この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
旧「旭川市史」から近世,近代の状況を書いてきたが、折角なので他書でも検証してみよう。
この際、アイヌ協会のリーダーの主張を聞いてみて、それとどうなのか?が解れば真実味も増すと言うもの。

「吉田菊太郎」翁をご存知だろうか?

幕別町議会議員
十勝旭明社理事
北海道アイヌ協会(戦前)理事長
北海道アイヌ協会(戦後)副会長
十勝アイヌ協会会長
北海道アイヌ文化保存協会会長
etc.
昭和16年納税功労者
表彰記載あるだけで8件
こんな経歴の持ち主で、幕別町白人古潭のリーダー、当然アイノ文化を持つ方々のガチ末裔。
その方が、「アイヌ文化史」と言う著書を出している。
写真は、旧土人保護法改正を陳情するために東京を訪れた時国会議事堂で写したもので、同書の巻頭写真のトップを飾る。
そこから彼がどんな想いで活動していたか?を見てみようではないか。


まずは「序」章から。

「あいぬという概念は厳密に之を謂うなれば、正しく過去の「あいぬ」と「現在のあいぬ」とにかく区別せられるべきであるに、稍々ともすれば過去と現代を混同視され勝ちてゐることと、誤れるアイヌを見世物扱にする悪徳行為を敢えて行う者も少なくないようであります。
依て茲に昔と今のあいぬ生活の相違点を指摘して、世の人々の宜しき御理解を得ようと考えたのであります。素より浅学非才、之が満足に綴れさうもありませんが、若し此の小書によつてアイヌ人に関することが少しでも御理解戴ければ同族な幸いと存じます。 著者 吉田菊太郎」

アイヌ文化史」 吉田菊太郎 昭和33.5.18より引用…

「二つのアイヌ」…
これを踏まえて以下を読んで戴きたい。


①旧土人保護法をどう考えていたか?

「故内海勇太郎翁
幕別町の白人部落は今より二百年前に既に十数戸のアイヌが住んでゐた。~中略~其間明治八年の大津に於ける共同漁業にも加入し、明治十八年には札幌県庁の農事授業係に土地を貸与せられて細々と煙を立てゝゐた。然し農耕地は爾来投げ捨てて顧みず諸所にさまよつてゐる中に段々和人が入込んで来て、さきに貸与された土地ををば和人が窃かに附与を出願し、中には既に附与の指令を受けた者すらあつた。此の有様を眺めた当時共有財産の会計係であつた内海勇太郎は、こは土人の為めに一大事と、明治二十九年二月一日に其筋に対し旧土人給与地予定地願を出願したのである。而して給与地に対しては和人が手を下す事の出来ない程度に法律上の制限を附して貰ひたい旨を附け加えて出願した。同年四月に願の通りに白人古潭に於て最も良い土地を貸与された。斯くして内海氏の出願した給与地制限の陳情は之が導火線となつて、其後明治三十二年に北海道旧土人保護法が生れ全道に亘り旧土人に土地を給与されるようにたつたのである。してみると内海氏の功績は単り白人古潭の土人のみでなく、全道土人の為めに多大な福音をもたらしてゐる事を認めねばならぬ。」

アイヌ文化史」 吉田菊太郎 昭和33.5.10 より引用…

これは、「あいぬの恩人」と言う章のトップを飾る人物として「内海勇太郎」翁を挙げていてその功績を紹介したもの。
先の旧旭川市史の内容、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/08/204935
これと概ね合致する。
これで、当時の当事者、役所側(旧旭川市史)と旧土人保護法対象者(吉田菊太郎翁)の双方の評価が揃った。
当事者達は、旧土人保護法により、地上げ屋の横行を止める事が出来た…としており、旧土人保護法の内容が差別の元などとは考えてはいない。
これが昭和30年代の生の声。


松前藩をどう考えていたか?
又彼の歴史観,民族観は?

「(交通機関発達の遅れや織豊~江戸初期の状況、渡島半島蝦夷地の居住分離を記載の上)想うに当時に於ける蝦夷地の事情としてこの外に執るべき他策なかりしとは云へアイヌ人の同化向上の見地より視る時は洵に遺憾此上もない事であつた。夫れ若し当時にして松前氏が同化政策を行はゞ今日に於てはもはや特殊保護制度などの必要がなかつたかも知れない。然れ共政治は時代の実情に応じて執り行はるべきものであれば吾々は決して其の結果のみを見て施政の可否を断定するものではない。即ち夫れ化外の区域に於て異民族を対象として苦辛経営、国家肇造の上に貢献したる松前氏歴世の努力と功績に対しては満腔の敬意を表すものである。要は是れ松前氏が化外の地を開いて本道統治を創建する過程に於て已むなく執れる蝦夷の非同化政策が其の結果として同族を文化に遅らしめ低脳種族たるの代名詞を附せしめるに至つた事を識者に知つて貰えばよい。」

アイヌ文化史」 吉田菊太郎 昭和33.5.10
より引用…

これが吉田菊太郎翁の「松前藩に対する評価」。
むしろ同化政策をやるべきだったと記す。
但し、政治状況鑑みれば難しい事も付記しつつ彼は松前藩に敬意を持っている。
実態はこれ。
実際の処識者等から文化が低い,能力不足との風潮はあったのだろう。
我々が捉えている限りでも、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329
「アイノ=縄文説」らで大騒ぎであったのは解っている。
文化程度が低い…とは言え、それが同化政策が行われる状況に無かった為と考えている様だ。
それは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440
これで逆説的に証明されている。
追い付いたではないか。
要は貧困と教育の問題。
これも当然。
そして解消された。
松前の弾圧のせいだ…なんて吉田菊太郎翁は一言も言っていないのだ。
それどころか…

「文字なき処そこには学問が起らず学問なき社会に文化の向上があり得ない。従つてその生活も単純素朴、人間として特有の精神世界の一面が比較的働かない為に往時同族には自殺というものがなかつた。尤も奥羽の夷酋長安倍氏、清原氏藤原氏、或は本道のコシャマインシャクシャイン等の如く日本文化を吸収し社会的にも精神的にも日本人に同化し終つたものは別として。」

アイヌ文化史」 吉田菊太郎 昭和33.5.10 より引用…

驚愕…
コシャマインシャクシャインも同化終了していたと考えていたとは想像外。
マスコミや識者等が勝手に当事者抜きで空中戦をやってるのだから。
如何に生活環境改善を考えていた証左と捉えるのはどうだろう?。
因みに彼の歴史観,民族観は、本州から独立したものなぞではない。
畿内より東日本全体に住んでいた「蝦夷」と都から言われた人々の末裔の内、北陸→関東→東北と同化が進む中で津軽海峡を挟む故に、最後まで同化が遅れた人々…と言ったニュアンス。
北方の話は一切出て来ない。
エミシに含まれると考えていた様だ。
こんな歴史観も、松前藩の弾圧の話も、協会らの主張を時系列で追えば、何時から言い出したのか?解るかかと考える。


③吉田菊太郎翁が最も言いたい事は何か?
これは、「アイヌに対し正しい理解を」と言う章に記載がある。

アイヌと、それは未だに熊と交渉を持つて文献の示すが如き原始的な生活を営んでいるものと想像し今でも男は楡の皮で織つたアツシ織なるものを纏い女は口辺に入墨を施し熊祭りの行事を営み鮭や熊の肉を主食物となしひまあればユーカラ(神話)ウポポ(民謡)を誦し合いて老も若きも例外なしにアイヌ語の中に生活しているものと思い込んでゐる者も少なくないと云う。然しながら実際はどうであらう。成程いまだに旧套を脱し切れないものも有るにはあるがそれは数のうちではない。普通に所謂アイヌという概念は厳密に之をいうなれば宜しく過去のアイヌと現在のアイヌとに区別せらるべきである。人類学的には両者は勿論同一であるにせよ各々を支配さる文化の内容は全然異なる。前者は悠久な太古に尾を曳く本来のアイヌ文化を背負つて立つたのに対し、後者は侮辱と屈辱の付きまとう伝説の殻を破つて日本文化を直接受継いているだから過去のアイヌと現在のアイヌとの間に厳然たる区別の一線が認識されなければならないのである。普通にアイヌ生活とかアイヌ民族とか云へば必然的に過去のアイヌ生活や習俗を意味すべきなのに兎角現在のアイヌのそれの如く誤解され勝ちなのは当然に区別されるべき二概念がアイヌなる一語に依て漫然と代表せらるゝを実に遺憾に堪へない。このように過去と現在を区別してアイヌ人を見る人が幾何あろうぞ之がアイヌに対し理解に乏しい者の中にはアイヌを利用して金儲けをする輩も少なくないといはれ、此の事に就てはアイヌ自体も誤つてゐるからである。過去の事ではあるが自業宣伝のため或は興業師等がアイヌを利用し観光其他に於て自他共に訳も判らぬ出鱈目な表現や振舞をさせ観客を欺く事を敢て行うという。激しい生存競争の敗残者として家財を失ひ土地を離れて転々流浪の者も少なくないが、それは独りアイヌばかりでなく何れの国、何れの民族にもあることながら、欺る放浪的アイヌをして全体のアイヌそのものゝ如く誤解され易い行事は慎むべきであらう。時は絶えず流れ世は限りなく進展し行く。丸木船で渡つた渡場には永代橋が架り、駄馬が汽車に、駕篭が自動車、飛行機に変り、文化は刻々と進む。人は殖えて地は峡く遂に星の世界に宅地を求めて天国に暮らさうとほゝ笑んでるものさへあり、アイヌ人の多くも現代文化の波に強く竿さし而して遅れ馳せ乍らも日本文化の線にゴールインした者が多い斯くて最早、ろぶちを叩いて夜もすがら謡いあかし聴きあかす生活は夢と化し熊の頭を飾つて踊り狂う生活に至つては夢のまた夢と化してしまつた。新しい社会に於ける経済生活の圧力や滔々として流れ込む物質文明の眩惑は彼等をして古きものを顧みるに遑なからしめた。生活のあらゆる部門に至つて 「古潭の生活」は完全に滅びたといつてよい。僅かに残つている数人の老女たちですら今では全く和人化してハイカラ姿と綽名で呼ばれるほどにモダン化し若きは洋装に老いは和服を纏い柾葺白壁の窓多い明るい住いに毎日欠かさず新聞を読んで新しい知識を求めてゐるのである。おそらく内地人の想像さえ許さぬ同化振りではないか。

××××××

自由平等友愛の
旗幟は高く掲りけり
旧き衣は脱ぎ捨てて
和人土人の区別なく
水平線の只中に
同化向上の一線を
いざ活き抜かん同胞よ」

アイヌ文化史」 吉田菊太郎 昭和33.5.10 より引用…

敢えて全文引用した。
正直に書くと、道史、市史、調査報告ら北海道で発行された文章の中で、最もすーっと気持ちの中に入ってくる文章。
違和感無し。
アイヌと一括りにしてもムダ、古いアイノ文化など幻想で、既に新しいアイノ文化になっていると言った感じか。
そう、特別なものでなく、普通に暮らしたいだけ。
やっとそれが手に入ったから、普通に静かに暮らしたいだけ。
そう思える。

やはり古いアイノ文化を知っているからか、観光アイノによる「文化の切り売り」には我慢ならないのだろう。
それが、二つのアイノの意味。
まさか、自ら滅びたとしたものに戻そうなぞ考えていないし、それはそれで保存しようと、文化保存協会を立ち上げて、自ら資料館を作り納めた…一つ目の古いアイノとして。
終わりに付記した詩がなんとも前向き。
同胞を鼓舞し、共に歩む心意気と読める。
どうだろう?
現在行われるアイヌ施策とは、有る意味真逆かと思う。
最早、吉田菊太郎翁は何も求めてはいない。
和人もアイヌも既にない。
彼のアイデンティティは「日本人である」
事。

これが戦前のアイヌ協会理事長、戦後協会副会長である吉田菊太郎翁の本音且つ、知って欲しい事。



参考文献:

アイヌ文化史」 吉田菊太郎 昭和33.5.10