ゴールドラッシュとキリシタン-27…様似町史に記された「黄金伝説」は「キリシタナイ伝説」だけに非ず

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/15/203519
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/24/111811
前項をこの辺に。
そして、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225
このゴールデンロードを踏まえて戴ければ、よりぶっ飛ぶ楽しさが得られるだろう。

結論から書くと、入手した「様似町史」を読んでみると驚愕する。
様似町一帯で「黄金伝説」があり、「キリシタナイ伝説」はそのたった一頁でしかなかった。
一帯に砂金場の伝承や、実際に後世に金が掘られており「黄金の街」の片鱗が見えてくるのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/29/125457
以前「音更町史」にダメ出ししたが、ご多分に漏れず「様似町史」においても、有史時代は幕藩時代からで、その前は僅かな考古実績とアイノ伝承がパラパラ記載があるに過ぎない。
ただ、その中から「黄金伝説」を抽出していくと、面白い…いや、恐ろしい事が浮上する。
我々的には、何故そんな発想にならぬのか?甚だ疑問なのだ。
では、様似町の黄金伝説の項、進めてみよう。

Ⅰ…地下資源の視点
「金鉱床:海辺川上流部に古くから知られる金石英脈があって、細脈であるが、造山帯の中心部にはこの種の例が多く見られる。日高山脈の各所から知られる砂金はこうした石英脈から流れた金粒であるとみられている。」
「水銀鉱床:新富および田代の二ヶ所に知られている。前者は日高層群中の石灰岩中に鉱染しており、これより北西方向に点在する石灰岩中にしばしばみられるものである。自然水銀と辰砂(Hgs)をみる。田代鉱床は新第三紀造中にあり、方解石脈中に少量の辰砂をみるものであるが、その周りに自然水銀を沁みこませている。」

「様似町史」 北海道様似郡様似町長 留目四郎 様似町史編さん委員会 昭和37.11.3 より引用…

海辺川上流、これが東金山金山の鉱床になる。
石英脈なので、宮城の涌谷は黄金山と同じ様に川筋で砂金と石英(水晶)を見付けられれば、それを遡れば元の鉱脈が追えるのだろう。
と、いきなり水銀。
つまり、精練に使える基盤が揃っているのだ。

Ⅱ…アイノ伝承からの視点
「22 シャモマナイの金の杯 むかし、シャモマナイの上手から金の上手が流れてきた。これを拾った和人はそのまま姿をかくして行方不明になった。 註 シャモマナイとは、和人のいた沢の意で、いつの頃のことか判然としないが、砂金掘りの和人がいたといい伝えられている。」
「31 埋められた黄金の舟 むかし、ニカンベツの川辺のコタンに黄金の舟を持っていたアイヌがいた。アイヌは、兇悪な同族がやってきてそれを持って行くのではないかと、心のやすまることがなかった。それで思案の結果妙案を思いついた。黄金の舟を土の底に深く埋めておくことであった。その後、この舟はまったく地上から姿を消してしまった。」

「様似町史」 北海道様似郡様似町長 留目四郎 様似町史編さん委員会 昭和37.11.3 より引用…

二編記載ある。
金の杯は佐波理の銅碗っぽいとも言えるが。
黄金の舟にある様に、様似の伝承には、妙に宝の奪い合いや様似アイノを攻める十勝アイノ…の様な話が複数残る。
概ね、エンリム岬のチャシが極悪酋長又は十勝アイノで、観音山&塩釜に聡明な酋長又は様似アイノが布陣し対峙するもの。
この話には複数バージョンがあり、概ね聡明又は様似アイノが、砂で鯨形のダミーを作り、獲物だとエンリム岬チャシから捕りに行く隙にチャシを陥落させて平穏が保たれるパターンが多い。
勿論この伝承を鵜呑みには出来ない。
何よりアイノ伝承には時期を示すものがないと言う致命的な部分があり、他の古書らとの整合性が取れない。
広義で、砂金が豊富に取れた事を示すかも知れない程度ではある。
ここで、シャモマナイと言う地名が登場する。
道庁時代の地下資源の章に、ポロナイ、つまり海辺川の支流で砂金が採れ、支流には砂金があるが一小分水嶺を隔てると砂金はないとの記載がある。
因みに、ここには註釈があり、
「明治四十年頃、岡田村の山村久二(矩平の子)が、その子久造とともにこの川の採金を試みたとき、河床から松前家の定紋あるカツチヤの破れたものを発見している。このことから、松前藩の砂金採取場であったことが確証される。」…とあり、場所により、藩が砂金採りをしていた事になる。
カツチヤ→カッチャとは、シャベル型の鍬先を持つ小型の鍬の事。
これ、資料館らにないものか?

Ⅲ…実際の地下資源開発実績の視点
①東金山金山
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これが様似金山の事で、1635年開山の記録が残り、寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)後に隠され閉じられたとされる金山の事。
が、ここは古書だけでなく実在が証明されている。
1905(明治38)年に様似の糸井弁吉により採掘され、この時の3~5号坑道で江戸期の坑道に行き当たったとされる。
つまり東金山は、砂金を採ったのではなく鉱脈を掘ったと言う事になる。
そして、海辺川河口付近のキリシタナイ付近がこの当時の居住地や盛り場の様で隆盛の中心地だったと記載ある。
現在も坑道跡は幾つか残っている様だ。
②ブュニの砂金場
明治末に河口の畑地を買い占め、一時砂金景気あったとされる。
だがはっきりした記録らがない様で、あっても3~4年程度の短期とされる。
ブュニは、様似の町の西側、冬似川河口になる。
③シャモマナイの砂金場
Ⅱの通り。松丸藩(又はそれに近い者)の砂金場と考えられる。
物証が出たなら固いだろう。
④様似川の砂金場
「ボンヤモツベ」で大正期に砂金床を発見した記録はあるが、産出金額らは不明。
⑤カネカラウシュナイの砂金場
カネ(黄金)・カラ(採る)・ウシュ(多くある)・ナイ(沢)の意味だそうだ。
海辺の小川だが、1857(安政4)年に砂金採取開始の記録が残る。
明治にここに入植した方の話では、水源に枡形の古水槽が埋められていて水汲み場になっていて、付近開墾時には鍛治で出るかなくそ(鉄滓)がたくさん出たと言われる。
カネカラウシュナイの場所は、旧東邦電化(現日本電化)の海側と「改訂 様似町史」に記載ある。
つまり様似町中心部の東側になる。
⑥日高水銀鉱
Ⅰの通り。
新富で水銀鉱床の開発の記録あり、水銀だけではなく金銀も多少採掘したとの事。
明治34~昭和30年位まで、採掘者が変わりながら行われた様だが、採算はなかなかとれなかった様だ。

と、言う訳で、様似町中心部の東西海側一帯で、金を採った記録が残されている。
キリシタナイ&東金山だけではない。
実際の採掘もペイしないなりに、近代まで砂金はあった様だ。
全く根拠無く掘り出そうとした訳ではないだろう。
伝承を信じやってみたら採れたので…と言う感じではなかろうか?
砂金の場合、当然時代を遡ればもっと採れた事も予想可能。

改めて…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/24/111811
様似町史では、村を開発に関与した人物伝としてそのトップに「児玉喜左衛門」の名を載せる。
実際にどうかは不明ではあるが、様似が歴史(古書上)に登場するきっかけが児玉喜左衛門であるのは今のところは間違いなさそうである。
鉱山あるところにキリシタンあり。
全く否定するには、後に金産出と言う事実もある。
更に場所も冬似川~海辺川一帯~様似川~シャモマナイ…観音山の北に位置するキリシタナイ(西町~潮見台)が隆盛の中心地となれば、正にど真ん中且つ港の直ぐ側であり立地的には全く矛盾が無くなる。
また、エンリム岬の付け根付近で、甲冑の一部とされる物が出土されているとの事。
合戦伝承だけでは無いようだ。
確かに、エンリム岬と観音山に砦を作れば、ほぼ海側の監視は可能だろう。
更に、観音山の北側には、余市に似た石垣と思われる箇所もある模様。

史実は「解らない」。
だが、「黄金の街」を思わせるところは随所に残る。
その片鱗は感じられると言わざるを得ないだろう。




「様似町史」 北海道様似郡様似町長 留目四郎 様似町史編さん委員会 昭和37.11.3

「改訂 様似町史」 北海道様似郡様似町長 谷崎敏夫 様似町史編さん委員会 平成4.8.31

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