この時点での公式見解-28…「旭川市教育委員会のスタンス」と、旧「旭川市史」に記された「ムックリ,琴は本道アイノの文化に非ず」との関係

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/145700
一応ここを前項として、その流れで追ってみたい。
本項は、政治色が強めなのを先に記す。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/151154
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
と、言うのも、我々グループが元々歴史の再勉強に至ったのは、「アイヌ推進法」に付随した内容に疑問を持ったから。
今回は、教育行政に絡めて報告したい。


https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1441719570096484359?s=19
たまたま流れてきたSNSではあるが、砂澤陣氏と旭川市教育委員会とのやり取りの話である。
トンコリ(琴の類)はアイヌの伝統楽器ではない」と言う指摘に対し、旭川市教育委員会は「現代アイヌの新しい取り組み」との見解を示した…とある。
つまり、「その施策は、「伝統文化継承」事業ではなく「新規の文化創生」だ」と答えたと言うもの。
砂澤陣氏は、彫刻家「砂澤ビッキ」氏の息子さんで「北海道が危ない」と言う著作があり、同書にも「トンコリアイヌ伝統楽器ではない」と指摘されている。
さて、ではその実はどうで、何故旭川市教育委員会は上記の様に答えざるを得なかったか?


実は、筆者はたまたまなのだが、「旭川市史」を発注していた。
現在平成に入り「新旭川市史」として発行されているが、ある目論見があり敢えて古い物を古書として入手した。
奇しくも、SNSを確認した当日に届き開いたところ、それに対する答えが記載されていたので早速引用してみよう。

第二編「先住民族」第三章「アイヌ族」第十六節「遊戯・舞踏・娯楽」より。

「女性は中々の美音で謳うことを好み、小学校でも唱歌に対しては興味を持ち成績もよいという。けれども楽器らしいものはほとんどなく、わずかにムックリと琴がある。ムックリは和人のビヤポンに似て一種の口琵琶である。長さ十二、三㌢の竹で造り、中央にうすい舌があって、その根もとに糸をつけ、唇の間におしあて、息を吹き出すとともに、糸をひいて舌を振動させて鳴らす、琴は台を木で造り、箱の胴をつけ、二すじ三すじの糸をはる。もと樺太アイヌの使用したもので、本道では石狩のツイシカリ(対雁)に樺太より移ったアイヌの伝えたものが広まる。」

旭川市史 第一巻」 旭川市史編纂委員会 昭和34.4.10 より引用…

明治8年の樺太千島交換条約で、樺太から江別市の対雁への移住した話はご存知の方も多いだろう。手元に関連した文献が無いので、この詳細は敢えてここでは触れないでおく。

少なくとも昭和34年版では、旭川市教育委員会の認識,公式見解は、

・「ムックリも琴も、上川どころか本道に残された民俗楽器ではない」
樺太→対雁の移住段階で「樺太の伝統楽器が本道に伝わったもの」

であり、それをその時点での市史に記載し把握していたと言う事になる。
市史に記されその実を知っているので、「現代アイヌの新しい取り組み」と答えざるをえない。
そう、『ムックリトンコリ含めた琴の類も本道アイノ文化のものではなく、明治に樺太から伝わったもの』…これが真実の様で、砂澤氏の指摘が正しい事になる。
つまりこの施策は文化伝承の為ではなく教育委員会主導で「樺太アイノの伝承を取り入れた全く新たな「文化創生」」を行うと言う事なのだろう。

ここが本州であれば…
基本的に地域文化伝承の伝統芸能や祭らは、概ね「有志による実行委員会」がやっている。
別に行政主導でやっている訳ではない。
「竿燈」も「ねぶた」も「剣舞」も「獅子踊り」もそうだろう。
地元民の意志で進めている。
あくまでも行政はバックアップのみ。
費用が掛かる文化伝承でこれなので、新たに創生しようとする舞踏らなどと言えば、当然有志団体から。
お上の出る幕ではない。
あまりの認識の違いに驚愕,笑うしかない。

そして、これは現在「政府広報」らで説明されるアイヌ文化でもムックリを使った場合は「誤り」だと言う事。
本道アイノにムックリが無い以上、「樺太アイノの伝統楽器である」と注釈を入れねばならぬのだ。
ここで既に各地の文化をごちゃ混ぜにして広報している事実が浮上する。
大体、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/065746
本道アイノがムックリを作ろうとすれば江戸後期まで待たねばならない。
本道には「竹がないから」だ。

何故こんな事が起きるのか?
では、何故そんな事が起こるのか?
ざっとではあるが、入口のみ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/01/223305
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/23/193547
アイノ文化が一般に知られる様になったのは、国内の「赤蝦夷風説孝」ら蝦夷衆を描いた古書と言うよりはむしろ、イザベラ・バードやジョン・バチェラーら海外で注目され研究する人が増えた事も一因する。
そのアイノ側のキーマンが平取の長「ベンリクウ」だろう。
何せ、海外の人々は彼の元を訪ね、聞き取り調査したのが始まりだろう。
イザベラ・バードがベンリクウの元を訪れたのは概ね明治9年。その辺がスタートライン。
その後は?
こんな話がある。

「国の特別天然記念物となっているマリモはいうまでもなく、阿寒湖、屈斜路湖摩周湖と今も噴煙をあげる雌阿寒岳など火山性の景観、温泉、深い森などが観光客を引きつけている。これら自然の魅力ある要素に加え、アイヌ文化もまた阿寒観光に大きな役割を果たしている。昭和10年代には、展覧会や出発前物をとおして観光宣伝とともにアイヌ文化が紹介されてきたことは明らかであり、観光ポスターにアイヌ風俗が描かれることも多い。元来、阿寒湖畔地区には今のような大きな集落はなかったが、観光が盛んになるにつれ、工芸品販売や写真、歌や踊りなどアイヌ文化への需要が増え、人口も増えるに至った。」

「明治・大正期 から「アイヌ風俗」の見 られる地として紹介 されてきた旭川(近文地区)や白老より遅く、昭和に入ってから急激に観光 地として脚光を浴びた阿寒は、湖畔地区だけでも今なお年間150万人の入り込みがある人気の場所である。それだけに、阿寒でアイヌ文化に触れ、理解を深めたいと考える旅行者は少なくないと思われ[ペウレ・ウタリの会 1998]、アイヌ文化を普及するためのさまざまな新しい試みも始められている。」

「阿寒観光とアイヌ文化の関する研究ノート -昭和40年代までの阿寒紹介記事を中心に-」 斎藤玲子 『北海道立北方民族博物館研究紀要第8号』 1999.3.31 より引用…

ベンリクウを起点にバチェラーら外国人が絡み、旭川,白老へ…ここまでが明治,大正。
そして阿寒観光へ展開して大規模化したのが昭和初期。
上記の通り、樺太の伝統楽器は旭川(近文地区)らに取り込まれ「観光アイヌ」として後に阿寒観光にパッケージされ爆発的に拡散させる様は想像に易しいであろう。
複数に分かれていた文化を「単一」のものとして見せる為には「インフルエンサー」が必要。
伝統文化の継承ではなく、この「観光アイヌ」がインフルエンサーの役割をすれば、既にこの段階で混ざり物になっているので、それまでの各研究者の学術的調査と解離しつつ、単一の物として拡散可能な訳だ。
勿論、これらには裏付けが必要。
現象はまず真実を探る上での入口としておこう。
が、江戸期からの同化政策から無くなりつつあった元々の素朴な複数あった文化,風習を、単一の物と書き換えて伝播させるには十分な時間がある。
上記の様に、教育委員会主導で「新たな文化創生」を行っているなれば、観光の為に「産学官」共同で文化をごちゃ混ぜにしたと疑われても返す言葉も無いだろう。
恐らく砂澤氏の旭川市教育委員会とのやり取りは、そんな断片を示すものなのでは無いのか?
とりあえず、邪推はここまで。
学ぶ内にまた断片は出て来るであろう。
その時は別途報告とする。


さて、ここまでは解った。
で、あれば、現在発行される「新旭川市史」では、この事実はどう捉えられているのか?
実は、秋田県立図書館にはその「新旭川市史」があり、ざっと流し読みしたが…
無い…
旭川市史」が「新旭川市史」に書き換えが行われた段階で、この第二編「先住民族」第三章「アイヌ族」…この一帯は消去され、新たに松浦武四郎近藤重蔵による調査での上川アイノの状況を説明した内容等に書き換えられた様だ。
旧版には「シロシの分布による乙名らの血統」やその移動経路らが記載される。
これは今、論文らを検索しても中々ヒットしない。ある意味それだけ貴重な記事だと言える。
だが、それら上川アイノの形成過程に対する記載と風習らの記載丸ごと項目ごと無くなっている。
これは、事実に基づくアップデートだと言えばそれまでだが、地方史書に求められる「地域住民がどの様に集ってきたのか?」が削除されている訳なのでどうなんだ?と疑問を持たざるを得ない。
新版では、あたかも「一つのもの」の様に取り扱いされているからだ。


で、上記でお気付きだろうか?
旧版
先住民族(コロポックル伝説や縄文,擦文ら全て含む)→アイヌ
新版
アイヌ民族
こうなっている。
まぁこれ以上、説明の必要は無いであろう。
もっとも、旧版が正しい訳ではない。
せっかく上川アイノの文化形成過程の話なのに、いきなり樺太や千島に飛んだりするのは一ヶ所や二ヶ所ではない。
これら「読み手を勘違いさせる」内容は、旧版新版共に存在する、と考えれば良いのではないであろうか?

教育委員会発行…これがミソなのだ。
大学や研究機関、学者ら個人が発行したものではなく、教育委員会発行…
これが公立学校の地域史や地学教育の基本であり、ここから展開されていく訳なので。
教育委員会はそれぞれ、国や自治体からの独立性(額面上は)が保証される公的機関。
実質は別だが。
それぞれの年代の方々は、これらをベースに教育されてきており、それを知識として身に付けている…と言う事になる。

一応、書いて置く。
旧版発行の責任者 前野旧旭川市長の序文の一部である。
旧版は編纂委員会が着手してから僅か三年で刊行出来た事を喜んでいる。
その上で、

「これというのも、道内各専門家、特に高倉新一郎・知里真志保・名取武光・河野広道諸先生の指導と編集顧問・市議会議員を始め、古老・市民関係各位の協力、編纂委員諸氏の努力によるものである。今これが刊行にあたり、これら各位深甚の感謝を捧げる。」

旭川市史 第一巻」 旭川市史編纂委員会 昭和34.4.10 より引用…

との事で、北海道史を作ってきた諸博士らの指導で編纂されたものだ。
古い文献、あれこれ載っている。
本項の「ムックリ,琴は本道アイノの文化に非ず」もその一つに過ぎない。
否定されたもの、取り上げらくなったもの、見過ごされているものは幾つもある。
それら紆余曲折も把握した上で語ろうではないか。
もう少し、この旭川市史からは深堀したいと考えている。
続報はまた別項で。


ところで…
旭川市史」「新旭川市史」は、上記諸博士の指導とは言え、独立した教育行政機関が発行している文献。
あくまでも旭川市民の為編纂されたもの。
この辺の史観で学んでこられたのも旭川の方々。
変遷や発行に対する費用を承認したのも旭川市議会。
これをどう捉えるかは旭川の方々次第。
我々は学びの教材としているだけで、「どうするか?」等、そこに土足で踏み込む事は無い。
それは、旭川市民の考えるべき事だ。




参考文献:

旭川市史 第一巻」 旭川市史編纂委員会 昭和34.4.10

新旭川市史 第一巻 通史一」 旭川市史編集会議 平成6(1994).6.15

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.31


「阿寒観光とアイヌ文化の関する研究ノート -昭和40年代までの阿寒紹介記事を中心に-」 斎藤玲子 『北海道立北方民族博物館研究紀要第8号』 1999.3.31


「北海道が危ない!」 砂澤陣 (株)育鵬社/(株)扶桑社 2016.9.13