「東遊雑記」の「竈無し」、あとがき…「東遊雑記」と菅江真澄が描いた「豊岡」との差異と、周辺遺跡の出土遺物を加味すると?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/24/195739
後日談がついたので報告する。

大館市立郷土博物館から戴いた「東遊雑記」の豊岡での記載は「竈無し」。
実は、直後SNS上で発信された中に豊岡が登場している物があり教えて戴いた。
記した人物とは「菅江真澄」。
記載内容を比較すると…?

菅江真澄の「おがらの滝(1807年)」では豊岡は、
・宿場町
・医者が住む
・何度も菅江は訪れている
・この日もその医師「神馬善継」を訪ね、家宝「安東愛季公の書状」を見ながら夜更け迄語り合った

では改めて…
幕府巡見使の「東遊雑記(1788年)」では
・南一面野原
・乞食小屋同然の家
・竈なし
・まるで夷人なり

なんと、同じ豊岡に対する記載なのに、真逆なのだ。
安東公の書状がどのようなものかは現在不明だが、神馬氏はなかなかの文化人の様だ。
勿論、上記の様に年代差は12年。
その間に開発されで開けたのか?
だが、菅江真澄は複数訪れてるとしているので、仮にそうだとしてももっと短いスパンで開けた事になる。
興味深い…

と、言うわけで、他のフィールドワークのついでに、豊岡に最も近隣である鹿渡の「三種町歴史民俗資料館 縄文の館」を訪門した。
ここは、豊岡の南で多少距離はあるのだが、長伝寺伝とされる「菅江真澄鑑定の番匠の神々の掛軸」が展示ているのを記憶していた。
ヒントでも解れば…である。
結論から言うと、館員さんも豊岡自体に詳しくなく解らないとの事。
ただ、豊岡集落は結構広いとだけ…と、言いつつ、ここにも豊岡出土の遺物があったなと思い出して戴けた。
それがこれ。
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豊岡金田の「保竜館遺跡」の須恵器、土師器、そしてフイゴの羽口?…ら。
これら遺物なら、概ね平安期でよく見る遺物。

考えても見れば、三種町より南には、井川,八郎潟,五城目町ら「秋田郡衙」縁の町が続く。
そして、北には「能代営」。
その接続を考えても、古い町と古羽州街道が続いている事は予想可能。
更にこの一帯では中世でも「洲崎遺跡」「扇田谷地遺跡」らが検出され、それなりに継続して町並みが広がっていた事は想像に易しい。
とすれば、菅江真澄が描いた姿の方が近い事になる。
まさかこんな後日談が付くとは思いもしなかった。

さて、では、この記載らをどう解釈すべきか?
これは筆者の勝手な想像ではあるが…
この辺から東に山越えすれば阿仁方面(阿仁銅山)。
能代を越え北へは藤里方面(太良鉛山)。
あちこち鉱山が絡む場所が秋田にはある。
往来が多くそれなりに繁栄する途中の宿場町を幕府に見せたいか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/24/152415
こんな断片もあった様だ。
阿仁銅山の銅と幕府の米の交換レートは、市価の倍程度だった事は知られている。
それなりに繁栄する姿を見せ、それらを弄くられたら、藩としては損となる。
なら、場所,場所を意図して選び出し、公開する場を制限する程度はやるであろう。
今でも、会社のお偉方が視察に来る時、都合悪い部分…隠さないか?
つまり久保田藩は、繁栄する街道を迂回して、意図して貧しい集落を視察させた…
こんな予想は如何であろうか?
これを立証するとしたら、巡見使対応の書状らを片っ端から紐解く必要があるので、敢えて現状は考えていないが、筆まめ久保田藩士の事なので、何らか見つかる可能性は無くは無い。

たまたま、全く違う内容の記事から出た歴史上の妙と言うべきかも知れない。
郷土史には、こんな裏ネタの欠片が幾らでもあるだろう。
普通なら気付かないそれらを調べてみるのは面白い。
これらもそうだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/09/204105
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
何故か、ひょんな事から「中世竈探し」を始め、そこから派生した話は多い。


割と見過ごして当然だと思う事が、全く事実と異なる事なぞ、幾らでもある。
それに伴う「人の縁」にも感謝しかない。
こんな楽しみ方もある。