この時点での公式見解-30…旧「旭川市史」に記された北海道の教育創成記の実態 ※写真追加

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
さて、前項に続けていこう。
ここまでくれば「教育史」についても触れない訳にはいくまい。
何故なら「史観」を決定付けるのは「教育」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
よく言われる「文字を習い、和語を話す事を禁じた」…これは松前藩が発布した訳ではなく、場所請負人に丸投げ・追認なのは報告済み。
旧「旭川市史」にもそれはあちこち記載ある。つまり、この時点で既に「松前藩のせいだと言う既成概念」によるものとも言える。
そんな既成概念は破壊するが、我々の目的の一つ。

キーポイントを明示しよう。
前項にあったこれ。

「近文部落でも、明治末期より彫刻手芸品として盆・杖・手掛かけ・糸巻・ムツクリ・花瓶敷アツシ等、ささやかな土産物を副業的に作られていたが、これを奨励し、これを有利ならしめるために、大正六年より特別会計土人保護費に金一千円を計上して全製品を一まず区です購入し、統制を取ってこれを売るの方法を取り、生産の増加をはかってやや良好の結果を見る。」

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

これを踏まえていこう。
これがアイノ文化を持つ人々への教育史。

「前略~北地開発の大方針が定まるや、東京の開拓使学校に旧土人百名を送るべく計画し、(筆者註:明治)五年四月、アイヌの男女ニ十七名を東京芝の増上寺境内清光院に収容し、小壮者男十三名、女五名を開拓使学校に通って読書・習字・算術を教え、その他は渋谷・青山両官園で農業・技芸・牧畜等を習わせたが~中略~とにかくアイヌに対する最初の組織的教育であった。」

アイヌ教化の大方針を体した大判官岩村通俊は、明治五年、庁員の高畑利宣を上川探検にやるや、上川アイヌの子弟教育のため、その十四、五名を伴って来ることを命ずる。~中略~父兄の承諾を得てアイヌの男子十五名を同行し、あらかじめ設けられていた寺子屋風の学校に入れ、加州の儒者逸見某にまかせたが、三、四ヶ月の間に面会に来た父兄が、夜、ひそかに連れ出し、まもなくただ、二人になる。」


旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

この、東京へ学びに行った姿は、写真が残されている。
要は、アイノによる先輩,教師を育て、そんな人々に後輩を教育させようとした様だ。
上記、全道から集められた人々も、旭川での教育も帰郷し失敗。
因みに、それらは父兄への承諾&帰郷許可申請にはそれを許したとあり、強制ではない。
ここがスタート。
一つキーポイントに触れた。
職業訓練を受けた者が居た。


さて、次段階…

「明治八年、千島樺太の交換の時、亜庭湾一帯の樺太アイヌ八百余人が石狩のツイカシリ(対雁)に移住、十年十一月、教育所を設けて児童三十四名を収容。設立当時は移民のアイヌの出資であったが、二ヶ月で開拓使学務局の直かつとならり、十一年一月盛大な開校式をあげる。これがアイヌ学校の始めで、白瀬大尉の南極探検に加わった山辺安之助はその出身である。ついで十三年に日高の比良と胆振の有珠にアイヌのための小学校が設けられ、ともに児童ニ十余名。その他各地に散在しているアイヌ子弟はその地の普通学校に入学をすすめ、和人と共学するものも次第に増してくる。十六年三月十三日、明治天皇よりアイヌ教育資金として金一千円下賜され、三県(札幌・函館・根室)のアイヌの人口に比例分配して、六月、聖旨のほどをアイヌ一般に告論する。」

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

なんと、明治天皇までお気に止めていたか…
画して、対雁を皮切りに平取,有珠に、そして共学の方向へ舵を切り出した。
※これが「明治大正期北海道写真集」にある対雁の学校の姿である。
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確か、平取らのアイノ学校には、バチェラーらが絡んでいた様な…
第二段階で、地元に学校が出来てきた様が解る。

では、第三段階…

「三十ニ年三月、旧土人保護法が出て、国費で小学校を設け、アイヌの貧困な子弟にはがくひまで給与して就学を奨励する。けれどもアイヌの多くは就学の必要なことを解せず、就学率も出席率も悪く、成績また不良で、和人児童と分離して教育するを得策と考えるようになり、三十四年以降、土人学校を毎年三校ずつ、七ヵ年でニ十一校新設するの計画を立て~中略~四十四年には総数ニ十一校ニ十達する。」

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

実はこれに先立ち、学校新設に伴い、庁令で教育規定を定め、改定しながら進めているが、大正五年生段階で
①就学期は七歳
②修学は四ヵ年、特別な理由が有れば六年
③状況により授業時間の減縮可
④修学六ヵ年に於いても歴史・地理・理科を省き、代わりに実業科(四ヵ年者もこの科あり)を課す事が可能
⑤アイノの現状に合わせ、生活安定を目的とする…
この様に、状況や学力差が出てしまったので、如何に安定した生活が出来るか?へ舵を切り直した事になる。
実は、以前からSNS上でお世話になっている、Tokyoumare02シ・シャモちゃん様から、吉田巌著「日新随筆」と言う文献の話を聞いている。下記通り。
https://twitter.com/tokyoumare02/status/1415929562479820801?s=19
https://twitter.com/tokyoumare02/status/1442751852190203905?s=19
旭川市史の上記引用と合致し、修学期間の調整や時間の減縮、何より実業科設定により、如何に安定し暮らせか?を重視して居たのか納得頂けよう。
当時は本州でも子供が労働力として使われていたのは言うまでもない事実。
実際、識字率が一時低下していたかと思う。寺子屋の様に行ける時に行く…こんなスタンスが取れなくなったのが事実だ。
そんな中、単なる学力だけで判断せず実業科で手に職をつけさせる…つまり、職業選択と言う自由度が出てくる。
紹介戴いた「日新随筆」には、共学で薄れた「アイノ語教育」や「アイノ文化教育」の痕跡さえ見受けられる。
無理やり同化させた…これは誤りと言えるだろう。
むしろ当時の教師達は、手に職を付ける事で「誰でも働きさえすれば飯を食っていける」素地、自由に生きる翼を与えたとも言えるかも知れない。
当然だ。
貧困が起きる→治安悪化らに直結する。
政治的判断としても、教育的判断としても、妥当だったと考えても良いのでは?
これが「感情論」ではない「記録による教育史」の断片だ。

この結果どうなったのか?
第四段階…

「しかしその教育効果もあがりアイヌ族の一般の生活も向上して、ようやく特殊教育の必要を認めなくなり、十一年度になってこの規定も廃止、次第に学校も廃ぜられ一般和人学校で共学するようになる。」

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

明治から進められたアイノに対する特殊教育は大正十一年にその使命を終える。
明治33年のアイノ就学率は45.9%、大正5年で96.6%、昭和4年で99.2%に達する。
出席率、学業成績共に一般に劣るが図画・書方や音楽では得意な者が多く、これが実業科設定の賜物だろう。
何より生活環境が最大の差。
裕福な家庭の子供ではあまり学業成績に差が出なかったとある。
結局、学業習得は必ず経済と連動する。
上記を見れば納得だろう。
怠惰ではなく、安定した生活を送れる様になれば、必然的に子供の成績が上げられた時代。
ある意味現代とそんな差はない。

Tokyoumare02シ・シャモちゃん様に改めて感謝しつつ、こう締めようと思う。

上記の様に、史実のみ並べれば、教育が進まなかった最大の理由は、人としての属性の違いではない。
「貧困」だ。
安定収入で生活基盤が出来上がるかどうかが、差だったのではないか?
そんな断片も見える事を忘れてはいけない。

※対雁の学校写真追加


参考文献:

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

「明治大正期北海道写真集」 北海道大学付属図書館 1992.3.38