ゴールドラッシュとキリシタン-24…「伊達政宗の倒幕計画」より際どいのはむしろ「バテレンや諸外国が一枚岩」ではない事

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/24/111811
関連項はこちらとしよう。

「暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 ヴァティカン機密文書館史料による結論」と言う著作がある。
著者は、「大泉光一」氏。

サンファンバウティスタ号による「慶長遣欧使節団」の派遣は、背景に伊達政宗による倒幕計画があると言う物。ふ
この説は著者が最初ではなく、明治,大正の「簑作元八」氏がドイツ語論文で発表しているとの事で、バチカン機密文書館所蔵の二通「キリシタン連判状」を元にしている。
この主張は、メインロードの歴史学者からは無視された話の様で、筆者も読む限りでは確かに怪しげではあるが、伊達政宗がそこまで考えていたか?としての直接の物証に欠けると思う。
なので、伊達政宗の「倒幕計画」は別の話としておこう。
むしろ問題なのは、著者の大泉氏が何故そう考えたかの根拠が、バチカンに行って読んだ史料に基づいている事。
それで、当時のバテレンキリシタンを取り巻く背景を知りたいからである。
では、少々引用してみよう。

「ヴァティカン機密文書館に残されている一六一五年十二月二十七日付のローマ教皇パウルス五世の小勅書(ローマ教皇によって出された最も重要な正式通知〈勅令〉をいう。末尾には教皇の印章〈Bulla〉が添えられる)、および異端審問会議によるイタリア語表記の回答文書の下書きには、これら六点の請願に対する回答以外に、書状で請願していない内容に対する回答が記されていたのである。」

「そして、回答文書で突然、登場するのが、政宗を「カトリック王」として叙任してほしいという請願と、日本に「キリスト教徒の騎士団」を創設したいという請願なのである。」

「暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 ヴァティカン機密文書館史料による結論」 大泉光一 (株)文芸春秋 2017.9.20 より引用…


慶長遣欧使節団の背景の略年表は…

・1603年
江戸幕府開かれる…

・1609年
①フィリピン→メキシコのスペイン船が千葉沖で難破…
②幕府、オランダと通商交易会場…

・1611年
伊達政宗、ソテロ神父を仙台へ呼ぶ。キリシタン入信許可&優遇の高札発布…
伊達政宗、セバスチャン・ビスカイノと仙台で会見(ソテロ神父が通訳)…

・1612年
①幕府、直轄領への禁教令…

・1613年
①幕府、全国への禁教令…
②幕府、イギリスとの通商交易開始…

・1614年
大坂夏の陣
イエズス会報告「国内キリシタンは67万人」…
③幕府と伊達藩合同で作った「サンファンバウティスタ号」でメキシコへ、90日航海ですアカプルコ到着。同年中にサンファンバウティスタ号(幕府使節団)は帰国、ソテロ,支倉らがスペイン船で欧州へ向かい、セビリア着…

・1615年
大阪冬の陣
使節団、スペイン王「フェリペ二世」、後ローマ教皇パウロ五世」に謁見し、請願等を行う…

1616年
①家康没…
ローマ教皇へ二度目の謁見、帰国の途へ。途中、スペイン王からの返書入手の為途中滞在(居座り?)

・1617年
使節団は国外退去命令、返書はフィリピンで受け取りの約束をこぎつけ、メキシコへ…

・1618年
①メキシコ→フィリピンへ、マニラ滞在。

・1619年
サンファンバウティスタ号、スペイン艦隊へ売却…

・1620年
①ソテロをマニラに残し、支倉らは長崎到着、帰国…
伊達政宗の支倉謁見2日後、仙台藩キリシタン弾圧開始…

1622年
支倉常長没…
①アンジェリス神父、火刑で殉教…

・1624年
①再入国したソテロ神父、捕縛され火刑で殉教…
カルバリオ神父、仙台にて水攻めで殉教…

・1637年
島原の乱

1862年
①二十六聖人、バチカンで聖人に列挙

ざっとこんな背景であろうか。


まずは、サンファンバウティスタ号は幕府と伊達藩との共同開発、その指導はビスカイノが連れてきた船大工の模様で、伊達藩で主に準備役をしたのが「後藤寿庵」。
完成後、共同使節団はメキシコ着、そこでメキシコ副王と謁見し幕府使節団は帰国、大使ソテロ神父(フランシスコ会)、副使支倉常長始め藩士と三名の関西キリシタンの代表と共にスペイン→バチカンへ訪問し、それぞれ親書と請願を行った様だ。

同書によれば、親書及びキリシタン代表が持参した連判状にある請願は六点。
フランシスコ会所属の宣教師派遣
②司教区設置と(フランシスコ会所属の)司教の任命
③メキシコとの直接通商への介入
④神学校設立許可
⑤日本人殉教者の公式認知
⑥信心会設立許可
との事。

ここで引用文の登場となる。
日本側の文書上、全く現れない「カトリック王叙任」「騎士団創設」が、返書の中に記載あると著者大泉氏は指摘する。
確かに教皇宛書状にも「詳細はソテロ,支倉から聞いて欲しい」との旨書いている模様。
この時代の書状では、「持参した者に詳細を聞いて欲しい」と言うのはよくある事。
つまり、返書のみに記載される「カトリック王叙任,騎士団創設」こそ、大使からの口頭での請願内容だと指摘する。
事実、幕府使節団不在、内容を知る者はソテロと支倉のみ、途中で話したりしてはいない模様。
これが根拠…
筆者的には、これを伊達政宗の本音として立証するのには弱いと思う。
ソテロや支倉が勝手に言った事だ…としても整合性がついてしまうからだ。
そして、そう思わせてしまう所が伊達政宗の魅力なのかも知れない。

さて…
実はここまでか前提。
標題にある我々が問題と思う点を論じたい。
前述の様に、ソテロ神父や支倉が語る部分はトップシークレットだった様だ。
勿論、メキシコやスペインでさえ語っておらず、同書では、それ故にスペイン政府の不信を買い、交渉失敗及びバチカンへの失敗工作へ至ると論じている。

だが、その内容はイエズス会側には駄々漏れで、イエズス会の史料(仙台市博物館蔵)にも「ソテロ神父が伊達政宗カトリック王に叙任する様に請願は周知」とあるそうだ。
前述の通り、ソテロ神父が大使である以上、上記の様に伊達藩でのイニシアティブはフランシスコ会が取る事になる。
が、それを良しと思わぬイエズス会は、ソテロ神父の司教就任に難色を示し、ソテロ神父そのものの人間性に疑問を投げ掛ける様な書簡を出しているのは、同書に細かく説明ある。
元々、イエズス会ポルトガル中心に拡大されたが、当時ポルトガルは直前にスペイン併合時代へ。
当然、イエズス会フランシスコ会ではスポンサー違っていたと考えられる。
更に、略年表を。
まずは、家康,政宗が本当に欲したものは?
同書では、中南米、特にメキシコで行う銀の鉱山技術と大量生産に必要な精練技術。
当時の「水銀アマルガム法」の導入。
ここでは思わず一致だからこそ、サンファンバウティスタ号建造にgoがでた。
外交顧問が三浦按針なる家康は、プロテスタント勢力と通商交易へ舵を切っている。
これは商教分離の考えから。
伊達政宗は気にしておらず、フランシスコ会とアクセス。
巷で布教展開してるのはイエズス会、浪人集めた豊臣氏へ集まるのはどちらかと言えばイエズス会だろう。
フランシスコ会イエズス会は反目…
各勢力、三つ巴。
この時点においては、まだ最終的雌雄が決していない。
なので、ソテロ神父のツテでスペインまで使節団派遣が可能だった。
直後の大坂の陣で体制が決してしまい、通商交易も失敗…そりゃ靡くしかない。
バチカンにある返書の内容では、「伊達政宗が洗礼を受けていない理由で検討出来ない」…当然の結果ではある。
倒幕と言うよりは、豊臣,徳川どちらが派遣をとろうが生き延び、富を入手する為の行動だったのでは?
いずれ、画策しても、三つ巴なら何処かからリークされて終了だっただろう。
この様に、イエズス会,フランシスコ会が一枚岩ではない…ここが我々が着目したいポイントである。

何せ、サンファンバウティスタ号建造の技術顧問は、金銀島探索の「ビスカイノ」。
北海道の状況は政宗も聞いていただろう。
オランダにしても東インド会社が1643年には、択捉島らへ上陸し十字架を好き勝手やっている。
つまり、これらと接触する手段が、北海道に於いては残されていた事になる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/24/111811
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436
こんな話もあるので。
それぞれの思惑で、誰と手を組むか?
それが富に直結する事になったのは言うまでもない。

ついでに…
水銀は東北では殆ど取れない。
伊達政宗はどうやって「水銀アマルガム法」を導入しようとしたのか?
辰砂…水銀朱。
北海道には水銀鉱床があり、縄文期から使われ、近世でも余市常呂らで産出している。イトムカ鉱山は水銀自噴鉱床。
北海道まで含めれば…


少々とりとめがなくなったが…
昨今、海外の史料で新たな視点の指摘が出て来ている。
それらの発見や解釈が変わる事で北海道史も変わって来るだろう。
その辺を期待したい。




参考文献:

「暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 ヴァティカン機密文書館史料による結論」 大泉光一 (株)文芸春秋 2017.9.20