これぞ大殿の御出座…数回記録にある「安東宗家」の訪道及び出撃事例

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/233328
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/23/201045
さて、安東氏の勉強を続けよう。

中世秋田は隣国豪族の草狩場…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/01/115401
よくよく考えると安東氏自体も津軽
出羽出身の豪族…
清原一族を除けば、平安末~鎌倉初期の、
奥州合戦藤原泰衡方の武将として描かれる「由利八郎維平」 (諸説有り)
源頼朝に反旗を翻し、藤原泰衡の仇討ち挙兵した「大河兼任」
吾妻鏡に記載されるこの二人だけ?
比内の浅利氏、雄勝の小野寺氏らも鎌倉期は代官を置き本領は別にあり、本当の意味で土着したのは南北朝頃。
由利十二頭も治安悪化からの派遣から。
そう言えば確かに。
手勢を率いたこれら武将を支えたのは出羽の土豪(国人)だろうが、率いた側に出羽出身者はほぼ見えず、最終的には安東vs南部の勢力抗争に巻き込まれた様にも見える。
とても、出羽を守ろうとした様には見えないので「草狩場」か。
いずれにしても、史料は乏しい。
散見される物を片っ端から紐解かねば、真相は見えないのは解って戴けたかと。


さて、本題。
「秋田「安東氏」研究ノート」においては、安東氏の歴史についての研究途中の内容を記載しているので、当然、北海道も登場する。勿論、蠣崎氏もだ。
そんな中、幾つか安東宗家が訪道したり、出陣し北海道の治安回復をした件の記載がある。
え?と思う方もいるかも知れないが、昭和初期辺りに書かれた史書上、中世は安東氏時代と銘打たれる。
江戸期が松前氏時代だ。
見て戴ければ解るが、松前=蠣崎氏の大殿は安東宗家つまり十三湊→檜山安東氏になる。
なので、安東氏研究側からの視点でどう見えるのか?
少々時系列に並べてみたい。


久保田藩士湊家文書「古き手紙の写」より
「応永の頃、康季、鹿季とて兄弟あり、其頃、北海(松前)の夷狄、大動乱し官物を掠めて止まず、この時関東諸国兵乱あって誰人も、これを防ぐ人無し、よって康季および鹿季兵を率い夷賊を誅し大いに功があった。康季は、津軽十三の湊に居住す、それ以後、出羽檜山の城に移る(伝えていわく、津軽相浦=深浦=と檜山は、合浦の内なりと言う)鹿季は英田郡小鹿湊城に住す。鹿季は、大力強弓也と言伝えたり、秋田城介実季いわく、其の矢五十本湊城にありたり、我幼稚の時、これを見る、箆(へら、の、と訓じ、この場合は矢竹、矢柄をいう)は竹笛程、根は鑿(のみ)より大也、天正十七年(一五八九)の兵乱に焼失云々」

「秋田「安東氏」研究ノート」 渋谷鉄五郎 無明舎出版 1988.4.1 より引用…

同書では、この文書では康季と鹿季は兄弟となっているが、鹿季は康季の父と兄弟が通説と正している。
応永年間は1394~1428年迄。
一応、鹿季が秋田に入り、康季の十三湊が隆盛し日ノ本将軍と呼ばれ、南部氏と抗争を始めた辺りとは合致する。
この件は、新羅之記録には無いのでは?
天正十七年の兵乱とは、「湊騒動」の事であろうといているので、当然織豊期~江戸期に安東実季公から家臣団の湊氏が直接聞いていた事を書き留めた物を写しにした事になる。
勿論、このまま鵜呑みにする事は出来ない。
但し、安東実季公はは「秋田家文書」の家系図編纂には並々ならぬ努力をしたのは知られた話。
幼くして父愛季公と死別したので重臣,古老,寺社住職らに片っ端からインタビューしてる様は、日ノ本将軍康季や自分が寄進した羽賀寺住職とのやり取り書状等で残している。ここは考慮せねばなるまい。


②安東政季の脱出
「享徳三年(一四五四)八月、渡島松前に脱出したあと、津軽の祖地を奪還しようと機をうかがっえいた政季のもとに、欣喜雀躍する使がきた。康正二年(一四五六)、秋田湊安東家三代目惟季からの招きである。」

「秋田「安東氏」研究ノート」 渋谷鉄五郎 無明舎出版 1988.4.1 より引用…

そう言えば、以前、北海道の文献で「安東政季は蝦夷に恐れをなし逃げ出した」と言う記述を見た事があり、吹き出した事がある。それは目的と手段の違いを知らぬ「井の中の蛙」だからた。
前項に少しだけ触れたが、安東政季の秋田入りしてから行動は、湊安東氏と不和になろうが「藤崎、そして津軽の奪還」、これしかやってはいない。
安定した拠点作りすら息子である忠季に任せ、ひたすら津軽への執念を見せる。
つまり島渡りは、生き延び、力を付け、旧領奪還する手段でしかなく、渡島の事を考える余裕なぞ微塵もない。
と、この部分の後方に「武田信広」が帯同した旨記載はある。


③下国恒季討伐
「檜山一世忠季は葛西氏勢力を完全に駆逐し、河北千町歩を領し霧山に堀内城を築き、次いで檜山城を完成し安東宗家の確立を果たした。蝦夷地の管理を委任した一族の定季が没し、その子恒季が継承したが、恒季は暴戻にして罪のない者を誅戮する事が多かった。たび重なる粗暴に堪えかねた家臣らは、このことを宗家である檜山家に訴えた。忠季はこの訴えに対し、明応五年(一四九六)十一月討手を差向け恒季を誅伐し、一族の相原季胤に松前守護職を預けた。」

「秋田「安東氏」研究ノート」 渋谷鉄五郎 無明舎出版 1988.4.1 より引用…

はい、1496年迄飛びました。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/152153
同書には、コシャマインの乱なぞ記載されていない。故に、武田信広冒険奇譚も記載は無い。
ここでは、檜山へ向かう直前に、守護職を委任した下国定季の死とその息子恒季討伐がポイントか。
家臣団の要請で討伐隊派遣し、治安回復を行い、新たな守護職を任命している。
この辺は支配者として行動している証左となろう。.


④蠣崎氏地位確立
「永正九年(一五一二)四月、アイヌが大挙して蜂起じ、また渡島南方地域に散在する「十二館主」らの覇権争い、これらにからみ大争乱となり、松前守護職を委任した相原季胤をはじめ安東氏士族から多くの戦没者を出した。このような状況にあってひとり蠣崎光広は謀略・戦略をもった渡島随一の豪雄に台頭した。尋季はこの争乱鎮圧のため、翌十年六月に松前に出陣し蠣崎光広を幕下とし争乱者の討伐を指揮した。永正十一年(一五一四)蠣崎光広、子の義広を檜山に遺し本拠を上の国から松前に移したい旨を述べさせた。尋季これを承認し、また蝦夷守護職の代官を命じ、かつ蠣崎氏の準一門待遇とした。また渡島における商船・客船の運上の過半を蠣崎氏は檜山屋形に献上することを明確にし、主従の掟を確固不伐とした。かくして蠣崎氏は、実質的な蝦夷地の支配者に成長した。」

「秋田「安東氏」研究ノート」 渋谷鉄五郎 無明舎出版 1988.4.1 より引用…

ここに来て「コシャマインの乱」に似た内容が出て来ているが、年代が約50年ズレており、同一内容だとは言えない。
むしろ重要なのははっきり「道内での覇権争い」が絡んでいた事だろう。その中で蠣崎氏が生き残り台頭するきっかけになったと言う事が最重要。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
それは、新北海道史でも指摘されている事。
また、ここでは、蠣崎氏は守護職の「代官に過ぎない」事、関銭の半分以上は上納、準一門待遇にした事が記載される。
武家は序列制度が厳しく、「一門」「一家」「一族」等に序列がはっきり決められ、出来る役職も自ずと変わる。
これは江戸期でも続いている。
準一門とすれば、極近い身内の次の序列。
逆にそれまでは、そんな序列にはなかった事になる。
これは当然実力もそうたが、婚姻関係らで宗家直系の身内に近付かねば難しいのではないだろうか。
逆に考えれば、完全に安東氏の枠の中に入り、その中の序列を上げる為の行動を重ねてきたと言えるのではないか?
そうでなければ、準一門として傘下に収まる意味が無い。


⑤東公島渡り
さて、東公(安東舜季)の島渡り。
一応、領内巡見的な話で言われてはいるのだが、筆者的にはずっと引っ掛かりがあるのだ。
何故なら、南部氏その他の脅威が冷めやらぬ中、巡見をやる必要があるのか?
大体、支配地を動けばとって変わろうとする時代だ。
そこで参考として、その時に行われたと言う「新羅之記録」にある「夷狄商船往還法度」の内容を少し考えてみよう。
安東舜季の「立ち会い」の元で蠣崎季広と
東の大酋長「東夷尹」チコモタイン&西の大酋長「西夷尹」ハシタインと講和した内容になる。
大酋長達は講和後に、
「神のように素晴らしい友」と蠣崎季広を称えたと新羅之記録に誇らしげに書いているが、その実は蠣崎季広にとってなかなか屈辱的なのだ。
a.
本州のの商人との交易で、蠣崎季広が徴収した関銭の一部を大酋長二人にも支払う事。
つまり税金徴収権の分配とも見える。
b.
知内から天河以北,以東を蝦夷地と蠣崎側の人々の出入りを制限する。
但し、大館のある上ノ国(後の松前)と天河は蠣崎氏の支配地だが、蝦夷衆の出入りは自由(これがなければ蝦夷衆は商売に入れなくなり蠣崎氏も儲けが無くなる)。
これは、支配地域の設定と同時に、蠣崎氏支配地域での商業権を付与した様にも見える。
c.
知内と天河の沖を船が通過する際は、帆を下げて一礼する事。
これは瀬戸内海賊との類似性が指摘されており、蠣崎支配地域沿岸での蝦夷衆による海賊行為(関銭支払いの対価として、商船の安全保障を行う)を認めたとの説あり。
d.
「西夷尹」ハシタインの上国への移住。
蠣崎季広はこれを一番嫌ったらしいが、現実的に勝山館周辺で所謂和人と蝦夷衆の混成墓地らの存在が発掘で検出されている。
ハシタインの悲願だったらしく、安東舜季の御前で蠣崎季広は飲まざる終えなかった事になる。
e.
関銭の半分は安東宗家へ上納する。
あまり語られていないが、大殿への上納が無いハズもなく。④で設定された上納比率の再確認をされている。
後の安東氏と蠣崎氏の関係を物語るのがこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/30/170600
安東愛季→安東舜季の息子
蠣崎(松前)慶広→蠣崎季広の息子
である。
蠣崎季広は結構気を使い、安東愛季重臣である大高氏へ書状を送り、慶広の行く末を案じた事は概報。
安東愛季も蠣崎慶広を可愛がり、比内攻めや鹿角攻略戦らには愛季の命により参陣しているのも記録に残る。
これを一番最初に見た時の筆者の感想は…
「これ、蠣崎氏の反乱討伐じゃないか?」だ。
それ以前に蠣崎氏は季広の先代光広,義広迄に、その知略謀略で道内代官としての頂点に上り詰めたのは、新北海道史にも記述される。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
前項の様に、安東宗家は南部との抗争や湊氏との関係で動ける状態ではない。
仮にも額面上で「檜山,湊統一」を果たし、動ける状態になり万を期して出陣…この後、道内の混乱は終息したのは言うまでも無し。
東北の宗家の状態を知れば、ド素人的にはそう見えるが。


以上の通り。
これらもまた、東北の動乱らと少しずつ接続していきたいと思う。
中世はまだまだ学び始め。
少しずつ、且つ確実に…




参考文献:

「秋田「安東氏」研究ノート」 渋谷鉄五郎 無明舎出版 1988.4.1

「新北海道史第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.31