南部氏の後ろ楯、陸奥将軍府「北畠顕家」とは?…東北史のお勉強タイム-4

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/233328
筆者は先日、八戸の根城跡を訪問した。
東北の勇の一角、安東氏については以前紹介したが、南部は?
…と、言う前に、東北に置けるターニングポイントに赴任した人物を一人押さえておこう。
南朝の貴公子、北畠顕家
元々、彼が南部師行を帯同し、糠部郡奉行として着任させた張本人。
南北朝武将列伝 南朝編』で北畠顕家を解説する亀田俊和氏をして、北畠顕家とは「貴公子」。
歴史上の人物の中では非常に人気ある人物。
まんまなのだ。
・14歳で参議,近衛中将
・16歳で陸奥守で東北赴任し陸奥将軍府設置…
・18歳で中先代の乱に呼応した奥州の乱を静め、上洛し足利尊氏を敗走させ…
・九州で盛り返す足利尊氏を追撃の為、二度目の上洛…
・途中、後醍醐天皇に、かの北畠上奏文をしたため…
・21歳で和泉堺浦で戦死…
村上源氏の血筋…
・容姿端麗で財も持つ…
・貴族の割に合戦にも強く…
・保守,改革に優れた統治センスを持ち…
その悲劇性も含めて、無いものは無し。
正に貴公子。
さて、何故に南部ではなく、先に北畠顕家を取り上げるのか?
南北朝武将列伝 南朝編』で記載が無かった部分含め、改めて「月刊歴史街道」で亀田俊和氏が解説した中に「何故、建武政権陸奥将軍府を設置し北畠顕家を派遣したか?」について記載あった為である。
では引用してみよう。


「そして建武政権が発足すると、陸奥守に任命され正三位に昇進し、元弘三年(一三三三)十一月二十日に東北地方に向けて出発した。後世、「陸奥将軍府」と呼ばれる建武政権政権の東北地方統治機関の発足である。義良親王(後醍醐の皇子。後の南朝二代後村上天皇)を名目上の首長とし、政界復帰した父親房も同行していた。当時の東北地方は、日本国の半分を占める広大な地域と認識されていた。金や馬といった資源も豊かで、蝦夷地・樺太、さらに北方のユーラシア大陸との交易も盛んで、経済的にも富裕な地方であった。そのため支配者から非常に重要視された地方で、前代鎌倉幕府においても北条氏の所領や被官が非常に多かった。平安時代における奥州藤原氏の一世紀に及ぶ栄華も想起されよう。当然、建武政権も同地方の統治を重要視した。また、北条氏の残党の反乱にも警戒する必要があった。後醍醐天皇は、このような地方の統治という重職を顕家に託したのである。だが、それまで北畠氏は東北地方と何の関係もなかった。そもそも同氏は純粋な公家であり、武士的な要素も
皆無である。後醍醐は、何故東北地方と無縁の公家、しかも当時わずか十六歳の若者にこのような任務を命じたのか。正直、その理由はよくわからない。事実、親房(筆者註:顕家の父)が書いた『神皇正統記』によれば、顕家自身もとまどい、何度も辞退したという。しかし後醍醐が顕家を直接呼んでみずから旗の銘を書き、多数の武器を与えて強く
命じたので、応じざるを得なかった。結果として後醍醐の人選が正しかったことは、その後の歴史が如実に証明していよう。」

「若くして散った"南朝の貴公子"北畠顕家の真実」 亀田敏和 『月刊歴史街道令和3年9月号』より引用…

以上の通り。
亀田俊和氏によれば、東北の掌握は、
・鎌倉方残党の掃討
・金や馬、北方交易の利権掌握
・広大な土地(恩賞)の確保
これら目的で陸奥将軍府を設置して、実質トップに北畠顕家を据えたとある。
この時の基本的な陸奥将軍府の形態は、鎌倉幕府の形態を踏襲したが、着目すべきは「恩賞充行権(担当地方の恩賞を出す権限)」が北畠顕家には付与されていて、鎌倉方残党掃討らで活躍すれば都に申し立てせずに独自に出せた事の様だ。
建武政権からの足利尊氏の離反らはこの恩賞の一件は教科書らでも書かれるが、東北では北畠顕家に一任され、評定らで決められた効果は筆者も同意する。
と言うか、ここに亀田氏の解説を載せたのは氏が東北掌握の目的の一つが、経済的理由を挙げているから。
我々グループでディスカッション中では、「それをやって儲ける奴は誰だ?」これを重視している。
「戦いは富により引き起こされる」…これが鍵。
飯も食えない大義に、命を掛ける奴は居らずそうそうに離脱する。
基本的に戦いは、戦う前にその勢力図が出来る過程でほぼ決まる。
寝返り工作らは必須。
そこを考慮すれば南部師行の根城入りは、馬産地と金山らを抑え、鎌倉特宗家側に付いた曽我,工藤氏ら南津軽への牽制にピタリの位置。
南部師行の根城入りの背景には、南朝の貴公子の後ろ楯があり、ここからが、後世の安東vs南部の抗争のスタートラインになるのだろう。

尚、鎌倉幕府下で南部氏は東北に居た伝承になっているが、本領はあくまで甲斐。
南北朝武将列伝 南朝編』で「南部師行」らを解説した滝尻侑貴氏によれば、南部氏の東北入りが最も明確になるのは南朝方として南部師行より先行して七戸に入った南部政長が最初。
その前の陸奥南部氏の存在は明確ではない。
この点は、後に南部宗家となっていく「三戸南部氏」の三戸城らの説明などでも見掛ける。

さて、この時期の出羽側は?
一応…
1333年には出羽側でも建武政権発足に伴い、出羽国司として「葉室光顕」が赴任し、北畠顕家に付与された権威を利用し、連動したハズ…と想定されてはいるが、葉室光顕の活躍の記載があまりないのでどうだったかよく解っていない。
まして、1335年には斬首されてる様なので訳が解らない。
そう言えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/073435
って、この頃板碑ら紀年遺物みると安東氏が南下しているのは確かなのだが。
鎌倉方又は北朝方として…?
因みに秋田県内の板碑はほぼ北朝方紀年なのだ。

さて…
北畠顕家や南部師行らの北進は、ランドパワーたる「馬」だろう。
特に、鎌倉方掃討も重要な任務なのだから、それなりに動かす必要がある。
だが、出羽側はどうか?
大軍を進め得るルートは無く、どうしてもシーパワーたる「船」を使うしかない。
北進はランドパワーになる。
だが、既にこの時には「関東津軽御用船」ら、日本海ルートは開かれている。
陸奥に比べ出羽側は、上記通り混乱している。
後の南朝から北朝への寝返り工作は、北陸から日本海ルートで密使を送れば可能ではある。
安東氏の南下らも、これらの影響は無いとは言えないのではないだろうか?
奥羽山脈がブラインドになり、案外見えにくい。
都から見れば、北東北は田舎の括りだろうが、実際は秋田と岩手らでは地形も気風も違い全然違う。
案外、東北に土地勘の無い北畠顕家、ついては南朝方の盲点はここではないだろうか?
多賀城を押さえても、出羽側まで押さえられるとは限らない。
現に、一度目の上洛直後位から南朝方から北朝方への寝返りは増えてくる。
身動きがし難くなるのは、上記著作らでもあちこち解説されている。
事実、板碑のみならず、安東氏の御用船利権は足利尊氏により安堵されているのは、十三湊らに関係する展示で明らかだったりする。
大軍は動かせないが、物流…経済活動の大動脈は日本海ルートだろう。
貴公子北畠顕家の見落としは、北朝方より先に日本海ルートの掌握が出来ておらず、寝返り工作を許したから…
まぁまだ勢力図らは学べていないし、資料自体が少ないので、妄想はここまで。

ただ、北畠顕家による陸奥将軍府設置…
この辺が、後の混乱のスタートラインであることは解って戴けたであろう。
北海道が絡まない?
そんなハズ無し。
元々北海道は、北条特宗家に流刑地として設定されており、私的任官である「蝦夷管領」は安東氏。
鎌倉方が逃げ込む先として「有り」なのだ。これも中世武具の元々の持ち主達と成り得るのは事実。
十三湊陥落による人口流入より百年程度早い。
十三湊や秋田湊へ辿り着ければ可能だ。
この時も、北海道からの物資が途切れてはいないと思うが。

そして、十三湊にあれだけの財を築きつつ、これらの話に「安東氏」は殆ど登場しない。
同時に…三戸南部氏もまだ見えない。
蠣崎氏もまだまだ欠片も見えない。

そう…
はっきり解らないのだ。


追記…
根城には「竈」の跡は検出してない模様。
八戸市博物館の展示では米はあまり採れず、粟,稗らの栽培を示唆していたが…
南部師行って、粟,稗を食えたのか?
非常に素朴な疑問だが。



参考文献:

「若くして散った"南朝の貴公子"北畠顕家の真実」 亀田敏和 『月刊歴史街道令和3年9月号』 (株)PHP研究所

北畠顕家-若くして散った悲劇の貴公子」 亀田俊和南北朝武将列伝 南朝編』 亀田俊和/生駒孝臣 戎光祥出版(株) 2021.3.18

「南部師行-陸奥将軍府で重用された八戸家当主」 滝尻侑貴 『南北朝武将列伝 南朝編』 亀田俊和/生駒孝臣 戎光祥出版(株) 2021.3.18

秋田県史 第一巻」 秋田県 昭和55.4.3