この時点での公式見解25…「弾左衛門」は老中田沼意次の「蝦夷地開拓計画」に参加していた

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/26/174810
前項はこちら。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
蝦夷風説考である。

勿論、水戸の調査らはあるもののそれは一部の人のみ。
一般大衆や幕閣に注目させたのは赤蝦夷風説考だろう。

では、その後どうなっていたか?
たまたまNHKBSで放送していた「英雄達の選択」での「老中田沼意次の選択」、実はこれに当たる。

蝦夷風説考を書いた工藤平助の訴えは老中田沼意次に届き、工藤は勘定奉行松本伊豆守への説明を行い、それにより松本は松前への調査指示、その後幕府吏員の派遣を田沼に報告し許可を得る。
それが近藤重蔵,最上徳内ら天命五,六(1785~1786)の蝦夷地調査に繋がる。
実は、田沼や松本を突き動かしたのはロシア南下の危機ではなく、その当時の幕府の財政貧窮や天明の大飢饉の影響での経済混乱の打開の為とも言われる様だ。

さて、その後は?
実は、毎度の「新北海道史」にその辺の記述はちゃんとあった。
蝦夷地開拓策」と言う項である。
そして、ここで彼が登場する…

※註釈:引用文内の『』は筆者が強調の為追加した

「天命五(筆者註:1785)年冬調査半ばで、佐藤玄六朗(註:西蝦夷地担当で調査)は江戸に帰り、検分したことを上司に復命したところ、松本伊豆守(註:勘定奉行)は玄六朗と相談のうえ、翌六年二月意見書を老中(註:田沼)に提出した。」
「その意見の大要は、蝦夷地は広大であるが、人が少なく、糧食が乏しく、取締りはすこぶる困難である。ゆえにまず蝦夷本島を開墾し、蝦夷に農具、種子を与えて農業につかせねばならぬ、蝦夷本島は周囲約七百里、面積約一千百六十六万四千町歩と推定される。ゆえにその一割を開拓しても田畑百十六万六千四百町歩をうることができる。この高、一反歩につき五斗の収穫があるとしても、総額は五百八十三万二千石に上る、さらに考えると、この開拓は蝦夷人だけですみやかに成功をみることは困難であるから、穢多弾左衛門に計ったところ、『弾左衛門の部下にある穢多、非人三万三千余人のうち、七千を移住させることができるとし、このほか全国の穢多、非人およそ二十三万人のうち六万三千人を移住させうる見込みである。よってふたたび玄六朗をつかわし、陣屋ならびに村落の配置の具体案およびその諸経費までを調査しようと思う。蝦夷地を開拓すれば、商人が集まり戸口が増加して、国境の取締りはおのずとできるであろうし、そのうえ石高も増加するから、奥羽もまた進歩して関東に等しい有様になるであろう。ロシア人交易に関しては、異国の産物は長崎交易だけで、国内に不足がないばかりか、新たに蝦夷において交易を開くときは、長崎交易の害となり、また抜荷の弊害も生じるから、許可しないほうがよかろう』というのである。これに対し、二月十四日允可の指令があり、玄六朗はふたたび蝦夷地に向かって出発した。」

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道 昭和45.4.31より引用…

なかなか面白い展開なのだ。
ポイントを上げよう。

①長吏頭の浅草弾左衛門は、関八州の自分直属だけではなく、全国の長吏に対しても指示出来る権限がある様だ

②それどころか、老中や勘定奉行から直接意見を求められ、それに対し直接案を上奏出来る立場だったと思われる。

③『』の部分が弾左衛門から松本伊豆守への回答だろう。
細かい人員の弾き出し、必要な調査事項、奥羽や長崎への影響、ロシアとの通商から出る影響…ら、単なる開拓計画の一部と言うより、国内の諸事情を俯瞰した意見を回答している。
この時の浅草弾左衛門とは、こんな幕閣の様な能力を持つ人物の様だ。

元々、長吏の支配権は山師、木地師、製鉄,調金、竹細工、芸能、死体や皮革を扱う工業ら、山に纏わる技術に関わる部分や寺社絡み、当時宗教的に忌み嫌われた部分、寺社や貴族、武家に絶対必要な技術製品に関係する部分をほぼ網羅している。
故に、そこに携わる人々は技術流出防止の意味も含め囲い込まれた様だ。
特にこの開拓計画には、金銀鉱山開発が必要なので、彼らなくしては調査も進まないであろう…と言う訳だ。


さて、実際はどうなったか?
天命六(1786)年六月は継続し調査らが行われていたが、時の将軍徳川家治が病床に着きそのまま九月死去。
後ろ楯を失った田沼は十月に失脚、勘定奉行松本伊豆も左遷され計画は中止に追い込まれる。
但し、この様に、いきなり中止になったとはいえ、調査途中でその間は計画は進んでおり、例えば青島俊蔵と江戸商人苫屋久兵衛による交易の試験(飛騨屋の場所を使った試験取引)、試験漁業や、長崎俵物会所直販らは中止迄の間に一定の結果や利益を出している。
つまり、実働に於いて、弾左衛門貴下の穢多,非人衆も動いていて当然。
実際、前項の様に、測量において弾左衛門が事前に動いていた節があるので直属部下を動かし、あれこれ話を進めていたかと考えられる。
既に江戸初期でゴールドラッシュを迎えていた北海道、山師が動いているのだから、長吏頭にその情報が無い訳もなく。
事前調査や同時進行で事業を進めていなければこんな全国俯瞰の意見なんか出せるハズもない。
つまり、下手な役人より蝦夷地の情報を持っていた事になる。
勿論、田沼も松本もそれらを熟知しているから、弾左衛門に計らせた…
と、考えられる。
又、彼らの痕跡はこんな所にも。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/24/200439
吉原の運営ノウハウも彼らの独壇場。
一定数の移住は既に行われていたのではないか?


さて、これが与えた影響は?

「このように田沼時代の幕府の蝦夷地調査は中途で挫折し、田沼のあとを受けて、新たに老中主席となった松平定信は財政緊縮を中心とし、田沼の政策には批判的立場に立ったが、やがて寛政年間にいたり、蝦夷乱の発生やラックスマンの来航、あるいは英船の絵柄入港など、北方問題の緊迫化によって、幕府はふたたび蝦夷地に注目せざるをえなくなるのである。」

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道 昭和45.4.31より引用…

当然ながら、後の幕府直轄化での開拓計画の基礎は、この田沼や弾左衛門らが進めた計画を見直しすれば良かったであろう。
基礎や情報収集は出来ていた。
そしてその時の松前藩の判断はこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/08/054450


我が国は最早待った無し…
動乱の幕末は、直ぐそこ迄忍び寄ってきていた訳だ。



参考文献:

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道 昭和45.4.31