「亘理小史」に記載された古代~中世の亘理…伊達氏の海への到達と「九曜紋」「内耳土鍋」と言う断片

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/21/072428
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
またもや備忘録として。
前項二つの断片として…
南朝方として関東から北上した伊達氏は、陸奥湾の野辺地を飛び地として受領した…
・後世に千島に伝播された内耳土鍋の主な生産地は、その当時の伊達氏領(米沢~会津)と被る…
この二点。
伊達氏が登場…とは言うものの、時代も背景もまるで違うので、直結するハズも無し。
陸路なり海路なりが通史として途中の時代で繋がっていかなければ何の意味も持たず。
話のとっかかりとしてどうのか?少し探ってみよう。

ところで…
米沢~会津から北上するとなると、
奥羽山脈の西、置賜→村山→最上
奥羽山脈の東、亘理→仙台→多賀城
か。
と言う訳で、手持ちの資料「亘理小史」から平安~中世の流れを少し学んでみよう。


平安期から…
「十一世紀の中ころの永承六年(一〇五一)、陸奥国奥六郡(岩手県中部の岩手・紫波・稗貫・和賀・江刺・胆沢の六郡)を支配していた俘囚の長安倍頼時が、国司の命に従わず乱を起こした。」
源頼義陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられて蝦夷を追討したが、この乱をしずめるのに十二年もかかった。まず頼義とその子義家が悪戦苦闘の末、出羽の俘囚の長である清原武則の協力を得られて、かろうじてこれを平定した。前の九年間の戦いを前九年の役といい、この時頼時の子貞任は戦死(筆者註:この貞任の子の光星が後の安東氏の祖とされる)し、弟の宗任は一旦逃げたが遂に降参(筆者註:この宗任が九州に流され平氏,松浦水軍と結びつく。現代では安倍元首相の祖と伝わる)し、また頼時の娘を妻としていた藤原経清は、捕らえられ首をはねられた。」
「この藤原経清という男は、亘理権太夫と呼ばれていて、実際に権太夫の官職についていたかどうかは不明だが、亘理地方の豪族の出で、神宮寺(逢隈神宮寺)で幼時をすごしたのではないかと推定されている。」

「亘理小史」 亘理町史編纂委員会 平成2.10.1 より引用…

元々、亘理には郡衙が置かれ(三十三間堂遺跡ら)、周辺は俘囚の地。
この「藤原経清」こそ、安倍時頼,貞任が起こした前九年の役で、安倍方につき敗れた人物。
いや…というより、奥州藤原初代清衡の実父と言った方が早い。
前九年の役後、藤原経清の妻は清原氏へ逃れそこで再婚したが、藤原清衡は謂わば連れ子。
後三年の役では、最後に藤原清衡と異父弟の清原家衡の所領争いになり、源義家が加勢した藤原清衡が生き残る。
藤原清衡にすれば、亘理は実父の所領と言う繋がり。
勿論、ここに住む民衆や土豪は俘囚=陸奥蝦夷(エミシ)の末裔になる。
思えば、ずーっと下り戊辰戦争も含め、国府多賀城(戊辰戦争では仙台)から見れば、亘理は最終防衛線。
ここを突破されれば一気に多賀城(戊辰戦争では仙台)へ大軍が雪崩れ込む要衝でもある。
江戸期に伊達政宗が仙台へ入った時に、亘理に従兄弟である伊達成実を配置したのには、最も信頼する人物の1人であったからと察する事は可能。


時代は下り、鎌倉…
源頼朝に帯同し奥州合戦に参戦した「千葉常胤」。数々の武勲を上げる。
・千葉常胤は、三男の「武石胤盛」を亘理,伊具,宇多三郡の地頭に据える。
・武石胤盛は代官をこの三郡に送り統治。
・その曾孫「武石宗胤」が1302年に本領武石庄から亘理に入る。
・その曾孫「武石広胤」は1339年に武石→亘理と改めて「亘理氏」成立、この時のは北朝につく。
・その子「亘理行胤」は1381年、北上する南朝伊達宗遠を防ぐが破れ、伊達の軍門へ。
・後、勢力を伸ばすが、1500年前後に九代後の「亘理宗元」は完全に伊達氏麾下に入り、伊達種宗、後に輝宗,政宗に仕える。
伊達政宗岩出山へ移る時に宗元の子「亘理重宗」が伊達政宗の命で、亘理→涌谷へ移る。ここで「涌谷伊達氏」か成立。
前述の通り、空いた亘理へ伊達成実が配置される。
実は途中、跡目問題らもあり伊達氏から養子を得てるので、涌谷へ移った時に「伊達姓」を名乗る。
ここまでが亘理小史にある非常に簡単なストーリー。
中世で亘理を統治したのは「千葉庶流武石氏=亘理氏=後の涌谷伊達氏」。
千葉庶流なので家紋は「九曜紋」。
家紋コレクターでもある伊達政宗は、ここで「九曜紋」を裏紋として使える様になった様だ。
何故「九曜紋」に拘るのか?
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190759
貞治の板碑は北朝元号で「九曜紋の副葬」。
これが武石氏=亘理氏と直結させるのはNG。
だが、可能性がある人々をズラリ並べねば、謎なぞ解けない。
そして、九曜紋を持つ武石氏=亘理氏は、1381年以降は伊達氏の影響を受け得る。
さて前項…内耳土鍋は、この時代の伊達領で作られ伝播。
亘理を経由すれば、陸路だけでなく海路でも運ぶ事は可能かも。
不思議と内耳土鍋の後、1500年前後辺りから伊達氏は勢力上げ、奥州探題に就いたり南東北の盟主的存在に成り上がっていく。


因みに…
同書には武石氏の系図があり、千葉常胤の息子達は、
・長男…胤政→千葉氏宗家
・次男…師常→相馬氏を継ぐ
・三男…胤盛→武石氏→亘理氏→涌谷伊達
・四男…胤政(胤信を誤植?)→大須賀氏
・五男…胤道(胤通を誤植?)→国分氏
・六男…胤頼→東氏
だそうで(一部諸説あり)。
中でも「国分氏」は後の戦国の国分氏とは繋がっていない説もありとか。


さて、施政者は代わるが、そこに住んでいた民衆,土豪は代わりなし…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/01/115401
いくら統治者が勢力を上げ、合戦に向かおうとしても、その資金を稼ぎ出すのは民衆の生産力による「経済力」。
ここが我々的に抜く事が出来ない視点。
で、上記の様に民衆はずーっと俘囚の末裔且つ繋がりを持ち経済活動をしている事は間違いないであろう。
亘理を通じ、典型的ランドパワーの伊達氏は海と接続された。
これなら、もっと北、大崎や南部の直接の邪魔を避けつつ、海路での経済活動の可能性は開ける訳で。
まだこれは小さな断片の一つに過ぎない。
故に備忘録。
ゆっくり学んで行こうではないか。



参考文献:

「亘理小史」 亘理町史編纂委員会 平成2.10.1