ゴールデンロード④…メインラインより伸びる「秀衡街道」らに見える、金銀銅鉱山の伝承と物証

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/04/110421
ブログの更新も少しお休みしていたが、その間フィールドワークした内容を報告したい。
一ヶ所は「西和賀町」、「西和賀町歴史民俗資料館」,「碧祥寺博物館」を。
もう一ヶ所は「八戸」と「三戸」、「根城跡&八戸市博物館」&「聖寿寺館跡」。
ここも正に東北を貫く「ゴールデンロード」と言える。

ではまず西和賀町より…
本ブログの読者の方ならご存知の通り、宮城,岩手(陸奥)と秋田(出羽)を結ぶ為には奥羽山脈を越える必要がある。
南は宮城から栗駒や鬼首峠通過し湯沢へ抜けるルート。
多賀城からの最短距離になるが、まだ特定されておらず、秋田城へ向かう経由地「雄勝城」もハッキリ解っていない。
北は、現青森の糠部(三八)から、鹿角,小坂方面に抜け、大館から津軽へ抜ける。
ここも平安から朝廷がメインラインとしたのは解っている。
さて、真ん中は?
これこそ「秀衡街道」と呼ばれ、平泉から秋田へ抜ける最短ルートで、西和賀から横手に抜ける。

「古い時代から奥州と出羽は数条の横断道で結ばれていた。縄文時代晩期の九年橋遺跡(北上市)からは、接着用のアスファルトが出土しているが、これはもちろん出羽(秋田)から運ばれたにちがいない。『続日本記』宝亀11年(780)の条に「蝦夷陸奥出羽両国を頻繁に往復し」害をするので「鷲座、楯座、石沢、大菅谷、柳沢等の五道を塞いだ」等述べている。大菅谷は、後の巣郷のことで、秀衡街道はこの古道のルートなのである。また楯座は、沢内村から千畑村に越える善知鳥(註釈:ウトウ)越えのことである。平安時代には胆沢城の鎮守府と出羽の雄勝城、払田柵、秋田城を結ぶ重要な道路がここを通じていたと考えられる。文治5年(1189)頼朝が平泉を攻めた年は、奥州は不作だったので、窮民を救うために、和賀稗貫郡には秋田領から米穀や種子を運んだと『吾妻鏡』にあるが、この大菅谷道(秀衡街道)か、北の善知鳥越えで運んだであろう。」

「黄金の道・秀衡街道」 西和賀広域エコミュージアム推進協議会 2006年3月15日 より引用…

西和賀→横手(山内)に抜けるルートは、現状R107で使用される。
善知鳥越えは、キリシタンの話で紹介した 事がある。
同書によると、秀衡街道は口伝や西和賀に伝わる『邦内郷村史』に記載があり、西和賀湯田町周辺には鉱山があり、藤原秀衡が掘った「秀衡堀場」や金売橘治(註釈:カネウリキチジ)が掘った「吉次堀場」があったと記載される。
実際古くは嘉保元年(1094)に和賀町の卯根倉、あくと(悪戸沢)、大荒沢に開削の記録があるとの事。
和賀→西和賀湯田町(鷲之巣の秀衡堀場、安久登沢の吉次堀場)等→横手市山内、増田、角館、西木、協和町荒川(吉彦秀武の本拠地とされる)等、金銀銅鉛らの鉱山が伝承だけでなくずーっと続いていおり、後世掘られていたのもまた事実。
確かに、平泉からこの秀衡街道を使えば、陸奥国司にバレずに金銀銅らを運び入れられるのも地理的にはあるだろう。
協和荒川や湯田鷲之巣らは、タヌキ掘りや露天掘り跡らが検出。
仮にそれが平安迄遡らなくても、中世辺りや江戸初期のキリシタンらが掘ったものとも考えられる訳で(笑)
ハッキリ時期特定はされてはいないが、古代~中世~近世迄の鉱山跡がそのまま街道に丸被りと言う事にはなる。
これらタヌキ掘りら鉱山跡の時期等が解明されてくれば、時の権力者がどの様に富を集めたか解明可能になってくる。
現在「秀衡街道」は、有志の探査会らの手により、散策道らとして史跡巡りが出来ると言う。
中世に一時南部方は横手市金沢辺りまで侵攻しているので、ルート的には古代~中世~近世と使い続けられたと考えられる。
その周辺には鉱山の痕跡が残ると言う訳だ。
それは近現代も岩手経済、我が国の一翼を担ったのは言うまでもなく、西和賀町にはかなりの鉱山跡が残される。


さて、八戸。
昨年のフィールドワークで、「三戸城」「聖寿寺館」「盛岡城」を見ていたので、南部宗家筋の「根城跡」は見ておきたかった。
根城築城は1334年、南部師行による。
実際、南部氏の系譜は「諸説あり」で、明確に南部氏宗家筋が青森,岩手らに宗家筋の拠点を置いた痕跡はこの根城が最初らしい。
聖寿寺館,三戸城同様、城の中に鍛冶工房等を持つ。
実は八戸市博物館で根城(八戸)南部氏についての特別展が行われており、食いついてしまった。
最新の研究で判明した事だが、根城,九戸城,聖寿寺館ではルツボが出土しており、 金銀銅(真鍮) ら別々に使用された様なのだ。
つまり鍛冶工房らでそれらの精練や加工を行っていた事になる。
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それぞれ中世全般に渡り使用されているので、何時からそれらを行っていたかは別ではあるが、少なくとも南部氏がそれらを行っていたのは間違いない。


これが奥州,羽州の底力。
これらが点在する貿易陶磁器らの原資とも考えられる訳だ。
勿論、この北大道の糠部~鹿角ルートも尾去沢ら古くからの鉱山伝承が残る。
陸奥、出羽の峠筋にはほぼ、金山絡みの伝承があると考えて良い。
当然、奥州藤原氏の黄金伝説は古より伝わっている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914
そこでふと涌き出る疑問。
南部師行は、何の脈絡も無く根城に入った訳じゃないんじゃないかと。
馬産地と金山を抑える為とも考えられはしないか?
南部氏が入る前に独占してたのは安東だろう。
後の安東vs南部の抗争も金山の取り合いの側面は考えられるのではないか?
当然、南北朝期でも原資を押さえる事は直近の問題だろう。
経済情勢が視点に無いと、戦う意味も勢力図を描く材料には乏しくなる。
戦うには理由が要る。
それはほぼ、経済的理由。
これなら、奥州を抑える最大の理由が出来上がる訳だ。
勿論、西和賀町一帯以上に西の花岡~小坂,尾去沢ら含め、近現代の鉱山地帯であったのは言うまでもない。
藩境争いを含め伝承,実録は数々残され、経済のダイナモとして古くから機能していた。

面白い事に、秋田の鉱山開山伝承には一定の段階がある。
尾去沢→朝廷北進のタイミング…
太良,阿仁→南北期…
院内等→織豊~江戸幕府開幕…
中央史で政変らが起こり、原資を必要とした時期に重なる。
偶然だろうか?
そして、北海道のゴールドラッシュは、院内らに続いて北上して発生していく。

何も関係ないとは…
言えぬのでは?
正に古より「ゴールデンロード」なのだ。



参考文献:

「黄金の道・秀衡街道」 西和賀広域エコミュージアム推進協議会 2006年3月15日