この時点での公式見解-32…何故こんなアイノ史観になる?、史書を比べてみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/29/202212
さて、更に旧「旭川市史」を中心に掘り下げたい。
何回も書いているが、平安頃の「擦文文化」と江戸中期辺りでの「アイノ文化」は、その文化継続性が断絶している。
これは各文献,論文でも共通の課題。
「アイノ文化」が中世以降生まれたと言うのは、全くの仮説。
この「文化断絶」=ミッシングリンクが、どうやったら繋がるのか?…これをテーマとして各研究が行われているのが実情。
中世にはアイノ文化が萌芽すると言っている研究者も、現実的に物証を求められれば、はっきり断言出来る者は居ない。

さてでは、その辺が史書上、どう扱われているか?知りたくはないか?
では比較してみようではないか。
その辺の変遷が掴めれば、何故こんなアイノ文化史観が形成されたかが解ろうものだ。


まずは「新北海道史」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/30/194418
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428

紹介済み。
近世アイノ文化に北方系文化との共通点が見える事から、
①縄文からの原始道民
②オホーツクら北方系文化を吸収
③本州人が明確に入った記録は鎌倉期の流刑
④「諏訪大明神画詞」を唯一の根拠に、③が渡党であり、②以外での担い手が居ないので、②がアイノ文化の元である…
かなり荒業ではあるが、割とこれが主流だろう。
もっとも、これが主流故に、ミッシングリンクが生まれてしまう訳。
これなら、本州人より先住性を持ち得る。
だが、従来より言っているように…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/02/205112
諏訪大明神画詞」のその部分がこれ、更に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
新旧の考古学的見地から見れば、アイノ文化以前に、擦文文化誕生段階で本州人の影響が無ければ成立しない為に、アッサリ論破されてしまう。
現状は成立出来ていない論である。


では、旧「旭川市史」ではどうなのか?
これは新北海道史より発行が古い。
先住民は
・コロボックル伝説(否定され伝説として)
縄文文化
・前,後北式文化(続縄文)
・擦文文化
の後にアイノ文化へ…

「学者によっては、アイヌはもと島国日本の全土にひろがっていたというが、それ措くとして、奥羽より関東地方まではびこり、源義家の征した安倍氏、続いて清原氏、三代の栄華を誇った平泉藤原氏は皆アイヌ族であり、国史でいう蝦夷は今のアイヌ族であるという説はかなり有力で、少なくとも奥羽の北部にいたことは事実である。そのころの戸口はもとより不明であるが、和人の北進に押されて今は北海道のそれも多くは僻地に退き、純粋のアイヌ族は次第に衰滅に向かっていることは誰しも認めるところである。」

「このアイヌ族が後退に後退を続けてついに今日の衰亡の道をたどったのには、いうまでもなく大和族の大社会、国家の力に抗しかねたからであるが、また一つには大社会建設への努力が足らず、この村落的小社会に満足していた退嬰的気質のためでもある。アイヌ族のある者は早くより北海道にいたが、その東北アイヌ(蝦夷)の大部分が渡道したのは、平泉藤原氏の滅亡後である。このアイヌ渡道の時には和人もつづいて渡ったが、何れも渡島・胆振・後志方面のいわゆる口蝦夷に落付いたので、奧蝦夷は依然アイヌのみであった。統治上奥羽の安東氏が蝦夷管領となったが口蝦夷管領にとどまり、奧蝦夷アイヌは何人の支配をも受けはしなかった。和人との雑居地帯には時に紛乱も起ったが、奧蝦夷は平和郷であった。」

旭川市史」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10 より引用…

来ました、「「蝦夷」を「アイヌ」と翻訳した説」!
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507
この説が坪井博士に「一刀両断」された話。
「都人にすらその実力を認めさせた者達と文字すら知らぬ者達を一緒にするな」…と、言う主張。
何より、この説でも、擦文文化の形成過程は全く説明が不能
何故なら、朝廷に追われ北上して逃れたら東北は空っぽになる。
多くの東北人の祖先である「俘囚」と言われた人々の存在を無視する事になってしまう。
何より、旭川には「神居古潭」と言う立派な擦文遺跡があり、「刀鍔」「須恵器片」が出土しており、秋田城や後の安東氏らとのコンタクト痕跡が残るのだが?
この遺物についても一覧として記載ある。
単純に「蝦夷」を「アイノ」と変換してはいけない。
大体、奈良,平安期の都では「渡島」と記載がある。ダイレクトに「蝦夷」なぞと呼ばれてはいない。
これでも、ミッシングリンクの説明は不能なのだ。
同時に小社会と大社会の差…これは、安倍氏清原氏奥州藤原氏段階で大社会化の方向に動いているので、これも成り立ちはしない。
それぞれ成立しない。
これを信じ、阿弖流為らをアイノであるなぞと言う「言語系学者」がいる。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1199602129289150464?s=19
だからこんな事を書かれる…「東北には北海道系住民の「ムラ」は無い」。
考古学的に擦文文化形成に「陸奥蝦夷(エミシ)の移住」は深く関与するが、「蝦夷」と言う単語だけでごちゃ混ぜには出来ない。
言葉遊びは止めるべき。


では新旭川市史ではどうだろう?

「擦文文化は、おおよそ十三世紀ころ終わりを告げる。この幕引きは、土器に取って替わって本州からもたらされた鉄鍋や木椀、陶磁器である。これらは土器と違っていずれも腐朽しやすいものが多いため、擦文文化以降は住居や集落の発見も困難で、近世までの暮らしの様子は、考古学的にはほとんど解明されていない。この十三世紀ころにおける変化は、たとえば奥州藤原氏征討に伴う東北北部の社会的動揺など、歴史的事件と開進してしばしば説明される。しかし、青森県での調査例などから、擦文土器と鉄鍋とはしばらくの共存期間を経て徐々に入れ替わったようであり、道南・道央と道東とでは擦文文化の終末に数百年の時間的な開きを想定する説もあって、この変化は急激なものではないようである。」

「前略~アイヌ文化期の社会は、物質文化のうえで再び変貌を遂げたけれども、上川では、文献から知るかぎり擦文時代同様石狩川流域に村落が展開し、鮭・鱒漁を主たるなりわいとするなど、擦文時代に完成された経済的基盤を引き継ぐものであった。このことは、アイヌ社会が、擦文社会が生み出した交易に適応する生産と流通を継承したことを意味しており、その点でアイヌ社会は、「続擦文社会」とでもいうべきめのであったのである。」

「上述のような起源・系統と同様に、アイヌの文化や社会に関しても、いまだ議論が定まらない問題である。~中略~北海道の先史時代も、先土器文化、縄文文化、続縄文文化、擦文文化(時期的にオホーツク文化を含む)と、それぞれの区分が設定されている。」

「前略~アイヌ文化は擦文文化を母体とする、とのほぼ共通化の理解に立ちながら、しかしながらなお、擦文文化の終了、アイヌ文化の成立という、擦文期とアイヌ期との区分時期が問われる。現在はその時期を、地域差を認めながら、土器の消滅と、それに替わる内耳鉄鍋(過渡期に内耳土鍋を経過)の導入等の考古学上の視点から、十四世紀前後に求める考え方が多くとられている。しかしその視点のほかに、和人の政治的・社会経済的動向を対応させつつ、アイヌの文化や社会あるいは民族の成立を求める考え方もあって、十三世紀から十五世紀(中には十七世紀)に至る間のいろいろな時点が提示されている。このようにアイヌ期の時期区分については、いまだ定説がみきだされていないといえよう。それはまた当然、アイヌの文化や社会のとらえ方にかかわる問題でもあろう。」

「現在我々が知りうる古い時代のアイヌの生活や社会や文化は、ほぼ日本の近世以降の事象である。アイヌは文字をもたなかったため、アイヌ自身の手になる記録は近世以前には皆無といってよい。したがってアイヌに関連する記録は、専ら和人によって記されたものである。~中略~アイヌの社会や文化が、その成立からこの近世に至る間、すなわち日本中世期において、どのような経過をたどって生成・展開してきたかは、把握に困難な問題である。~中略~中世におけるアイヌ史の空白は、歴史学の立場からいえば、その文献史料の乏しさに起因する。~中略~日本中世期に照応するアイヌ史は、諸方面の研究においても制約があり、現在明白にされるに至っていない。この期のアイヌ史の空白が、アイヌの社会・民族・文化等、特にその生成の解明を困難ならしめているといえよう。」

新旭川市史 第一巻通説一」 旭川市史編集会議 平成6,6.15 より引用…

と、言うわけだ。
引用中にある起源論とは、所謂「二重構造モデル論」で、原アジア人→縄文人→本土日本人・北海道人・沖縄人に分岐し、本土日本人に渡来系弥生人が混ざり、三系統に分岐していく埴原説を理由として、血統論を挟み説明している。
その上で、結論としては「現状はまだはっきり『解らない』」が実情としている。
で、この説、もっともらしいのだが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
この考古学での擦文文化形成過程には、全く触れてはいない。
一応、血統論と文化論は分けて書いてはいるが、続縄文以降の状況を加味出来ていない。本来なら、先史時代たる擦文文化期の形成に大きく関わる問題なのにだ。中世が空白なのには大きく同意。
というか、擦文→江戸中期まで熊送りらの文化が断絶している中で、近世から遡り古代へ繋げるのは難しい。
その間、それらを継続していたのは千島や樺太
これを加味しない訳にはいかない。


上記の通り。
古い順で並べれば…
旭川市史の「蝦夷アイヌ翻訳説」
新北海道史の「擦文→アイヌ説」
新旭川市史の「擦文→アイヌだが解らない説」…
こんな変節と言えよう。
何度も書くが、まだ「解らない」…これが定説。

恐らくこの矛盾を解消出来るのは…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/145700
これだけだはないか?

なんとなく、如何に北海道史が解っていないか?、矛盾に満ちているか?
解って戴けたかと思う。
これからなのだ。

さて…
何気に書いたが、気が付いてくれた方は居たであろうか?
旭川市史に登場した単語がある。
「口蝦夷」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743
ここに登場するのも「口蝦夷」。
上記から言えば、安東氏の影響を随分帯び、本州に近い人々のようだが…
「口蝦夷」はどこに消えたのか?
この辺は宿題か。



参考文献:

「新北海道史 第一巻通説一」 北海道 昭和45.4.31

旭川市史」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10

新旭川市史 第一巻通説一」 旭川市史編集会議 平成6,6.15