北海道の対岸の状況はどうだったのか?-2…浪岡町に検出される「円形周坑」「環濠」そして「防御性集落」の片鱗

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
さて、青森フィールドワーク第二編である。
本命の野辺地に向かう前に浪岡町に立ち寄る。
ここには中世北畠氏居城の浪岡御所(浪岡城)があり、「中世の館」と言う歴史民俗資料館でその遺物らが公開されている。
改めて館員さんに尋ねたが、ここにもやはり積極的に「調理場」と判断出来る場は無いようだ。
箸や内耳鉄鍋,漆器椀、おびただしい陶器片が出ているが、五徳や自在鉤勿論竈も無し。
但し、井戸はあるので、城内で調理はしたと考えられるのだが…

が、むしろ今回注目するのはその前、平安期の高屋敷遺跡や野尻遺跡。
昨年訪れた時の高屋敷遺跡。


概ね10世紀後半~11世紀の所謂「防御性集落」「環濠集落」と言われるもの。
製鉄遺構や井戸跡らを伴い、外周に土塁と堀を巡らした物。
浪岡町史によると、これらには3タイプあり、
①外周から、土塁→堀→郭(居住区ら)となるもの…
弥生期の環濠集落(吉野ヶ里遺跡ら)と共通し、より軍事的防御的意味合いが強いと思われる
②外周から堀→盛土(又は無し)→郭となるもの…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/02/203302
伊勢堂垈遺跡の中世空堀の様なタイプも含み、集落や建物を空堀らで囲う、又は舌状台地の先端に空堀を施し郭として切り離したタイプ。
③山の山頂や尾根筋を削平し建物を建てる…
高地性集落と呼ぶべきか?、あまり堀や土塁は発達せず、岩手に多いと述べている。
①の行き過ぎた例が、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/18/074550
清原氏の居城「大鳥居山柵」だろう。
下手な中世山城より遥かに巨大。
実際①~③が融合発展し、中世山城へ辿り着くのだろう。


さて、本題。

実は「高屋敷遺跡」→野尻(3)→野尻(2)→野尻(4)と遺跡が連続的に接している。
野尻(4)は、外周を環濠で囲まれており、内部に住居跡らが整然と並ぶ。
同様に溝が野尻(2)→野尻(3)と続き、それぞれ若干だが運用時期が異なる模様。

野尻(4)…9世紀中~10世紀中
野尻(2)…9世紀前~10世紀前
野尻(3)…9世紀前~10世紀後
高屋敷 …10世紀~12世紀初

環濠集落→土塁,堀を持つ防御性集落へ変遷していく様が見える。

特徴的なのが建物。

・第1期
9世紀中まで…竪穴住居の集落
・第2期
9世紀中(B-Tm降灰前)頃…円形周坑が出現
・第3期
9世紀後(B-Tm降灰後)後…竪穴+掘立+外周坑らの集落
・第4期
10世紀後半…外周坑は消え竪穴や竪穴+掘立へ
そして、これに前後し高屋敷遺跡造営…
こんな変遷を辿る。
この円形周坑や外周坑とは何か?


まず建物を伴う「外周坑」は?


『季刊考古学131号』 「竪穴・掘立柱併用建物」 高橋学 によると、周坑を伴い且つ竈の方向に掘立が付く物(表中のH1)が、日本全体の75%をしめ、特に青森に集中している用だ。
竪穴・掘立柱併用建物自体は、朝鮮半島→北陸→海を東北へ北上の系譜が見られる。
また、それとは別に、陸路の北上も見られる様で、それは竪穴に対して側面に掘立柱がつくタイプ。
このタイプが、秋田,岩手に到達するのと払田柵,城輪柵,紫波城,徳丹城らの新設,改修らとほぼ一致し、やはり38年戦争らに対応する為の人の北上の影響を受けるのだろう。
又、竪穴+掘立+(外周坑ではなく)周堤の組み合わせは、青森北東部~北海道にほぼ限定されるとの事。
周堤に関しては、

「周堤を伴う竪穴建物は~中略~8棟である。」
「SI04は第一号鍛治工房であり、~中略~カマドや主柱穴はは確認できず、建物の北東部から金床石や鍛治炉が検出された。周堤は、南東隅が幅約1mで開いている入口部分以外を全周する。」
「北東隅には、長軸2.5m、深さ1.5mの円形の土坑が存在し、…
…これは排水のための土坑と考えられた。」

『季刊考古学第131号』(株)雄山閣 「周堤が発見された竪穴建物」 吉田博行 2015.5.1 より引用…

古墳期の福島県の事例。
この通り、鍛治工房等に関係した検出例がある。


では円形周坑は?
これがよく解っていない。
何せ遺物が少なく、ハッキリ断言出来る要素がまだ解らない様だ。
一応、野尻(2),(3)遺跡の考察では、第1期の建物の使用が終了後に第2期として円形周坑を造営した形跡があり、墓域として設定し、この後に円形周坑内部に終末古墳の様に墓を作ったのではないかと推測している。
SNS上での話の中では、
・中世頃まで存在する事…
https://twitter.com/F34fC9F4NEMW5e2/status/1451496506771398660?t=RMsDMqbHWWVQvzhX0J8LOg&s=19
・周坑は道南にもあり。弥生頃の倭国大乱の関与?
https://twitter.com/YoshiHR2/status/1451530127200845833?t=xEYp448mzKXvzSqbPbDWAA&s=19
・周坑は全国規模
https://twitter.com/F34fC9F4NEMW5e2/status/1451730689582243842?t=XPSctB3nzM0R1Oj0Pcqeeg&s=19
らをご教示戴いた。
F34fC9F4NEMW5e2ファンガンマ様、
YoshiHR2様、ありがとうございます。

上記の通り、製鉄,鍛治が拡散した段回では元々は自給自足の方向だったのだろう。
それ以前は朝廷らの抱え込み。
東北では元慶の乱があるので、拡散は一気に進み、抱え込みの工人も、土豪らに合わせ拡散したと考えられる。
製鉄工房では、祭祀を行った形跡がある。
これは江戸期でも鍛治神への信仰として継続されており、祭祀用を示唆する土製品の出土があったりする。
又、円形周坑内や接続された溝には、墨書,刻書土器片が検出され「井」「+」「//」らを施したものがある。
これらの発掘調査報告書では「臨兵闘者皆陣烈在前」…九字の呪文やその簡略系?とも考察している。
病気やトラブル時での祓いとなる。
箆彫りしてる=予め作ってある事になり、
そこには、呪文を使う修験者や陰陽師が居た事になる。
実際、

野尻(3)遺跡,写真通り高屋敷遺跡では、仏具や錫杖状鉄製品が出土している。
ここでも修験道や仏教の痕跡はある。
そして、これら一連の遺跡から北上すると五所川原の「須恵器窯跡」に至る。
土師器でも擦文「系」土器も出土…
出来すぎ位に臭わせる。

何故、こう周坑らに拘るか?
奥尻島「青苗遺跡」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141
厚真町「上幌内モイ遺跡」…

実は、北海道での周坑や円形周坑の事例を知っていたから。


如何だろうか?
これが、津軽海峡の対岸、多くの須恵器を北海道へ送り出した「五所川原須恵器窯」に程近い遺跡の実態。
更に、青苗や余市で出土した「+」を刻印した擦文土器も、まだアイノ文化創生前の実績と上記を重ねてみれば、後の「シロシ」より、こちらの方が近いとも解釈可能な訳だ。
仮に、アイノ文化が擦文文化から継承された物があると言うなれば、擦文文化期に既に、修験道,陰陽道,仏教らが到達し影響を受けている事を認めねばならない。
何せ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/04/192707
これだ。
勿論、断定はしないし出来ない。
何せ、それぞれのアイテムは元々の修験道らの使い方とアイノ文化では祈祷なりの要素は共通だろうが、使い方が違うのは以前から指摘している。
何らか変遷を遂げる合理的な理由が必要となる。
が、わざわざ北方へその起源を求めずとも、対岸の青森,秋田,岩手でかなり揃ってしまうのも事実。
前項での、弥生の痕跡,古墳期の欠片,朝廷への訪問と阿倍比羅夫派遣,秋田城築城前からの終末古墳,秋田城,五所川原からの須恵器の搬入…
特に問題もなく、本州から渡った人々の痕跡と言う事で、上記の流れは殆ど説明可能…と言う訳だ。
この辺は、平安(擦文)期の話である。
まだアイノ文化は創生されてはいない。
再び…
北海道と東北は古代から繋がっている。
それが途切れた事は無い。
人の移動も物の移動も、全て必然である。
伝わった片鱗は見える。


この流れで近世までに北海道では、
文字を失い…
土器作りを忘れ…
鍛治仕事を無くし…
履き物さえ止め…
紡績さえしなくなり…
宗教まで霧散する。
そんな事が有り得るのか?
どうやったらそうなったのか?
これに対する合理的且つ物証を伴った説明が出来る者は、まだ居ない。
誰も出来てはいないのだ。

付記…
さらりと流したが、錫杖状鉄製品を示した写真の中央上付近の土器1,2が見えるだろうか?
「内耳土器」がある。
外見は土師器の様だ。実は浪岡の「中世の館」で展示されている。
そういえば「内耳土鍋」の出現は?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
これはずっと後。
と言う事は、第一波?
推論はここまで。



参考文献:

「浪岡町史 第一巻 」 浪岡町 平成15.3.15

「野尻(2)遺跡Ⅱ・野尻(3)遺跡 発掘調査報告書」 青森県教育委員会 平成8.3.31

「野尻(4)遺跡 発掘調査報告書」 青森県教育委員会 平成8.3.31

「野尻(3)遺跡 発掘調査報告書」 青森県教育委員会 平成18.3.29

厚真町 上幌内モイ遺跡(2)」 厚真町教育委員会 平成19.3.27

『季刊考古学131号』(株)雄山閣 「竪穴・掘立柱併用建物」 高橋学 2015.5.1

『季刊考古学第131号』 (株)雄山閣「周堤が発見された竪穴建物」 吉田博行 2015.5.1