなのは、安定していたか?事件だらけで記録を残せないのか?この辺は「解らない」が。
何せ、余市茂入山の石垣もこの中の何処かで構築されているのだから。



付記…
松前城の石垣は、大千軒岳らの金堀衆を使い構築されている記録はあると、新北海道史には記載がある。
つまり、金堀衆は石垣構築技術を保有していた事になる。



参考文献:

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日