ゴールドラッシュとキリシタン-22…石を扱う技術集団として、この痕跡を追ってみる ※1追記あり ※2写真追加

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/09/204105
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/30/072239
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/27/075543
前項らで触れた事を少し纏めてみよう。
実は、秋田の「解読不能碑」で少々触れたが、北海道で一時「キリシタン墓か?」と話題になっていたり、付記した内容らから、北海道入りした金堀衆を「石を扱う技術集団」と捉えて、その痕跡を追ってみようと考えたからだ。


まずは、その技術力の高さから…

「慶長五年(註釈:1600)、慶広は徳山館(元の大館)の南、福山の台地に新城を築いた。」
「築城は六年を費して、同十一年(註釈:1606)八月落成をみ、福山館と称した(松前家譜、松前史)。そこで、元和三年から五年(註釈:1615~1617)にかけて、大館町および寺町を福山城下に移し、寛永六年(註釈:1629)鬱金岳(千軒岳、浅間岳ともいう)の金堀に城の石垣を修築させ、しだいにその形を整えていったが、同十四年(註釈:1637)城中から火を出し、硝薬に点火して建物が多く焼失したため、同十六年(註釈:1639)六月これを修造した。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45年3月31日 より引用…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/18/055912
今までも、キリシタン武将「後藤寿庵」が築いた「寿庵堰」の水路石垣らから、金堀衆&キリシタンには「石垣構築技術がある」だろうと代数的に述べてきたが、ここでははっきりと福山館…つまり松前城の石垣こそ、大千軒岳の金堀衆が築いたと記載されている。
これは、大千軒岳開山の翌年の事であり、アンジェリス,カルバリオ神父殉教の4~5年後になる。
彼らが記した金堀衆の存在は、あくまでも知内川周辺の砂金場の事で、大千軒岳の事は知り得ない。
と、この寛永14(1637)年の火災こそ、「新羅之記録」を記憶らに頼らざる終えなくした、記録焼失を招いたもので、火災の修造の年に、大千軒岳切支丹大弾圧を行っている。沙流川,シベチャリ,様似らの活況は、更にその後で、タイムラグがある。
意外かも知れないが、大弾圧後も結構自由に金堀衆を受け入れしていた事になる。
考え様によっては、大弾圧は単なる見せしめで、その段階でも黙認の方針だった可能性がある。


さてでは、民生用の石らは?
有珠善光寺の項で「織部燈籠」に触れたが、それが実はたった一部分でしかない事が解る。

まずは松前墓所について…

※2
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「この五十五基の墓碑のうちに織部燈籠型の墓碑が二基ある。一基は正面右側に配列され高さ一二一センチの松前産の水成岩で、中央竿石、傘石、宝珠を付しているが、竿石にはバテレン合掌の像が刻まれ竿石全体が十字型になっており、台石正面にTの字形の彫刻があり、宝珠裏側には十字の刻印がある。もう一基は左側南隅にあって、高さ一〇八センチの竿石が花崗岩、笠石、宝珠が松前産の水成岩のものでこれには台石がなく、竿石に刻まれているバテレン像はやや明瞭となっている。この二つの墓碑には火袋はないが、織部燈籠形式のものである。」
「前略~台石にTの文字があるのは全国の織部燈籠群ではこれが一つだけである。」

「前略~右側中段の六代盛広室の右脇にある五輪塔墓碑に何かの記号を示す彫刻があるので調査して欲しいとの匿名の方より手紙があり、高倉編集長と机上で種々検討した。~中略~高倉編集長がこの墓碑の拓本を採っておられ、この第四基正面に円応族山良勝居士、明歴二丙申年四月五日没となっており~後略」
「前略~松前教育委員会の了解を得て、その立合いの上で調査したが、五輪塔型式墓碑は、高さ一、二七メートルの備前青石の五輪塔で~中略~大五層の空・嵐の宝珠部の石は下部に差込まれる様になっており、その○(註釈:○には凸を上下逆さまに記載される)部の中央にTの字の彫刻があり、第四層から第二層までの三重層の内部は十五センチ直径の空洞になっており、内蔵物の痕跡は全くなかったが、各層上部には図で示すようなTの字形が入っており、第一層にはTのほかEの字形も発見された。」
「疑切り支丹墓碑の一考察 -特に松前家墓地を調査して-」 永田富智 『北海道キリシタン史資料』 泉隆 山音文学会 昭和49・3 10 より引用…

この「円応族山良勝居士」は、この段階で誰か特定出来ていない(松前過去帳写らで死亡者氏名未詳)。

更に…

松前町内の記号が彫刻されている墓碑には、墓碑の年代、石質、型式などに多くの共通点がみられた。」
「前略~もっとも古いもので寛永年間(一六二四~四~三)、新しいものでは主として享保年間(一七一六~三五)に限定されるようである。」
「墓碑の石質は、すべて緑色凝灰岩(後述)で、それ以外の石材を用いた墓碑では記号が認められなかった。墓碑の型式では、五輪塔、薄形の位牌形墓碑(含笠付位牌形)等に記号がみられ、現代風の厚形の位牌形墓碑ではほとんど認められなかった。」
「今までの調査で認められた記号の種類は三九種類に達しているが、便宜上これを分類すれば次のとおりである。このうち特に多いのは一、二、三、十、( (註釈:これを90°寝かせたもの)、X、T、L、∮などであった。」
「次にこれら記号の分布状態は別表のとおりで、位牌形(薄形)墓碑二一三基中、記号を認めたものは、一四六基で六八%を占め、竜雲院、阿吽寺などが有記号比率が高いのが注目される。」
「地元の伝承をもとに、ひろく岩質を比較検討した結果結果、福井産の笏谷石がもっとも類似するものと認めた。これは江戸時代、北陸沿岸から裏日本を北上し、出羽、陸奥の諸港に寄港し蝦夷に至った北前船(弁財船、交易船)の船底石として移入されたものと考えるが~後略」

「北海道松前郡松前町における 墓碑に彫刻された記号について (未定稿)」 『北海道キリシタン史資料』 泉隆 山音文学会 昭和49・3 10 より引用…

以上の通り。
ぶっちゃけ、松前墓所は極一部。
前者の松前墓所の調査を受け、松前町の墓所に調査を広げた所、半数以上に記号が彫刻され、その内どう見ても欧文字と言わざる終えぬものが含まれていた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/30/072239
ここにある「松前町では享保年間迄にキリシタン痕跡が消える」とあるのは、この調査を受けてのものであろう。
これらの調査結果は新聞等で報じられ、一時はセンセーショナルな話題となっていた様だ。
記号は、
①和数字
②ひらがな
③カタカナ
④漢字
⑤屋号や家紋?と思われる様な記号
⑥欧文字
に及ぶ為に、キリシタン墓か否かは物議を醸し、その後の決着はまだ筆者は捉えてはいない。
が、現状も?となっている様なので、結論は出てないのかも知れない。

一つ指摘する。
所謂北前船、西廻海運航路は、幕府の命により河村瑞賢が寛文九(1672)に開設したもの。
なので、それ以前の姿は…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/24/145700
この様なものになるであろう。
何でもかんでも「北前船」とするのは、考察が甘いと言わざる終えない。
時系列で海運を捉えていない証左と言える。
当然、北陸から向けられた船は笏谷石らをバラストにして、佐渡や秋田湊を経由し松前に至った…この点に於いては、この見解に強く同意する。
客船の意味合いが薄い北前船以前に、小舟も含めて活発に行き来していたのは、添付した関連項の通り。
現実の日本海交易航路は、現状考えられているより、かなり開かれたものであるし、客船の存在、金堀衆が割と自由に入り込めた等々…湊の身辺改は、小柄なアンジェリス神父どころか、大柄なカルバリオ神父すら通る事が可能だった事を考慮すれば、「ザル」以外の何物でもなかったと言わざる終えぬのだ。
つまり、商人や金堀衆に身をやつせば、北海道上陸は可能であろう事は予測の範疇。
金堀衆の人口は、カルバリオ神父の報告にある二年で八万人…これで収まるのかは、蝦夷地側の金山開山が両神父の殉教後である事を鑑みれば、全く予測不能であると言う事に成り得る。
事実、寛文九年蝦夷乱でシャクシャインの参謀役は「加賀庄太夫」。
東北で処刑された人々の出身地も尾張畿内の名が連なる。
更には、上記記号のある墓碑らは九州に多く、畿内らには殆ど見受けられないと同書にある事を考慮すれば、弾圧を避けて北海道~東北に陸路,海路で流入したのは明らかと言えよう。
これ等の人々の存在を無視するのは…如何なものか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/21/050255
まさか、性病や煙草の伝播が、大量の人の移動無くして可能などとは考えていないだろうな…?

さて、話を戻す。
これらで、石を扱う技術集団が北海道入りしていたであろう事は、簡単に想像可能であるし、それぞれ調査された現物…物証が残る事で明らかとなろう。
これらが全てキリシタン痕跡であろうハズがない。
むしろ、石の技術集団の痕跡を見る為に、その一部である「キリシタン痕跡」を探すと考えた方が良い。
仮に、キリシタン街の伝承を持つ様似キリシタナイらで、これら記号入りの墓碑が見つかれば、それはキリシタン痕跡を代数的に捉え、それ以上の金堀衆が居た事になる…こう仮説して痕跡を追えば良い訳だ。
さて、キリシタン史としての進展はどうだろうか?
今後も追っていく。
キリシタン史にアプローチしているのが、カトリック系研究者に限定される事、色物扱いする事が、如何に愚かな事か?ご理解戴けただろう。

ところで…
大事な事を忘れてはならない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/164447
余市の茂入山の石垣は江戸中期位まで遡ると予測されるが、詳細はなんら解っていない。
誰が構築し、何の為のものか?これらは謎。
だが、これで一つ解った事がある。
金堀衆であれば、構築可能だと言う事。
実は様似にも石垣状のものがあるとか。
様似…キリシタナイ…
キリシタンを含む金堀衆であれは、石垣を持つ砦を作る事が出来た。
たったこの一点は裏付け出来た。
松前藩が異様に切支丹改を行い、なかなか蝦夷地に知行地拡大しなかった事は何故?
日本中から集まった金堀衆とこれらがむすびつけば、Ta-b降灰前に蝦夷地に居た人々が誰なのか?解明されてくるものと、我々は考える訳だ。

少なくともそれは、政府広報らで語られる単一集団「アイノ文化を持つ人々」とは成り得ない。
鉱山技術ら南蛮技術を持つ集団となってくる。
勿論、それを松前藩史書に書けるハズもない。
蝦夷争乱が第二,第三の「島原の乱」に成り得る。
バレたら藩取り潰しだろう…と、言う訳だ。
これも一つの仮説に過ぎない。
我々は物証主義。
ジワジワ集めていくのみ。


※追記…
この記号入り墓碑、笏谷石である事が示唆された為に追加調査を行った事が同書にあった。
それによると…
①三国を中心に北陸での実績を調べたが、北陸では、この様な墓碑に記号を彫る慣習は見当たらなかった…
②運送時の慣習を考慮し、江刺地方の墓碑も調査したが、江刺地方では全く見つける事が出来なかった…

この二点より、記号入り墓碑は積んだ北陸の慣習でも、ランダムに持ち込まれた訳でもなく、「意図して松前に建てられた」と言う事になる。
これを蝦夷地側まで伸ばした調査が行われているのか?は解らない。
石工は、意味の無い事はしていない模様。
仮にこれらが東北にあれば、話は別だが。
と…考えたら、「解読不能碑」のEは興味深い。

※2
アカウント名 mono様から画像の提供を戴いた。
これが松前墓所の「織部燈籠」。
風化の影響で解りにくくはなっているが、確かに中央の像が観音,地蔵ら菩薩像とは趣が違うのが解る。
木造らでは、バテレン像等も存在するので、その類いか?
mono様、ありがとうございます。



参考文献:

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45年3月31日

「北海道キリシタン史資料」 泉隆 山音文学会 昭和49・3 10