「無視出来るはずがない人口インパクト」「ガチの弾圧は大籠に学べ」あとがき…大籠をモデルとした、「秀吉公のバテレン追放令の真の理由」と「北海道で起こったであろう事」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/17/190920
前項はこちらになる。
「ゴールドラッシュとキリシタン」…
これを大籠をモデルとして「北海道~東北の関連史」的に見直してみると、割とスッキリした「仮説」が可能となる。
勿論、まだ物証は少ないが、どんな事が北海道で起こり得たか?は説明可能。

まずは、大籠で起こった寺社荒廃。
これこそが「人口インパクト」そのものなのだ。
前項「大籠に認められた」で概報の通り、大籠キリシタン資料館において、秀吉公のバテレン追放令の理由としての寺社荒廃の
事例を紹介したパネルがこちら。
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廃寺跡たる物証の他に、後に書かれた物ではあるが古書資料としても残されているので紹介しよう。
大籠風土記(小竹白斎)述との事…

神明社は平泉秀衡の創建なり、神職三十六戸ありしが、天正年中葛西没落により離散す。寛永年中に至り、宮司和泉殿切支丹に逼られ、田畑屋敷を取られ栗原郡柳沼に逃れ行く。」
大聖寺は虚無僧寺なりしが、元和年中に切支丹盛んにして、住職を追い出す。其年より次第に退転転となる。京の妙安寺の末寺なり。」
「明泉寺跡。大杉五本あり、各七、八囲り、昔明泉禅師の開基にて禅宗なり、慶長中ヤソの教えにて廃絶せらる。山号を黄金山と云う。」
「子角寺跡。元弘年中高津判官法顕、改めて浄源住す。開基は伝教大師なり。粟田口清蓮院末寺、山号は可汗と云う、元和年中ヤソのため廃絶す。」
「以上大籠村だけでキリシタンに押されて廃絶した神社三、寺院三となり、この地域の神社、仏閣は全部壊滅の悲運におそわれてしまった。」
「これは独り仙台領だけでなく、例えば会津藩においても、藩主蒲生氏郷は大阪で親交のあった高山右近に勧められて、大阪教会で洗礼を受けレオの霊名で、天正十八(筆者註:1590)年と文祿四(筆者註:1595)年に二回もヴァリアーノ其他の神父に会っている。こうして藩主が信者てあるキリスト教が、公然と拡がることは当然のことであって、一方困ったのは寺である。寺では、寺が不振になったからお寺参りをさせて下さる様に、と藩に願い出ている。(会津藩に於けるキリシタン殉教者とキリシタン塚に就てより抜粋)」
「こんな状態は日本全土に波及していたであろう。」

「みちのく切支丹」 只野淳 (株)富士クリエイティブハウス 昭和53.9.20 より引用…

付随し…
レオン蒲生氏郷公がオルガンチーノ神父により洗礼を受けたのが天正十三(1585)年、奥州仕置(一度目、大崎,葛西)と秀吉公により会津に封じられたは天正十八(1590)年。
バテレン追放令が1587年、1595年に40歳で没。
この段階で家臣団にはキリシタンがおり、オルガンチーノ神父には「一国全てキリシタンにする」とまで豪語している。
少なくとも、関ヶ原前には南東北キリシタンが居て当然の状況ではあった訳だ。

背景が解って戴けた所で、話を戻そう。
現状の大籠町は人口一万人。
勿論、当時はもっと少ないであろう。
同書「みちのく切支丹」では、大籠で製鉄を開始したのは元々治めていた葛西氏貴下の「千葉土佐守」で、そこから南蛮技術を取り入れて拡大。
伊達政宗公が所領した後にテコ入れで更に拡大していき、最大時にキリシタンは三万人迄膨れ上がったと言う。
当然これは布教での教化だけではなく、西方からの移住者も含む。
それで文化(宗教を含む)集団の人口逆転が起こり、(他の神仏を認めない)一神教であるキリシタン勢力が、イニシアチブを取り従来勢力を駆逐,排除,教化していった…
こんな事が起こったと言える訳だ。
人口インパクトとはこの様な物だ。
事実、スペイン,ポルトガルが東南アジアや中南米で行った植民地化らの手口がこれ。
昨今、ネットらでもキリシタン大名による「奴隷(人身)売買ばかりに視点が行きがちだ。
だが、秀吉公が最も危惧したのは、従来からの価値観たる『國体』をキリシタンに破壊される事。
『國体』が破壊されれば、豊臣政権の地盤すら揺らぎかねない。
故に追放令の筆頭にこれを記載した。
勿論、これには臣民を売り買いする等と言う行為も含まれてくるが。
解って戴けただろうか?
これが「人口インパクト」の効果である。


これ同様の事が、江戸初期に北海道でも起こった事を忘れてはいけない。
金山周辺は数倍の人が流入し、旧来の人々を教化しながら膨れ上がった様はカルバリオ神父の報告を今迄も何度も方向している。
仮に八万人と云う報告が膨らませ過ぎとして半分で見ても四万人の金堀衆が入った事になる。
その半分がキリシタンだとすれば、江戸中期の松前藩の報告人口が二万人程度。
金堀衆は2倍、キリシタン人口でイーブン。
充分寺社荒廃らは起きうるであろう事は推定出来よう。
キリシタンの話は、単に弾圧らで終わりではない。
経済、文化、政治に関わっている。
膨らませ過ぎとしたが、当時のキリシタン総人口は30万とも70万人とも言う。
東北で弾圧が熾烈化すれば、逃げ道は北海道しか無い。
逃げなければ捕縛され、棄教or拷問,処刑の二択を迫られる。
「そこに金銀有らばキリシタン在り」とは、そう言う意味だ。

忘れていけない事は経済。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/27/075543
史書には、この当時の「砂金採掘権への税収」は、松前藩収入の約1割。
か、実際はその約2倍強の金額が税収の他、代用通貨として流通し物々交換の運上益として藩経済の一翼を担った事。
これは明治迄続く。
採掘権は割り符制なので、支払い出来なければ北海道から出られず留まる事になる。

更に、藩は藩用の米しか入手していない。金堀衆は独自調達と新北海道史にある。
だが、想像より北海道は開かれていたのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
これで説明可能である。
近隣諸藩から民間ベースで売りに行けば飛ぶように売れる様は想像に易しい。
一定の人口があり、そこに経済活動が起きうる訳で、それは砂金や海産物と諸藩からの米や日常品らとの交換で売買成立したであろう。
又、足りなければ、自ら耕すしかない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
で、畑地跡は少なくとも森,八雲町~有珠ら胆振迄も拡がる。

これは、Ta-bら火山灰直下。
遺構,遺物とは整合性が取れる。
これら経済の視点と背景を鑑みれば「キリシタナイ」の様な千軒町は充分に有り得る話だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/24/111811
様似は後に湊が作られる。

そして、江戸初期の火山灰直下の墓の一部とキリシタン墓の副葬は丸かぶり。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
一部は、この様な人々の墓の可能性は棄却出来なくなる。
勿論、立証には事例を増やす必要はあるが。

裏付けとしてこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/30/072239
事実、松前藩は秋田らでも潜伏化し便宜的になっていく「切支丹宗門改」をしつこい位に続けており、幕府もその対応では不十分との考えを持っていた。
ロシア南化によるロシア聖教の影響だけなら1750年以降再開されていたであろうが、これをずーっと継続している。

まぁ、上記の通り、レオン蒲生氏郷公のスタンスから、バテレン達が北海道~東北に入る前から、キリシタン達は既に北上し居たと言うのだから、その段階で既にキリシタンネットワークは完成しており、故にバテレンは即行動可能だったとも言える。

如何だろうか?
これなら、大籠をモデルにする事で、織豊期~江戸初期の状況をトレースする事が可能。
且つ、中世には丸で人が居ないが如く遺構,遺物が無かったのに、江戸初期のTa-bら火山灰降灰直前より忽然と出現する理由としては、充分なのではないか?
・有ったであろう寺社痕跡が消える
・酒や煙草の習慣
これらの矛盾すら消え去る。

北海道に於ける金堀衆やキリシタン痕跡を追う必要性はこれだ。
改めて…
人口インパクトは無視出来るハズ無し。
ガチの弾圧は大籠に学べ。
そして、ここには何故か…
他言語を話す文化集団の痕跡が薄い。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436
南蛮人すら…
コミュニケーションが取れているのだ。



参考文献:

「東北キリシタン殉教地をゆく」 高木一雄 聖母の騎士社 2006.9.1

「みちのく切支丹」 只野淳 昭和53.9.20

蝦夷切支丹史」 G・フーベル (株)北海道編集センター 昭和48.5.10

「新北海道史 第一巻 概説」北海道 昭和五十六年三月二十日

その他、それぞれの引用項に記載…