ゴールドラッシュとキリシタン-4-a…「後藤寿庵」と言う武将(増訂版)

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/18/055912
と言う訳で、キリシタン系の資料も少しずつ集まってきた。
この際「後藤寿庵」について改めて紹介しようと考える。
増訂版としよう。

正式な出自は不明。
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「東北キリシタン殉教地をゆく」 高木一雄 聖母の騎士社 2006.9.1によると、
陸奥葛西一族で、磐井郡藤沢城主岩渕近江の次男で「又五郎
・秀吉公の「奥州仕置」で葛西一族,,岩渕氏は滅ぼされ、又五郎は諸国放浪し長崎五島列島へ辿り着き洗礼を受け、五島(後藤)寿庵を名乗り出す。
・1611年、京の商人田中勝助がメキシコから帰国した所で出会い、親交を結ぶ。
南蛮貿易に興味があった伊達政宗へ田中勝助が後藤寿庵を推薦し仕官。
・胆沢郡見付1200石を給し、キリシタン寺や胆沢灌漑事業を行う。
・1614,1615年の「大坂の陣」では、鉄砲隊長として出陣。
・1623年、三代将軍家光からの直接のキリシタン捕縛を命じられ、同年、後藤寿庵の見付屋敷を急襲焼き討ちされるが、後藤寿庵は直前に脱出、後行方不明…
としている。
割とこれに近い事が「仮説」されているが、「みちのく切支丹」 只野淳 昭和53.9.20によると、郷土史家の菅野義之助が書いた「奥羽切支丹」の影響と指摘、石高600石だったり後藤孫兵衛の娘を娶り五島→後藤とした等微妙な差がある。
どれが本当なのかは未だに「不明」。
但し、水沢の石母田氏の「石母田文書」やバチカンローマ教皇への「奥州キリシタン古文書」、何より灌漑堰である「寿庵堰」にその名が刻まれており、実在の人物である事は間違いない。
そこで、「私本 仙台藩士辞典(増訂版)」 坂田啓 2001.5.20で整合してみたが…
記載無し。
舅とされる後藤孫兵衛の項にも、それらしい人物記載が無い。
「みちのく切支丹」にあった様に、キリシタンとして処刑らをされると藩士名簿や家系図から抹消される…これは事実なのかも知れない。
禁教令が下った時に、政宗公から「布教せずバテレン近付けず」との条件を出されたが、それに納得出来ず姿を眩ました様だ。
胆沢平野に灌漑堰を築き周辺を荒れ地から穀倉に変えた地元の偉人ではあるが、私財を使い借金もあった様だが、これに対する訴えもあったとの記述をする文献もある

筆者は、後藤寿庵顕彰会のある「カトリック水沢教会」や「寿庵堰」らをフィールドワークしているので、直後の状況は添付ツイートのスレッドを確認頂きたい。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1234799280583409665?s=19
教会へ訪問時は、書籍の確認や紹介頂いた事、この場で改めて感謝したい。

さて、後藤寿庵の実績とは?
・胆沢の灌漑事業
「寿庵堰」の構築である。
実は後藤寿庵の存在は、地元伝承されてはいたが殆ど知られてはいなかった様だ。
明治九年に慶長欧州使節団の資料が我が国で初刊行され、付随し調べ始められた模様。史料が抹消されているので詳しい出自も解らないのはその為。
故に家系も想像の域を出ていない。
胆沢の地は微妙な高低差の為、胆沢川からの取水が困難で荒れ地だったそうだ。
知行した後藤寿庵は南蛮技術を使い、堰を作る事を開始した。
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石の大きさを揃えた見事な石垣である。
写真で水が見えないが、農作業時期以外に水を入れないそうだ。
近くの茂井羅堰と取水口が近く、激しい水利争いがずっと続いたそうで、昭和の代に
円筒分水工を作り分水する事で解消されたそうだ。
藩の資金ではなく自費と借金で開始したので、自領ファーストになったか?
いずれにして、これで荒れ地が水田化したのは事実。地元の英雄として口伝されたのは間違いない。
ただ、後藤寿庵が完成した寿庵堰やそこに広がる首を垂れる稲穂を見る事が出来なかった様だ。
道半ばで、切支丹捕縛の手から脱出したから。
堰を完成させそこを豊かな田んぼにしたのは、彼を慕い尊敬していた弟子達と見分村の領民達。
寿庵堰は、後藤寿庵だけの功績ではなく、
意志を継いだ人々皆の功績だと思う事を付記しておく。

・慶長欧州使節団の準備指揮
これには否定的な論評もあるが、使節団大使のフランシスコ会ソテロ神父、それを苦々しくみていたイエズス会アンジェリス神父、両方の書簡に登場する。
サンファンバウチェスタ号建造を含めたアウトラインの指揮に少なからず関わりがあったのは間違いなさそうだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/20/141907
が、否定的見解や乗り気ではなかったとされる根拠がアンジェリス神父の書簡。
ソテロ神父は、メキシコから先のスペイン→バチカン行きを伊達政宗藩士には伏せていて、船の完成段階で後藤寿庵に上奏させたとある。
この話をソテロ神父から聞いた後藤寿庵は激怒したが、ソテロ神父はスペイン,バチカン行き無しなら手を引くと迄言う始末で、後藤寿庵は板挟みになりしぶしぶ伊達政宗に話をした事が記される。
この段階でフランシスコ会イエズス会はかなり険悪で解釈に注意は必要だが、少なくともスペイン,バチカン行きに後藤寿庵は賛成ではなかったのではないだろうか?
メキシコ行きは幕府,伊達藩共同、スペイン,バチカンは伊達藩単独となっている事を鑑みれば、ソテロ神父が途中迄それを伏せていたと言う事の蓋然性は有りそうではある。ソテロ神父に利用されたか?

キリシタンネットワークの構築
水沢福原には聖堂が立てられたと伝承される。毘沙門堂がある場所だ。
北海道~東北を駆け抜けたアンジェリス&カルバリオ神父はこの地を起点にあちこち慰問に回っていた様だ。
何せ北上し南部領へ行くにも山を越え久保田領に入るも都合良く、北海道入りは陸路で津軽に入るより、久保田領→秋田湊→北海道→津軽の方が簡単だとアンジェリス神父は記す。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/22/101835
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/10/203836
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/08/195030
彼らの活動の断片はそこかしこに残される。
そして、後藤寿庵がキーマンとされる最大の根拠はこれ。
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元和三(1617)年、バチカンの聖ペトロ大聖堂落成のおり、時の教皇パウロ五世は全世界のカトリック教徒に教書を送付した。
それに対する東北の信者代表者17名署名入りの返書がバチカンに保存されていて、その署名筆頭、それもたった1人だけ自筆で署名している。
この返書の日付が元和七(1621)年8月14日。(返書は国内五地域の代表署名入りで、五通保存される)
これとアンジェリス&カルバリオ神父が、後藤寿庵を宿主としていた書簡らで、キーマンとされている。
何せ変装させたとはいえ、南蛮人に関所を抜けさせていた訳なので、冷静に考えればかなり強固なネットワークが敷かれていたと言える。
何気に関所番人にキリシタンが入り込んでいたりするのだから。


さて、先にフィールドワークへ向かう段階で…
①北海道と東北の関係を調べる
②彼がどんな文化をもたらしたか
③既に余市にある石垣を捉えていたので、キリシタンらが築いた寿庵堰の石垣を見て比較したい
この三点。
①は、はっきりとしては見つけられなかったが、見分村がキーステーションだったと考えられるのは大きい。
②は、寿庵堰の偉業を見れば理解出来る。
実際、胆沢周辺は台地状で胆沢川から水が引けなかったのを、南蛮渡来の技術で可能にし、減税ら含めた政策で地元の尊敬を集めたのも事実。
③もフィールドワークの写真を見ていただければ、その丁寧な石積が目に入る。大きさを揃え積んでいるので美しさ迄感じた。


ざっとであるが、以上の通りである。
石積みを確認出来たのもそうだが、フィールドワーク時点での最大の収穫は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/185916
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/102500
キリシタンネットワークと鉱山友子制度の類似性に気が付いた事かも知れない。
彼の実像が明らかになり、海外での史料発掘が進んでいけば、新たな展開が見えてくるかも知れない。
その点を期待してならない。
もっと注目されて良い人物だと考える。



参考文献:

「東北キリシタン殉教地をゆく」 高木一雄 聖母の騎士社 2006.9.1

「みちのく切支丹」 只野淳 昭和53.9.20

「私本 仙台藩士辞典(増訂版)」 坂田啓 2001.5.20

蝦夷切支丹史」 G・フーベル (株)北海道編集センター 昭和48.5.10

「暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 ヴァティカン機密文書館史料による結論」 大泉光一 (株)文芸春秋 2017.9.20

「秋田切支丹研究「雪と血とサンタクルス」」 武藤鉄城 ㈲翠揚社 昭和55.6.1