ゴールドラッシュとキリシタン-23…様似町に伝わるキリシタンが居た街「キリシタナイ伝説」とは

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151
前項で少し触れた事をクローズアップしてみよう。
様似町の「キリシタナイ伝説」を知っているだろうか?
様似町にキリシタンが居た街があって、繁栄していた…と言うもの。
これは「松浦武四郎」の「東蝦夷日記」でもキリシタンが昔居た場所と記されているそうだ。
以前から紹介している、カトリック留萌教会の続橋司教の著書「北海道とキリシタン(カトリック)」でも取り上げられており、その「キリシタナイ考」の項目では「様似町史」を引用している。
年表記載とその部分を引用したい。


「一六三四年(寛永十一年)
キリシタンの児玉喜左ヱ門、松前藩勤小吏となる。」

「一六四四年(正保元年)
キリシタン児玉喜左ヱ門、仙台藩の転び(信仰を棄てたら者)キリシタン菊地文平の訴え(密告)により捕らえられる(七月十二日)。その後江戸送りとなったが、その後の消息は不詳。
様似町にキリシタナイというところがあり、ここで児玉が捕らえられたと様似町にのっているか、史実かどうか疑わしい。松浦武四郎のえぞ日誌にも「キリシタンナイ」がでており、昔キリシタンがいたらしいと書いてある。」

「キリシタナイ
観音山の西麓の水穴からでる清水が、やまから流れて来る細い谷川に合して流れている。これは幕府直轄領時代から、茶水汲処場となっていたところである。寛永十二年(一六三五年)から、寛文九年(一六六九年)シャクシャエンの大乱まで三十五年間、キリシタナイは、様似繁華の中心地であった。それは前述のとおり、東金山が開発された関係から発展したものでもある。キリスト教徒の叛乱で有名な島原の乱で敗れた児玉喜左衛門を首領とする一党が、世をしのんだ由来の地である」

「キリシタナイ(kirishitaenai)(kirishitaepenaiの急語)
キリ…骨髄、シタ…犬、エペ…食う、ナイ…沢。犬が鹿肉をかじっていたところの意(今のキリシタナイ)。永田方正先生は「切仕丹信徒のいた沢」といっているが、アイヌたちはこれを否定している。」
「児玉喜左衛門
天草 島原の一角に、幕府にたいする反抗の烽火があがった。寛永十四年(一六三七年)である。信仰の自由を圧迫されていた切仕丹宗徒が立ちあがるべくして立ちあがったのである。この反抗はながくは続かなかった。翌年二月、彼らが唯一の要塞もついに陥落、信徒の面々は、大方、華々しく殉死して反乱は一応おさまったのである。しかしこれに刺激された幕府は、極度に神経をとがらせ、津々浦々に至るまで、切仕丹宗徒狩りに狂奔させることになったのである。したがって、切仕丹改宗を心よしとしない信徒たちは、それぞれ各地に潜行して捲土重来を画策したのである。様似のウンベツ川の支流、ポロウンベツのまた支流になるが、ポロナイ水源の東金山に、島原の敗残者がいた。児玉喜左衛門の一党である。キリシタエナイ、すなわち今のキリシタナイにもぐりこんで、この鉱山に働いていたのである。……
寛永十六年(一六三九年)、金山奉行の蠣崎(かきざき)蔵人と下国官内を派遣して、この山の信徒百六人を斬首した。この余波が、正保元年(一六四四年)様似のキリシタナイに潜入しててた児玉を中心とする残党にも、およんだのである。喜左衛門は捕らえられ、そして唯一、軍鶏籠(とうまるかご)にのせられて江戸へ送られた。……
蝦夷地に潜入していた夥しい数の切仕丹信徒の中にひとり、児玉喜左衛門だけが江戸送りになったことや、その人格のすぐれたことなどから推察するのに、島原城内でも、知名の武将であったと思われる。……
(この話は、中島賢峻著「北方文明史」と「福井由松談」から採録)」

「北海道とキリシタン(カトリック)」 カトリック留萌教会 白鴎印刷(株) 平成七年二月十八日より引用…

せっかくなので、年表の部分二点と、続橋司教が引用したキリシタナイの謂われ、語源、児玉喜左衛門の三点を引用した。
要約すれば…
①様似東金山を中心とした鉱山町があり繁栄した。これを「キリシタナイ」と言う
②キリシタナイはアイヌ語源である
③キリシタナイには島原の乱の残党とその一人「児玉喜左衛門」がおり、金山役人となった児玉は仙台の転び切仕丹の白状で発覚。キリシタナイで捕縛され江戸へ移送された…となる。

実は、続橋司教は上記にはかなり否定的。
その反論は下記。
①について…
これは異論はない模様。
②について…
「犬が食う」等はアイノ語にはないとしている。これは、平取の萱野茂氏、旭川の川村謙一氏らに直接インタビューた内容との事。
彼らはむしろ、「キリシタンが居た→キリシタナイ」を支持との話。
③について…
年表の部分にあるように、これも強い否定的意見。
別途解説の中では、島原城に立て籠り生き残った者は「山田右衛門作」のみでキリシタンですらない(画家との事)。更に比屋根安定著「日本基督教史」内でも武将の中にその名は無い。何より、児玉がキリシタナイに居た根拠となるものが見当たらない…主にはこの三点が根拠。
実際、札幌や様似のキリシタン文化研究会に於いては、児玉の島原の乱残党説は否定的な模様。


ここでペンディングにしては、何の為の「北海道~東北の関連史」なのか解らない。
では、他の研究者の記述を見てみよう。

「「福山年歴捷径」によると正保元年(一六四四)の飛札で仙台藩後藤寿庵の弟子菊地豊平の白状により寛永十一年(一六三四)以来金山役人であった児玉喜左衛門が発覚し、七月十二日千軒岳の近くで捕まった。そして正保三年(一六四六)正月二十五日江戸へ送られた。五六歳であった。」

「東北のキリシタン殉教地をゆく」 高木一雄 聖母の騎士社 2006年9月1日 より引用…

こちらは出典,捕縛場所,年歴有り、そして「後藤寿庵」登場である。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/18/055912
こんな人物。
実は、裏付けとなるであろうが…

「金師は仙台の人で喜介という者でその下に山尻孫兵衛、水間杢左衛門などがいた。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日 より引用…

これら経緯や登場人物を見ると、仙台藩絡みが多く、島原の乱と言うよりはそちらの可能性が高くなりそうだ。


では、我々なりに纏めてみよう。

①について…
キリシタナイがあったか?…これはまだ確証が無いので「解らない」。
但し、大千軒岳に対する千軒町や、秋田周辺の鉱山町実績を見れば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/17/171103
1600年代に出来た鉱山は、温泉や盛り場らがほぼsetになっている。
キリシタン以前に鉱山町が有って然るべしだし、年代的にキリシタンも混ざっていて当然だと考える。
まず、鉱山町を探せ…だ。

②について…
語源は正直解らない。
つか、鉱山町やキリシタン痕跡が見付かれば、語源なんぞと言う曖昧な物を根拠に引き摺り出す必要そのものが微塵も無くなるので筆者的には、どうでも良い。

③について…
児玉喜左衛門については「東北のキリシタン殉教地をゆく」より、仙台藩絡みの人物の可能性が高いと考える。
ましてや、後藤寿庵を中心にした「キリシタンネットワーク」ならバテレンさえ移動可能。
但し、仮に児玉が九州出身者であったとしても、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
日本海ルートは開けていた。
出羽(久保田)→陸奥(見付)に入り、仙台藩キリシタンと合流の上渡道も可能だ。
鉱山町の出身地は、ネットワークで結ばれているのだから当然。

まずは、鉱山町の痕跡が謎解きの第一歩だろう。
児玉喜左衛門だけに拘る必要は無い。
それを探し出せれば、近世の謎も解けてくる。
地味なフィールドワークが突破口を開くかも…
それに期待したい。




参考文献:

「北海道とキリシタン(カトリック)」 カトリック留萌教会 白鴎印刷(株) 平成七年二月十八日

「東北のキリシタン殉教地をゆく」 高木一雄 聖母の騎士社 2006年9月1日

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日