アイノ文化が複数文化の融合であるとの指摘…そこから見える、考古学的裏付けとアップデートの必要性

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/29/200405
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716
前項はこれだろうか…
今迄も我々は、宗教具的視点からも指摘はしてきたが、たまたま手持ち文献の中に、イクパスィについての論文があったので少し紹介してみたいと思う。
「有翼酒箸の諸形式と地域性」…
著者の名取博士は、アヨロ遺跡らの発掘に関与されていたと思う。
論文内ではイクパスィの派生型である「有翼酒箸」についての研究はほぼ河野廣道博士しか当時やられていないとしつつ、それに自分の調査結果を追加し報告している物。
中身は敢えてさておき、当時に河野博士や名取博士がどんな背景を想定していたか?を引用してみたい。

「有翼酒箸はアイヌの献酒作法において、主として狩猟に関係のある神祈りに用いられる場合が多いが、コタンと地域によって差異がみられる。有翼酒箸は鳥の形をあらわし、先端が嘴で後端が尾であり、尾翼・口舌・心臓・家紋などを刻むのが普通である。アイヌの酒箸は、献酒の散供用具であると同時に、霊界に旅して諸霊に祭主の祈詞を雄瓣に伝達し、霊人間の媒介者となるものである。田中克彦知里真志保・和田完・堀一郎の諸氏によれば、アイヌの宗教はシベリア系のシャマニズムやアミニズムを基層として、これに、北上した神道や日本の庶民信仰が、習合した自然宗教である。その結果、樺太アイヌにおいては脱魂型-シャマンの魂が忘我の状態から抜けて霊界に旅する-に傾き、北海道アイヌにおいては憑霊型-諸霊がシャマンに入って霊感を与えて託宣する-に傾いている。(5,6,7,8)アイヌの酒箸は、このような自然宗教に導かれて、各種のイナウ類(棒弊を含む)や飲食具(串・箸・匙・箆)なとが、融合し生成したものであろう。したがって、前述したようにアイヌの酒箸が霊界に旅して、霊人間の媒介者となることは、脱魂型の思想が酒箸の中に残存していると考える。」

「有翼酒箸の諸形式と地域性」 名取武光 『河野広道博士没後二十年記念論文集』 河野広道博士没後二十年記念論文集刊行会 昭和59.7.12 より引用…

形状は単純に言えば、イクパスィの途中にイナゥの様な削りを入れて翼を模す様な感じ。
場所により、その削りが一ヶ所だったり二ヶ所だったり、また上向き下向きとその傾向を地域差らと合わせ考察している。
上記の通り、ポイントは
①形状や使い方に地域差あり…
②宗教的傾向として、樺太ら北方の自然崇拝をベースにして、本州の神道山岳信仰の影響をエッセンスに融合している…
こんな感じであろうか。

これの何処に筆者が引っ掛かったのか?
a,上記の通り、名取博士は引用した知里博士始めとした4氏の意見として、アイノ文化の宗教的傾向として、複数の宗教の影響を帯び、単独で形成された訳ではなく「北方と本州の影響を融合して出来上がった」としている点。
b,地域差らがある事を認めており、大枠使い方は同様だが、その宗教的意味合いはあると言う事。
c,北方ベースで本州宗教文化を加えたとしている事。

さて、
a,について。
単独では形成されていないと認めている。
あっさり言えば、政府広報の様に独自の物だと言うよりは往来,取引,婚姻らにより醸成されたもの…と言う事であろう。
この点ははっきりさせておく必要がある。
アイノ文化はこれら宗教に見える様に、ベースに対し途中でエッセンスが加わり出来上がった物だ。
出来上がった形が独自なのであって、そこに居た人々単独で出来上がった訳ではない。閉鎖されたものではない。

b,について。
a,を裏付けるだろう。
エッセンスの加わり方、伝播に異差があった事を指し示すとも考えられる。

c,について。
これがある意味、考古学的にひっくり返っている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
当然、河野博士や名取博士が研究された後に斎串の発掘がされており、この論文以前には無い観念となる。
そして、この擦文の遺物は、アイノ文化が出来る「前」の姿である事を忘れてはいけない。

更には、そもそも擦文文化は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
元々の北海道文化に、本州からの土師器文化集団の移住らで形成されていくのは、考古学的に解ってきている。
これもである。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/17/161552
厚真の経壷らも含め、仏教の影響と見られる物は、アイノ文化が発生する前からその痕跡を残す。
これらより、擦文文化に見られる宗教的感覚が極めて東北に近いなら、それをベースに後の時代を組み立て直さねば、話が合わなくなるのだ。
つまり、昨今の擦文研究により、むしろ神道山岳信仰が先に北上し、シベリアの信仰が後発で南下した事も考慮せざるおえないのではないか?。
何せ縄文で道南は円筒土器文化圏。
本州が農耕重視の弥生文化の影響が強まり、北海道が、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/18/184741
北方との交易が強まろうとも、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/25/175639
結局、本州との交流がきれた訳でもない。
結果的には擦文文化へ同化されていくのはとって見える。
因みに、オホーツク文化は直結しえない。
文化痕跡が擦文文化が消える前に消える。
熊送りの痕跡は江戸期迄無い。
考古学的視点を加味し、アップデートしていけばそうなる。
仮にこれが後になると言うなら、擦文土器の編年経過は根っこから見直し要だ。
擦文段階でこれなので、直後発であるアイノ文化の宗教的ベースは北方と言うより、本州ベースと組み換える必要性が出て来ているのだ。
我々が以前から言う様に、時系列です並べれば、北方との関連性を掘り下げれば下げる程、それは後で入ってきた文化の痕跡となる…って事。
時系列に並べるのが歴史の基本なのではないのか?
もう河野博士,知里博士、名取博士の時代から科学的分析分野が随分進んでる。
これ、もういい加減アップデートすべきだろう。

もう一つ…
北海道の各博士達らが聞き取りや物品収集を行ったのが何時なのか?
当然それば学問として検討を開始した明治以降で、昭和迄。
この段階で江戸期より時代が遡れる物はほぼ無い。
なら、それ以前は?
何せ新北海道史においても、中世と繋がるのではないかとする史料はこれだけ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/02/205112
毎度言う様に、中世遺跡が極端に薄く、擦文文化期と江戸初期を明確に繋ぐ物は未だに出土が薄く繋がりの確証は得られていない。
繋がると仮説し、現実には確証が無いのだから、何故それを繋がってはいないと上記の様に仮説し組み立て直そうとはしないのか?
誰かやっているのか?
現実にはやられたものはみていないし、質問しても有耶無耶や答えが返ってきているのが現実で、上記の様なアップデートはされていないと言う事になる。


以上の通り、
縄文期からの影響が色濃いとしても…
直近の擦文文化期の遺物を鑑みたとしても…
北海道における文化の基盤は日本列島の文化となろう。
後に北方から段階的に流入してきた文化集団のエッセンスが加えられ、地方色が強まっただけ、これが我々の考え。
そして、段階的に流入している痕跡はあるではないか。
土台、一つの独自性を継続してきたと考える方がムリがあるのだから。
そして各時代に加えられたエッセンスは、何も北方からだけなんて事はないのだ。
筆者的にはまだ物証が足りているとも思ってはいないが、各教育委員会らの調査報告を見るだけでも、この程度の資料は集められる。
おかしいと思うなら、自ら学べば良いだけだ。

北海道と東北は古代から繋がっている。
それが切れた事はない。
仮に極度に違いが見られるなら、それは後世加えられたエッセンスの物証となる。




参考文献:

「有翼酒箸の諸形式と地域性」 名取武光 『河野広道博士没後二十年記念論文集』 河野広道博士没後二十年記念論文集刊行会 昭和59.7.12