この時点での公式見解-35…新旧「旭川市史」にある石狩川の特異性とその背景にあった「北海道労働環境の変遷」への説明

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/01/112430
ここを前項としてみる。
今回は、新旧「旭川市史」を並べて読んでみて気付いた事例。
まさか二冊同時に引用しまくれば紙面が足りないので要約する。

さて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
関連項はこれ。
所謂和人のよるアイノ集団への弾圧…これは、史書らをよくよく読んで行けばその背景に「構造的欠陥」がある事を説明されている…と報告した。
実際「構造的欠陥」をしておきながらも、短絡的に「悪徳商人による収奪」と解説している訳だ。
と言う訳で、上記の様に新旧「旭川市史」を読んだ過程で見つけた事例を報告する。

項目的には「江戸期の上川アイノ集団と石狩川の特異性」。

江戸期の事…
松前一ヶ所から始まった蝦夷衆と松前藩の交易。
寛文九年蝦夷乱辺りから、この様相が変わる。家臣団への知行制実施。
警備必要性や家臣団への恩賞対応ら、その必然性が出てくるのは想像に優しい。
兵力増強すれば、自ずとそれなりの恩賞は要る。
それが、知行地に設置された「場所制」が生まれる原因であり、管理不能に陥った知行主に変わり商人に交易を任せる「場所請負制」に変わる事はほぼどの史書にも記載がある。

だが、石狩川流域が特異性を持っていた事が、新旧「旭川市史」に記載されていた。
この特異性とは?
石狩川は河口域が藩直轄地(元場所)、川上へ向かい知行地を展開した模様。
最悪、河口の元場所への交易をやっても、誰も文句はつけられない。
上川アイノの場合、場所請負らに変遷する過程で「出稼ぎ」が起こる記載がある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
ここにある様に、
各「場所」では、自分の場所への納品率を確保する為、他所とのアクセスを減らす為に和語を使わせない等のローカルルールが発生し、藩が追認せざる様になっていった事は報告済み。
だが、殿様直轄の河口の「元場所」への納品なら、知行主も請負人も文句は言えない訳だ。
上川アイノ集団は川を下りそれを行った様だ。
それは、上川への認識がまだ薄く、知行地展開が遅れた事も要因にはあり、途中をすっ飛ばし河口へ直接向かえる背景にもなるが。

ここで…
普通に交易なら割と労働の自由はあった様な事は新旧旭川市史にある。
納品量に見合う対価を得れば良いのだ。
貧しくとも、ムリに労働力を上げる選択をしなければ良いだけなのだから。

ただし、交易の拡大により、段々と知行主も後の請負人も要求は上がる。
これは当然だ。商業活動なのだから。

そして、アイノ集団側の欲求も上がって来て、対価も食料,衣服から高価な漆器,首飾りへと変遷したとの記載がある。
これも当然。
その象徴が昭和の戦後復興から高度成長期に掛けてだろう。
食うものが無い→食える様になる→3Cら家電,自動車を求める様になった…当然なのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/27/075543
南蛮人が見た蝦夷衆の姿を見れば明らか。
この集団が何処から来たのか?明確な物証は無い。
だが少なくとも、松前まで、越冬用の米や衣服らを買いにきていたのは間違いない。
それが違う物に変質していったのは、当然の事であろう。

故に、
請負人側→数量確保の為の納入数を約束させる…
アイノ集団側→高価,立派な物を準備させる…
契約数量を約束する下請け化していった様だ。
当然、高価な物が欲しければで、見合う対価が必要。
そこで鮭らの時期でない場合でもニシンらの出稼ぎを行う様になる。
石狩の海は砂浜でニシンの付きが悪いとなると、他の漁場へ。
上川アイノ集団では、この出稼ぎの話が古書記載に残る故に、このプロセスが解っている。
「元場所」があった石狩川の特異性があったからこそ記録が残るのだろう。
よって、労働力収集力のある酋長が幅を利かせ、下請けの元締めとして君臨出来ただろう。

が、ここで問題は起こってくる。
旺盛な約束量に対し、資源枯渇漁獲高らは減っていく。
それを確保出来る程、漁獲が得られなければ、自ずと負債が増えて出稼ぎも過酷になる。
請負人は約束量確保の為、約束をした酋長が他の場所へ卸さぬ様に制御して当然だし、請負場所の拡大をせねば、自分が本州で契約不履行を起こす。
更に求人募集…下請け化から、企業化へ。
企業化する様は、近藤重蔵松浦武四郎らの古書も根拠にしている模様。
請負人も、運上金やら租税を全て被るので、それなりにやりくりしないとやっていけないのは言うまでもなく。
直接、人を雇い入れる為に、和話が出来て能力のある人物を採用する…
つまり、後の同時期の同化政策と重なりのしあがった「新シヤモの登場,台頭」の背景としては、こんな企業化が進んだ影響は考えられる。

当然ながらブラック企業に当たれば、過酷な労働条件になる。
まぁ取り締まる施政者側からすれば、運上金が上がれば良いので黙認…これが松前時代迄。
幕府直轄や東北諸藩の経営では、交換レートや労働対価の設定…つまり「労働基準法」を設定したとでも考えておけば、それなりに納得ではないだろうか。


上記の様に、いきなり何の脈絡もなく、一方的にブラックになった訳じゃないだろう。
労働環境的視点なら、
①旺盛な需要対応…
②労働者側の嗜好変化(食料→贅沢品)…
③労働者確保の為の「下請け化」…
④枯渇する資源…
⑤出荷量確保の為の「企業化」とブラック経営者登場…
⑥新シヤモ登場
こんな背景も考慮する必要はあるかと。

これに時間軸を当て嵌めてみよう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
場所,場所請負制が始まる時期ははっきり特定されてはいない。
①は松前藩成立より後になる。
宗谷,厚岸場所らが開設された時期は解っているが、それは藩主直轄。
石狩場所は記載ないが相前後するのは予想されている。
むしろ、場所制の痕跡が出始める1700年位なら、北前船就航と重なる。
収奪らが記録される寛政元年蝦夷乱(国後目梨の乱)が1780年前後。
この辺迄で④⑤に想定出来るだろう。
天保大飢饉らで寒冷化著しいなら、漁獲資源低下も起こり得る。
⑥が明確になるのは、第二次幕府直轄時とすれば1850年前後。
そして、ロシア南下が問題視されるのは1750年頃。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/145700
我々が主張する、北方系文化色濃く言葉も通じない人々がその当時に労働者層として入ったであろう…これと全く矛盾が無いのを解って戴けたであろうか?。


上記の通り、「交易を生業にした民」と言い続けると稚魚放流らを行わないと資源枯渇を起こしてして当然なのだ。
何故なら日用品を購入する為の「代替貨幣」だから。
交易せず、日用品は全て自作したとしても、農業を知らず植林もしない…いずれは山枯れを起こす。
アイノ文化が「持続可能な社会」の象徴なぞと言う話は、上記を見て戴ければ「絵空事」だと解る。
史実を並べていけばそうなる。

とは言え、これも所詮断片に過ぎない。
但し、これなら、アイノ社会のヒエラルキーや、明治での教育による安定化(職業選択の自由含む)等、数値で表された内容とも一致し、何故アイノ社会が本州と同化&崩壊していったかも説明可能。
こんな風に捉えれば解りやすいかも。

・場所請負が肥大化する中で、正規社員になった「新シヤモ」は収入確保で一抜けた…
・酋長の元で非正規雇用された者は取り残されたが、「旧土人保護法」で守られて後、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440
教育を受けて二抜けた。
では、最後に残ったのは誰?


と、言う訳だ。
巷では、弾圧が~、収奪が~とその有無のみを有っただの無いだの議論しているか、
これで我々は江戸期の「システム上の欠陥」「労働環境」ら背景から紐解いてみた。
「良い人と悪い人が居て、悪い人が良い人を虐げた」…ここには、そんな単純な構図は無い。
起こるべくして起こり、収束すべき所で収束し、無くなるべくして無くなったと言える。
二元論で説明出来るハズもない。

歴史に聖邪無し。
在るのは必然のみ。





参考文献:

「新北海道史 第一巻通説一」 北海道 昭和45.4.31

旭川市史」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10

新旭川市史 第一巻通説一」 旭川市史編集会議 平成6,6.15